siebzehn
デリアは鬱々とした泥土の様な眠りから浮上した。
彼女は目を覚まし、そして目を覚ました事に絶望した。
現の自分の目の前に立ちはだかるのは、その先に絶望しか見えない現実だ。それから必死に逃れようと夢の世界へと逃げ込もうとも、そこもすでに安住の地ではなかった。
最近彼女が見るのは自分によく似た少女の夢ではない。ねっとりとした闇、そこに沈む自分を数多の手が、更に堕落しろと言わんばかりに自分を更なる深みへと引きずり込もうとするのだ。
――どうして私がこんな目に遭うの?
渦巻く恐怖と狂気の合間に疑問が何度も自身の中に飛び交う。
――本当に分からないの?
しかし答えの無い疑問に返されるのは、本当に忘れてしまったのか、と問い嘲笑う声ばかり。
――知る訳無いわ。私は何も知らない……
――本当に?
戸惑うデリアに声は容赦なく切り込んでくる。
――嘘よ、貴女は覚えているはずだわ。ただ忘れたふりをしているだけ……
いつまで知らないふりをして、被害者面をするつもりなの?と責める声に彼女は耳を両手で塞いだ。しかし頭に直接響く声が耳を塞いだところで防げるはずもない。
――貴女の罪は許されざるもの。そして貴女と同じ罪を背負った彼女達も死んだ。最後は……
目の前に現れては消えていく記憶の断片。
四肢がもがれ、ずたずたにされて打ち捨てられた襤褸くず様な姿になった、人形。
――その姿が死んでしまった友人達に重なる。
冷たい、湖。人が落ちれば凍えるどころか表面には薄い氷が張っており、一瞬にして心臓を止めてしまうだろう。そんなある種の緊張感と荘厳さを併せ持った湖に浮いている……あれは何だろうか。
――思い出してはいけない。
仲睦まじげに寄り添う二つの人影。幼女とそれよりも年嵩の少年が顔を寄せ合って、何やら楽しげに笑みを交わす。微笑を誘われる光景、しかし……。
――それは胸を刺す光景だった。ただ見る事しか出来ない自分に憎しみを植え付ける程に……。
(私は、いえ、私達はそれで何をやったの?)
その答えが自身の記憶の欠如に関わっていると漠然とだが理解している。いつまでも逃げてはいられない、デリアはここまで追い詰められて初めてその事を痛感した。
気付くのが遅すぎる、もっと早くに向き合おうとしたならば友人達を襲った悲劇を防げたかもしれないのに、と自嘲に顔が歪むのが分かるが、今は一瞬だけその罪悪感から目を逸らす。
あと少しで届きそうな過去の残像に手を伸ばすが、寸前の所で言葉に表せない鈍痛が頭を襲い、邪魔をした。
(あと少し、あと少しなのに……)
その時、自身の頭の中に聞いた事にない声が響いた気がした。いや、聞いた事がないどころか、何よりも親しい声ではなかろうか。失われた過去の彼方から訴えてくる声、それだけではなくこれまで気付かなかっただけで、いつも近くでこの声は訴えていたのかもしれない。
――おもいだしたいの?やっとわすれることができたのに?
自身に覚悟を問う声は驚くほど静かだ。そこには憎悪も悲哀も何の感情も含まれていない。
(いいえ、思い出したいのではなく、思い出さなくてはならないのだわ)
――そう……
それならば、とその声は言った。
――あのひとにきけばいいわ
あの人?と尋ねるより先に灰青色の怜悧な眼差しが脳裏を過ぎる。何物よりも美しいにも関わらず、触れれば容赦なく切りつけられそうな酷薄さが同時に存在している。
その瞳の持ち主に初めて会った時は作り物の様な造作に一瞬見蕩れたが、慇懃無礼な態度の奥に見え隠れする、相手を道端に転がる石ころの様に見る視線に恐怖した。
しかしその人物は自分の恐怖さえも手に取る様に読み取っていたはずなのに、それを全く意に介する事なく微笑んでみせた。まるで身を妨げるものなど何も無いと言いたげな、世界の全てをその掌中に収めたかの様な、いっそ暴力的なほど滲み出る周囲に対する無関心。
――何と傲慢な人間であろうか。しかし同時にそれが許されて不思議ではないのがこのクリスという人間なのだ。
デリアの重い瞼がゆっくりと開いた。そしてまだぼんやりとした視界に写るのは、この世の物と思えない怜悧な美貌を持った青年の姿だった。
彼はまるで彼女が目を覚ますのを予め知っていたかの様に、昏々と眠っていたデリアが急に目を覚ましても驚きを露にするでもなく、ただ静かに口を開いた。
「気分はいかがですか?」
「あ……」
「いえ、声を出す必要はありません。ただ頷くか首を振るだけでいい」
深い夢の世界から現に戻ったばかりのデリアの声はひどく掠れていた。心労から以前から声はひび割れていたが、今出した声音は以前の艶のある声が幻かと思えるくらいだった。
それを聞いたクリスは眉を顰める事はしなかったが、代わりにひどくそっけない口調で、彼女に声を出す必要はないと告げた。
