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あるピアニストのための楽曲  作者: 今日子
第一幕 《逝ける王女に捧げる舞踏曲》
7/34

fünf

「エド、そちらの方を紹介して下さらない?」

 艶を含んだ、しかし毒と退廃感をまとった声音である。艶やかな黒髪を複雑に編み込み、瞳の色と同じ深緑色のドレスを身にまとったイングヒルト嬢だ。肉感的なのに腰は驚く程細く、喋る度に唇の右下にあるほくろが動くのが淫靡な印象だ。後に聞いた話だが、男性とのその手のお付き合いも盛んらしい。

 とは言っても、コンラート然り、貴族というものは恋愛事情が派手だという認識をアレクは持っていたため、特に驚きはしなかった。むしろ彼女の持つ雰囲気を鑑みて、さもありなんと納得したのみである。

 クリスはアレクに男女のあれこれを耳に入れるのを極端に嫌っているが、不幸にも彼らの屋敷にはコンラートという名の、社交界で華々しく浮名を流す色男が出入りしている。彼の持つ色香は老若男女問わず有効で、もはや暴力と呼んでも間違ってはいない様な代物だが、それが己の小姓に効かないのはクリスにとっても不幸中の幸いだった。もしもコンラートがアレクに手を出す素振りを少しでもしていたなら、彼は間違いなくクリスの手によってくびり殺されていただろう。

 実のところ身持ちの堅い貴族は多くいるのだが、貴族社会についてのあれこれをアレクの耳に入れたくは無いクリスは、自身の小姓の貴族に対する抑止剤になれば好都合だと、いささか間違ったその認識を訂正する事なく現在に至る。

「デリアもこの様な素敵な男性とお知り合いなのを私達に黙っているなんて、薄情だわ」

 グレーテ嬢はふわふわの茶髪と琥珀色の瞳を持った女性で、小柄な肢体を甘いデザインの薄紅色のドレスで包んでいる。口調は砂糖菓子の様な外見に合う間延びした少し舌足らずな調子で、こういった喋り方にかなりの嫌悪感を持つクリスは早くも口から砂でも吐き出しそうな様子だ。せめて心の中で思うだけにして顔には出さないで欲しいと思うアレクだったが、クリスに隠す気があるのなら、昔から苦労はしていない。

 庇護欲をくすぐる佇まいのはずなのに、あの目を見てしまったアレクは濡れたような琥珀色の瞳と少々肉厚な唇が生々しく見え、さり気なく視線を逸らした。

(二人共……怖すぎる)

 アレクは内心恐怖でぶるぶると震えながら、しかしクリスに恥はかかせられないという一心でなんとか平静な表情を作る。だが二人の毒気にあてられたアレクは、普段の色付いた頬からすっかり血の気が引いていた。それを見たクリスは流石に気の毒に思った様で、アレクの頭を軽く叩く。

「……取り乱してすみません」

「いや、面白いからいいけど」

「ちょっと、結構本気で怖がっているのに、面白いってどういう事ですか!!」

「うんうん、お前はそうやって元気過ぎるくらいが丁度良いよ」

 満足げに頷くクリス。おかげで恐怖は薄れたが、彼のいいようにされた気がして、素直に感謝する事が出来ない。主の思いやり(と思いたい)行為はいつも複雑だ。

「デリアを責めないで下さい。こちらの方は私の知り合いですから」

「まぁ、エドの?私、貴方とはそこそこ長い付き合いだったと思っていたけれど、この様なお知り合いがいたなんて、今の今まで知らなかったわ」

 何とか二人の意識をクリスから逸らせようと苦心するエドヴァルトだったが、食付きが凄まじい。彼と会話を続けながらも、一瞬たりともクリスからそらされない視線が獲物を狙う獣のそれに酷似している。

 エドヴァルトが申し訳なさそうにクリスを見るが、彼はそれに気付かない振りをして壁の花になりきっている。その全身か立ち上りのは不機嫌を体現した様な拒絶だ。向こうから来られない限り、こちらから動くのは御免だという意図が丸見えである。二人の女性の相手に苦心しているエドヴァルトには申し訳ないが、彼女達に出来るだけ近づきたくないアレクも、獲物を狙う鋭い二つの視線も、気の毒な青年の視線も気付かない振りをした。

 しかしいつまでもそうしていられるはずもなく、エドヴァルトのさりげない妨害を突破した二人は片方は色香を、もう一方は媚を含んだ眼差しでクリスを見上げる。クリスはその二人をちらりと見下ろすと、

「初めまして、クリスと申します」

 仕方なし、といった態度でおざなりに名乗った。そんな様子でも洗練された所作に見えるのは流石である。

「イングヒルト ・フォン=エッケルマンですわ。以後お見知りおきを」

「グレーテ・フォン=ツァンパッハと申します。私達二人共デリアとは幼馴染ですのよ」

 ‘誰もそんな事は聞いていない’だとか、‘鬱陶しい’、‘迷惑’といった言葉がいっそ目視出来ないのが不思議なほどクリスの顔にはっきりと書かれている。それでもめげない二人はある意味勇者だと言えるのかもしれない。

