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エドヴァルトはクリスの不機嫌に気付いているのかいないのか、朗らかに笑った。
「いえいえ、とても親しいご友人だと聞いていますよ。何でも寄宿舎時代からのご友人だとか。しかし私も末端とはいえ貴族として生まれたのですが、コンラートに聞くまで貴方の名前を存じませんでした」
「私は不精者でして、近年は郊外に引きこもっていましたから、私を知らなくても不思議はありませんよ。それはそうと貴方とあの男は性格に随分と隔たりがあるように思えるのですが、どういうお知り合いなのでしょうか?」
「あぁ……彼とは私の友人のサロンで何度か顔を合わせたのがきっかけでして。貴方も知っているでしょうが、彼はあちらこちらと気ままに出没していますから」
「……相変わらずですね、あの男は」
クリスとコンラートが在籍していた寄宿舎は貴族の子弟が数多く通っている。貴族の中でも名門の生まれであるコンラートと寄宿舎で知り合ったという話は、クリスの家格の高さをうかがう事が出来る。にも関わらず、子爵家の生まれの彼がクリスの名前さえ知らなかったのを不審に思うのも当然だ。
しかし貴族社会にとことん嫌気が差して半隠遁生活を送っているクリスは、さりげなく彼に探りを入れてくるエドヴァルトの話題を強引に逸らした。
クリスが丁寧でその実、強引な話術を駆使しているのに青年は気付いているだろう。笑顔の裏で腹の探り合いをする貴族――少なくともアレクはそういうものだと思っている――という生き物に生まれ、尚且つこちらも腹の探り合いを必須の技術とする商人に見込まれているという、この青年が気付いていないはずがない。
その状況下で朗らかに話題を続ける……大人だなぁ、と感心せざるを得ないアレクだった。間違いなく自分の主人には無理な話だ。
「まぁ、デリア。素敵な殿方達を独り占めにするなんて、ずるいわよ」
「お母様」
現れたのは赤銅色の髪が印象的な女性である。デリアにも通じる華やかな雰囲気に、成熟された大人の色香が魅力的な女性だ。
彼女と共にいるのはデリアと同じ褐色の髪と瞳を持った男性。彼らがこのコルネリウス商会を束ねるハーゲン=コルネリウスと、その夫人、テレジア=コルネリウスだろう。
ハーゲンは娘や妻の様な華やかな雰囲気の持ち主ではないが、人好きのする印象を受ける。しかしこの商会を束ねる手腕が確かなのも事実で、おそらく見た目通りの好人物という訳ではなく、一筋縄ではいかない人間なのだろう。理知的な印象を受けるエドヴァルトよりも、一見人の良さそうにみえる彼の様な人物こそ他人に本心を悟らせないし、相手も気を許す。商人という人種も、貴族達とはまた別の意味で油断のならない相手なのである。
「お父様、お母様。こちらがコンラート卿のご友人のクリス様ですわ。クリス様、父と母です」
コンラートの知人の許へ訪ねたという話を娘から聞いていたのであろう、コルネリウス夫人はクリスを見て、ほっと安堵の息をつく。娘の異常に誰よりも先に気付いたという彼女は、娘の現状を最も憂えていた。商会を束ねる男の妻という責任からおおっぴらにデリアの病状を外に漏らせない事も、日に日に憔悴していく娘を夜会に参加させなくてはならない事も彼女はよく理解していた。娘のために何もできない事を歯がゆく思っていた矢先、娘からクリスという青年の話を聞いたのだ。コルネリウス夫人は僅かに見えた光明に、辺りを憚って声を落としたものの、目の前の青年の手を握って熱心に言葉を重ねる。
「あぁ……、娘からお話は伺っております。この様な場はお好きではないと聞いておりますのに、わざわざ私達のために足を運んで下さって……。本当にありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。このように見ず知らずの人間を快く迎えて下さって、感謝しています」
「私もお礼を申し上げたい。どうか娘の事をよそしくお願いします、……卿とお呼しても?」
ハーゲンのさりげない探りにクリスは一瞬面倒くさそうな表情を浮かべたものの、すぐににこやかに微笑んだ。
「この国でも名高い商会を束ねる貴方に卿と呼んで頂くほど、私はたいした人間ではありませんよ。クリス、とお呼びください」
「……分かりました。クリス殿とお呼びしましょう」
‘卿’の敬称は貴族の子弟に対して用いられる事が多い。つまりハーゲンはクリスがどこぞの貴族の出なのではないかと暗に尋ねた訳だが、クリスはやんわりとその呼び方を拒否した。