デリア自身、こんな声を他人に聞かれるのは好ましくないため、彼の言葉にありがたく頷いて肯定の意を表す。
しかしそんな些細な彼女の羞恥など全くの無意味だと、自身の現在の恰好を思い出し、自嘲の笑みに顔を歪ませる。
今現在も、そして彼らの前で正気を失って意味のない言葉を吐き出した時も、夜着のままだった。コルネリウス商会の一人娘である彼女の纏っている夜着は貴族の令嬢達が使っている物と何ら遜色のない物ではある。しかし間違っても婚期を迎えている女性が、青年と呼べる年齢の男性に見せるべき恰好ではなかった。
しかしそれを言うのならば、妙齢の女性の寝室に我が物顔で居るクリスの行動も非難されてしかるべきである。が、デリアの寝室に二人きりでいるという現在の状況も、そして彼女の恰好も全く興味がないという彼の態度に、むしろ自分の方が間違っているのではないか、という気さえしてくる。
黒と言ったならば、白も真っ黒となる、という支配階級独特の雰囲気を彼は持っているのだ。これが王者の気配と呼ぶのか、とデリアは鈍い頭の隅で考える。
「貴女の私への依頼は、自身の異変の原因を明らかにする事。そして貴女の父君から、貴女の心を煩わせる、この一連の事件の真相を解明して欲しいとも言われました。しかし私は本来の依頼人である貴女の意見を伺っていません」
デリアの表情が固まった。ついにその時が来たか、と安堵の様な恐怖の様な表現のし難い複雑な感情が彼女から思考を奪う。
夢うつつにも真実が知りたい、と思ってきた。しかし脳裏を去来する最悪の想像に恐怖が渦巻くのも真実だった。
彼女のそんな葛藤さえ知りながら、そんな事は知った事ではないと、彼女に尋ねているにも関わらず、クリスの声は何処までも温度が無く無関心なものだった。
しかしそんな彼の態度が不思議と安堵をもたらし、彼女の決心を促す。
「私には全てが見えています。ですから私の興味は満たされました。このまま貴女が真実を拒否したところで私は一向に構いません。しかし貴女が真実を知ったとして、それが貴女に安寧をもたらすとは限りません。むしろ貴女を絶望へと突き落とすかもしれない。それでも知りたいですか?」
今までの自分だったなら、ここで躊躇していたかもしれない。それどころか最後には真実を拒む事もあり得た。しかしもう正体の分からないものにじわじわと追い詰められるのは疲れたのだ。真実が自身を覆う霧を晴らすのか、それとも一気に自身を追い詰めるのかは分からない。それでも、この真綿で首を絞められる様な現状にもう耐えられないのだ。
デリアは全てが吹っ切れた晴れやかな笑顔で頷いた。そして例えそれが空元気だとしても、この青年が追及する事はないと確信している。
彼女の予想通りクリスはあっさりと頷き、静かにデリアの枕元に置いてあった椅子から腰を上げた。
「それでは私は一旦これで失礼します。しかし準備が整ったら、人を呼びましょう。それまで少しの時間ですが身体を休めて下さい」
クリスが去り、静寂が訪れた自らの寝室の寝台の上にデリアは重い身体を沈ませた。
そして硬く目を閉じ、拳を握る。衰弱のため手に力はさほど込められなかったが、握りこんでも止まらない手の震えは衰弱とは全くの無関係だった。
それが期待によるものなのか、それとも恐怖によるものなのかは、デリア自身でさえ判然としない。
もしかしたら期待と恐怖は案外似た感情なのかもしれない、とふいに彼女は思った。
人は期待する。そこには希望が勿論あるだろう。しかしその希望を夢想するのと同時に、人はそれ以外の未来も無意識のうちに想像してしまうものだ。それは自身が受ける損失をいかに少なくするか、という人間の本能に基づく処世術に因るものに違いない。
それによって人は希望と同時に想像する、希望とは真逆の結末に恐怖するのだ。
だとしたら人とは何と滑稽な生き物だろうか。
生きるための道筋を敷くために希望という名の不確実な未来を期し、手繰り寄せようと苦心する余り、希望とは真っ向から反発する絶望の種――即ち恐怖を人々の心に植え付けるのだから。
彼女の口元に浮かんでいたのは、先ほどクリスに見せた晴れやかな笑みとは似ても似つかない、笑みと呼べない程歪んだものだった。
クリスがアレクを伴い彼が指定した部屋に入ると、デリア以外の関係者が全て揃っていた。つまり、デリアの両親であるコルネリウス夫妻、そして実家に事の仔細を報告するためにコルネリウス邸を離れていたエドヴァルト、一連の事件の指揮を執っていると思われるクナープ中尉、そして何故だかコンラートも我が物顔に椅子に深く腰を掛けている。
コンラートを視界に納めたクリスは、この世で最も視界に入れたくは無い物を見てしまったと言わんばかりにその端正な顔を歪ませ、アレクに視線で説明を求めた。
(無実です!!)