「エド、貴方にこんなお知り合いはいなかったはずですわよね?どこでお知り合いになられましたの?」

「コンラートをご存知でしょう?彼の寄宿舎時代のご友人だそうですよ」

 ‘コンラートのご友人’という言葉にクリスの柳眉が釣り上がる。コンラートが友だと言う度に強硬に突っぱねるクリスだ、よほどエドヴァルトの言葉が不本意だったようだ。しかしあえて口を挟む愚を犯さず、取り敢えず聞こえなかった事にするつもりらしい。

 不機嫌を体現するクリスとは反対に、二人の令嬢は出てきたコンラートの名前に俄然目の色を変える。ついにはエドヴァルトを押しのけ、クリスの左右にするりと身を寄せた。

 イングヒルト嬢は勿論のこと、幼い外見に見合わずグレーテ嬢も胸元は豊かだ。クリスの両腕に柔らかな塊が押し付けられたが、彼はその感触には全く感慨を持たなかったようで、無感動を通り越して無関心、そして余りに冷ややかな視線を二人に向けた。ただの肉の塊が押し付けられたとしか思っていない視線だ。

 流石に厚顔無恥なこの二人もこの視線には動揺を隠しきれず、小さく身体を震わせる。クリスは二人の様子に気付かない振りをし、しかし急に何を思ったのか艶やかな笑みを浮かべた。見る者を惹きつけずにはいられない鮮烈な笑み、しかし目が全く笑っていない。

(怖っ!!)

 紳士として育てられたクリスは無理やり両腕を取り戻しはしなかったが、もともと気が長い質ではない彼だ、忍耐はとっくの昔に限界を迎えていたらしい。まずいとアレクが止めに入ろうとした時には全てが遅かった。

 クリスは二人の胸元に視線を這わすと、これ見よがしにため息をつきながら言ったのである。

「随分立派なものをお持ちだが……そちらにばかり栄養が行って、頭には回らなかった様ですね」

 お気の毒に、とさも同情した風に呟く。痛烈な皮肉だ。

 空気が凍った。あまり大きな声ではなかったが、不思議と通る彼の声は予想外に多くの人の耳に届いてしまったのである。周囲の人々は余りの暴言に固まり、声が聞こえなかった人達も異様な空気に気付いて振り返った。

「あ、あの……クリス様?」

「うん?」

 目が潰れそうなほど眩しい笑顔だ。ただし目は全く笑っていなかったが。笑うにしても皮肉気なものが多い事を知っているアレクにとって、その笑顔は余りにも不気味だった。

「いえ、何でもないです」

 やってしまった―!!とアレクは内心で大絶叫だ。

 誰にもどうする事が出来ないまま、時間は無情にも過ぎてゆく。初めは青くなっていた二人だったが、次第に怒りに赤く染まった。

「な、何ということを……!!」

「ひどい!!」

「すみません、根が素直なものですから。つい、本音が」

 なお悪い、と全員が内心で突っ込んだ。

 イングヒルト嬢が持っていた扇を床に投げ捨てる、ぴしりという鋭い音が空気を切り裂いた。

「この様な無礼……許されるものではありませんよ!!」

 グレーテ嬢は扇で口元を隠し、潤んだ瞳でクリスを睨んでいた。身体を震わせながら瞳を濡らしている様は保護欲を掻き立てるものだったが、ただ一点、手に持っている扇がみしりと不気味な音を立てたのをアレクは聞いてしまった。こんな可愛い顔をして何という事だ!!と、目の前で広がる混沌とした状況と合わせて世を儚みたくなってしまう。

「無礼……ですか?」

「当たり前でしょう!」

 ふむ、とクリスは不思議な言葉でも聞いたかの様に首を傾げて見せた。

「礼儀がなっていないのは、貴女方の方では?」

「ど、どういう事ですの?」

 思わず、といった調子でグレーテ嬢は言った。妙に滑舌がいい。

(何となく、想像はついていたけど……やっぱり、あの口調は作ってたんだ)

「この夜会はコルネリウス商会が主催したものだ。いくら親しい間柄とは言っても、招待客である貴女方が我が物顔で振る舞えば、招待したコルネリウス家の品格が疑われるという事を理解していらっしゃいますか?」

 だから頭が足りないと言っているんだ、とクリスは呟いた。もう婉曲表現が出来ない程に面倒くさいのか、腹立たしいのか――おそらく両方であろうが――もはやどう言い繕っても無駄な状況に陥ってしまった。しかしことごとく空気を読まない(読めないのではない)クリスは、アレクを振り返って言った。

「アレク」

「はい、何でしょう」

「もう、いい時間だ。私達は客間に案内してもらうことにしよう。エドヴァルト殿、頼めますね?」

「は、はい」

 我に返ったエドヴァルトは慌てて頷いた。

 これは、もしかしなくても逃げる気だ。自分が作ったに等しいこの混沌とした状況を放置する気だ!!

 アレクは己の主の余りの暴挙に愕然とした。

「それでは、皆さん、お騒がせ致しました。私はこれで失礼させて頂きますが、良い夜をお過ごし下さい」

 にっこりと微笑むクリス。

 先程まで怒り狂っていた二人の令嬢さえも、一瞬己の激情を忘れて見入る。

 目が潰れそうなほど眩しい笑みを振りまきながらエドヴァルトを促し、この静まり返った夜会をクリスは後にしたのだった……。


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