コンラートの寄宿舎時代の友人となれば商会の大得意となりうるため、商人としては当然の対応と言えるだろう。
娘に尋ねても判然としなかったクリスの身元を当主自ら探ろうとしたのだろうが、笑顔の下にばっさりと切って捨ててしまった。
それにしてもこの国でも巨大な部類に入るこの商会を束ねる男の情報網をもってしても、クリスの正体が分からないとは驚愕に値する。
目立つ外見のクリスだ、特徴さえ知っていれば彼を知っている人間にいつかは行き当たるかとアレクは思っていたが、認識が甘かったようだ。どんな手段を行使したのか知りたいような、知りたくないような。何とも複雑な心境だ。
「何のおもてなしもできませんが、客間がございます。我が家に滞在予定とお聞きしましたので、どうぞお使い下さい」
ハーゲンは今までより僅かに通る声でそう言い残すと、夫人をともなって談笑をする別の招待客の許に歩いて行った。これでデリアとは関係なく、‘コンラート卿のご友人’がコルネリウス邸に滞在する、という話を周囲の人々に信じさせる事ができる。
「慌ただしくてすみません。父は後ほどゆっくりとご挨拶をしたいそうですわ」
「いえいえ、どうかお気になさらずに、とお伝え下さい。父君がお忙しいのは十分に承知していますから」
「わざわざ来ていただいたのに、それでは……」
「初めから内密に、という話でしたでしょう?派手に歓迎されてはその前提条件を覆しかねない。それに、私は小心者でしてね。貴女の父君の様な方の前では萎縮してしまいますので、どうかご容赦を」
ははは、と爽やかに笑うクリス。
恐い、そして白々し過ぎる。何処の誰が小心者なのかと呆れた眼差しを己の主に向けたアレクだったが、鋼の神経と心臓を持っている彼に通じる訳が無い。
アレクの視線を華麗に無視したクリスは、一見デリアと和やかに会話を続けている。しかし彼がコルネリウス夫婦の申し出を断ったのは間違っても彼が小心者であるからではない。ただ単に、愛想を振りまき続けるのが面倒くさいからであろう。
デリアはふと前方に視線を向け、瞬きを繰り返した。
「……あら、すみません、クリス様。少し席を外しても構いませんか?」
「構いませんよ。そもそも私は表向き、ただの招待客だ。主役の貴女のあまり長い間一緒にいては、周囲にも不審に思われるでしょう」
「そうですわね。では、エド。クリス様をお願いします。私はもう戻っては来られないかもしれませんから、客間への案内も頼めるかしら」
「お安い御用だよ。でも体調が良く無いのだから、くれぐれも無理はしないように」
「ふふ、皆揃いも揃って心配性なんだから。それではクリス様、私はこれにて失礼させて頂きます」
「えぇ、それでは良い夜を」
「クリス様こそ良い夜をお過ごし下さいませ」
デリアは軽く一礼をすると、先程見つけた女性の二人連れの許へ歩いて行った。
その二人はデリアより少し年下だろうか、なかなかに美人だ。しかしどちらも女性としての自信に満ち溢れた人種のようで、気の強そうな印象だ。できればお近づきになりたくない人種だな、とアレクは思った。
「あちらの二人は?」
「あぁ、デリアの幼い頃からの友人です。黒髪の女性がエッケルマン男爵のご令嬢、イングヒルト ・フォン=エッケルマン嬢。茶髪の女性がツァンパッハ子爵のご令嬢のグレーテ・フォン=ツァンパッハ嬢ですよ。コルネリウス商会は貴族の方々とも懇意にしていますからね。私も含め、幼い頃は共に遊んだものです」
巧みに隠してはいるが、エドヴァルトの口調に嫌悪ともとれる複雑な感情が含まれている事に気付く。
デリアと談笑をしている二人はクリスをちらりと見ると、くすくすと笑っていた。美しく着飾った女性が笑いさざめく様は眼福な光景のはずなのに、彼女達の目を見た瞬間、何か冷たい物が背中を流れ落ちた様に思われた。無意識にクリスの袖を引っ張るアレクに、エドヴァルトに聞こえないように潜ませた声音で彼は囁いた。
「お前も社会勉強に覚えておくといい。ああいうご令嬢たちを世では女狐と呼ぶんだ。お前みたいな世間知らずは、あっという間に頭からばりばりと食べられるぞ」
「いくら僕が世間知らずでも、どんなに控えめに表現してもあの二人の様な女性達とはお近づきになりたくありません」
アレクは粟立った腕をさすりながら、クリス同様潜めた声で言う。
「上出来だ。防衛本能は自身を助ける」
こそこそと二人が話していると、友人二人との会話を終えて別の招待客にデリアが向かうと同時に、件のご令嬢達がこちらに向かって歩いてくる。思わずアレクは不自然にならない様に、しかし素早くクリスの後ろに隠れたのだった。