アレクは一瞬にして荒んだクリスの視線を受けながら、自分は無罪だと必死に首を振った。
クリスの近くに長く仕えているアレクは、この主がコンラートに殊の外反発するのを知っている。誰がクリスの機嫌が急降下すると分かっていてコンラートをこの場に呼ぶというのか。少なくともアレクはそんな無謀とも言うべき行為を行えるほどの蛮勇を持ち合わせてはいない。
クリスはアレクの余りに必死な様子に一応の疑いを解き、視線を僅かに柔らかくした。
――では何故、あの男がここに居るんだ?
――僕が分かる訳がないでしょう!
――あの男と鉢合わせするのが嫌で早々にこの邸を出ようと思っていたのだがね。
――僕に言われても……。
ちなみにここまでの会話は全て視線によって行われている。人の機微に無頓着というか無関心なクリスではあるが、さすがに自身の手ずから育てたと言っても過言ではないアレクとはこの様な芸当も可能である。というか、アレクとしか成立しない。
「いつ見ても君達は仲が良いねぇ……。いつも嫌というほど知っているけれど、妬けるよ」
二人の無言の会話に乱入した人物を、クリスはぎろりと振り返った。視線で人を殺せるとしたら、彼の視線は鋭い刃となって幾度も致命傷を負わせていただろうという殺人的な凶悪さだ。しかしそれを向けられたコンラートも慣れたもの、足を組みかえる余裕さえ見せ付けて、クリスに極上の微笑を向ける。
コンラートの、一度見てしまえば老若男女、独身者、既婚者問わずに落とすと噂される表情をクリスの前で惜しげもなく晒す。そしてこちらも不本意ながら慣れたもの、手を一振りして不快感を露にした。
「私はお前を呼んだ覚えはない。そして今までもこれからも一度としてお前を呼んだ覚えはないのに、いつもどうして沸いて出るんだ」
「ひどいな、まるで私を虫みたいに言わないでくれるかな。この繊細な心に傷がついたらどうするんだい?」
「繊細……?」
この二人の会話にいいかげん慣れたアレクはまたか、と苦笑しながらやれやれと首を左右に振るが、この二人の関係性を知らない他の人間達は唖然とする。
確かにこの二人の関係は他人から見たらさぞかし奇異に映るだろう、とアレクは遠い目をしながら現実からの逃避を試みた。
コンラートをまるで虫けらの如き唾棄するクリス、対してコンラートはクリスとは真反対に好意としか表現できない感情を向けている。それもコンラートが万人に向ける好意とは別格のものであるのは明白である。普通にしゃべっていてさえとろりと蜜を溶かした様な相手の欲望を刺激する蠱惑に満ちた声音が、クリスを相手とすると甘さを増す。それだけでなく頬は心なしか紅潮しているようだし、紫水晶の瞳は誘う様に揺れる。まぁ、端的に言ってしまえばクリスを前にするとコンラートの発している色香が普段の数倍まで跳ね上がるのだ。
この態度が、相手を男女問わず浮名を流すコンラートの本命がクリスであるという、クリスにとっては不本意極まりない噂が寄宿舎時代に流れた理由である。そしてそれを否定する所か、嬉々として噂を肯定する様な態度を取り続けた結果が今のクリスの態度である。
そしてクリスはコンラートのその態度を全くとして取り合っていないが、アレクはコンラートの本心を一度として訪ねた事がない。そんな事を聞いてしまえば、恐ろしいものが露呈するかもしれないからだ。




