◆第29話◆
家に帰ると、玄関には父親の靴があった。
僕が玄関に入った気配を感じた母がリビングから顔を出す。
「お帰り亜希子。遅かったじゃない」
「うん。友達とお茶してきた」
「遅くなるときは電話しなさいって、言ってるでしょ」
「うん……」
「亜希子、ちょっとこっちへ来なさい」
父親の声がリビングから聞こえた。
「ちょっと、あなたにも話があるのよ」
母親が僕を促した。
僕はソファに腰掛けると、小さく息をついた。
「お父さん、また転属になるみたいなの」
母親が先に切り出した。
そう言うことか。帰りが遅かったのに、何時もより小言も少ないわけだ。
「今度、東北に新しいホテルが建つんだ」
父親は口数少なくそう言った。
昇進も兼ねているらしく、父親にとってはいい話なのだろう。
「それで? 何時?」
「来月中旬だな。父さんは、一足先に向こうへ行くと思う」
僕は黙って頷いて、何も言わなかった。
「本当にね、あっち行ったりこっち行ったり」
母親が小さく呟いた。
「まあ、それが仕事だから、仕方が無い」
父親も、苦笑いでそう言うだけだった。
僕はそのまま自分の部屋へ戻ると、何故か古いスピッツのCDをかけてベッドに寝転がった。
転校かぁ……僕は素直にそう思っただけで、他には何も感じなかった。
別にたいして別れを惜しむ相手もいない。
何処にいても、きっと僕は一人だ。今と変わりはしない。
曲と曲の僅かな間に入り込む虫の声が、何だかとても切なく聞こえた。
僕が何かをしようがしまいが、時間は勝手に流れて過ぎてゆく。
僕は9月イッパイでバイトを辞めた。
引っ越す事を聞いた、恵美子と未穂は心から残念がってくれた。
もう直ぐこの学校ともオサラバだと思うと、何だか既に行くのがタルくて、遅刻が多くなった。
そんなある日の放課後、昇降口で見慣れない二人組みの女子に呼び止められた。
一人は背が高くて、黒髪のショートだった。もう一人は少しぽっちゃりめで、シャギーの入った茶色い髪を肩まで垂らしている。
「あんた、三田村亜希子でしょ」
「そうだけど」
「ちょっと来てくれる」
二人は僕の両腕を掴んだ。
そう言えば、隣のクラスにこんな連中がいたかもしれない。
「何なの? あんたたち」
「いいから、ちょっと来て」
二人はそう言って、僕を体育館へ続く通路の陰に連れて行った。
「あんた、転校するんだって?」
僕は二人の顔を交互に見ると
「だから?」
「あんた、レズなの?」
ノッポの黒髪が言った。
「はあ?」
「サクラにイタズラしようとしたんでしょ」
ノッポは薄ら笑いを浮かべて続けた。
「はあ? 何言ってんの、知らないよ」
「どうりで男に靡かないわけだよね」
茶髪のデブが言った。
僕から見れば、明らかにデブだ。
「くだらない……」
僕は履き棄てるように言って、その場を抜け出そうとした。
「逃げんなよ」
茶髪が僕の腕を掴んだ。
「しらねぇよ」
僕が振り払うと、ノッポも、反対の腕を掴む。
二人は僕の身体を、体育館の外壁に押し当てて威圧して来た。
「何、あんた女に触って欲しいわけ? それとも触る方?」
ノッポがそう言って、僕の胸を鷲掴みにした。
僕は反射的に振り払って、彼女を突き飛ばした。
「ざけんなよ」
茶髪が僕を突き飛ばす。
僕は二人を相手に暴れなければならなかった。