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鴇色雑記  作者: 鴇合コウ
続・ときどき雑記
51/55

あの青空は天国の床。

ちょっと暗いです。

 先日、○十年ぶりに通っていた幼稚園を訪れた。

 ほのぼのする理由ではない。

 訪れたのは、知人の葬儀のためである。


 この「雑記」でも触れたことがあるが、私の通っていた幼稚園はプロテスタント系だ。そこの教会で、クリスチャンであった故人の葬送にまつわる祭礼が催されたのである。

 宗教が異なると、祭儀もいろいろと異なる。仏式であれば通夜にあたるものが「前夜式」、葬式にあたるものが「召天記念式」というのだという。もちろんご遺族にお渡しするのは、香典ではなく「お花料」となる。

 これで私は、仏教・神道・キリスト教と、日本の主だった宗教の葬儀すべてに参列することになってしまった。日本の宗教、カオス万歳である。


 しかしながら、残念なことに今回の前夜式は欠席させていただいた。いつでも死が急であるように、訃報を受けた数時間後が当の前夜式で、風邪をひいて薬を飲んで寝る体勢に入っていた私には、コンディション的に無理であった。

 それでも、必要な人には連絡を入れねばならないし、翌日の式に出る支度はしておかねばならない。

 すぐに米子にいる友人に電話するが、案の定、仕事もあり午前中の式には出られないという。社会人の土曜日というのは、こんなものだ。そういえば、某神さまの定めた安息日は、週に一日だけであった。その一日に牧師様がお勤めするのはいかがなものかと、いつも思うのだが。


「ごめんね。じゃあ、あたしの分も一緒にお願いしていい?」

「いいよ。急だもんね。……あー。急でもないのか」

「急だよう。だって結構前だよ、手術されたの」


 故人は数年前、心臓の大きな手術をされたのだ。

 そして退院後、その友人とご自宅へ挨拶にうかがったのが、お目にかかった最後になってしまった。


「やっぱり今年、会いに行っとけばよかったね……」

「今年は年賀状が来ないから、おかしいと思ってたんだよね。メールも返ってこないしさ。返事がないと行きにくいよね……」

「あああー、ショックだよう」


 突然の報せに、おたがい動揺のあまり会話が堂々巡りする。だらだらしゃべっても明日に差し支えるので、適当なところで打ち切った。これが結婚式なら「写メ送るよ」なんて気軽に言えるのに、などと、くだらないことを思いながら。

 納めていた喪服をカバーごと表に出し、押入れから黒のバッグとパンプス。箪笥から黒のストッキングを引っ張り出して、保温タイプのインナーを選んでセットする。

 仏式・神式共通の真っ白の封筒に、筆ペンで二人分の名前を書いて紙幣を包み、黒の袱紗に入れて準備完了。

 淡々と一通りをこなせるようになったのは、それだけ年をとった証拠でもある。

 先月は、仏式の一揃いをもって同級生の通夜に遅参した。

 そういう年なのだ。


 早く亡くなることを美化するつもりはないが、平均寿命を超えて亡くなるのを良しとする気もない。

 誰であれ何時であれ、死は惜しまれるべきだ。

 亡くなった方は、もう少しで米寿に手が届くお年だったという。もう、という思いと、まだ、という思いが交互に押し寄せる。最初にお会いしたときから、これぞ老人の鑑というほど矍鑠たる方だっただけに、天寿という言葉も安易に使う気にはなれず戸惑うばかりだ。


 好奇心が旺盛で、英語を学びパソコンをたしなみ、私の最年長のメル友だった。

 そしてなにより、はじめて私が師事した、杖道と居合の先生でもある。

 仕事の忙しさにかこつけて、袴に身を包まなくなって、もう十年が経つだろうか。

 無沙汰というには、あまりにも恥ずかしい空白だ。


* * *


 その日はうす曇りで、一段と秋が深く感じられる、肌寒い陽気だった。

 黒がないのでベージュのコートを喪服の上から着込み、黒いマフラーを巻いて、教会へ向かう。

 実は――当然というべきか――かの幼稚園は、私の通っていた頃と大きく様相を違えている。園児の増加に伴い、箱庭のようだった交差点脇の敷地を離れ、もっと奥まったいささか広い場所に移転したのだ。もちろん、教会も新しく建て直された。

 外観は何度か目にしていたが、中に入ったのはこれが初めてである。

 靴を脱ぎ、スリッパに履き替えて、前の人にならって受付をした。袱紗から封筒を出すのにまごまごしたり、「ごしゅうそうさまでした」などと訳の分からない日本語を言ったり、頼まれた友人の住所をスマホから引こうとしてなぜか鞄の中身が飛び散りかけたり。

 一通りのダメさ加減を披露したのち、礼拝堂に入った。入り口で紙コップ入りのコーヒーをふるまわれ、こういうところが西洋式なのかとぼんやり思いつつ、中ほどの席の端に着く。

 目の前には、喪服姿のむさくるしい男性陣がぎっちり二列。

 後姿と、たまに見える横顔だけで分かる。先生の先生と、そのお弟子さん――故人である先生にとっては兄弟弟子にあたる――の一団である。

 私の到着したのが三十分ほど前だったので、どれほど早く来られたのだろう。さすが礼節には厳しい方たちだと感心する一方で、教会での式をどう思われているのだろうかと疑問が湧く。

 視線を移せば、通路を挟んだ向こうの席には、左腕にロザリオを巻いた参列者が散見する。



 先生とはそもそも、米子の友人に、杖道と居合に引きずり込まれたさきで出会った。

 場所は小学校の体育館。土曜の夜、足裏で床を叩き、声高に打ち合う剣道士たちの片隅で、黙々とすり足をしながら1メートルを超える細長い棒を振るう。または、ひとり虚空に向かって剣を放つ。

 気合いは発するが、実に静謐だ。だが、剣道と違って試合うわけでもないのに、これが面白い。

 居合は仮想敵をもうけ、それに対して型をふるまう。傍から見るとなにをやっているやらさっぱりだが、動作ひとつひとつの意味を知るとその深みに嵌まる。人を殺傷する練習と言ってしまえばそれまでだが、これは精神の修養なのだ。

 人が人を斬るというのは、普通でない状態だ。それを意図的に仮想で行ない、日常と非日常を急速に行き来することで、おのれの精神の奥行きを広げる修行。私はそう捉えている。

 一方杖道は、同じく型を鍛錬するのだが、仕太刀(仕杖)と受太刀の二名一組で行なう。基本的に杖は諫めることを目的とした武道なので、先攻する受太刀に対してふるまわれる型になるのだ。

 これが実にうつくしい。特に11本目などの長い型は、素人が見てもはらはらする迫力だ。斬りかかる剣を牽制し、受け止め、払い、巻いて落とし、突き込み、打つ。細い棒状の武器ならではの働きは、受太刀が鋭いとなおさら引き立つのだ。

 昇段試験の関係だったか気候の関係だったか。春から夏は居合、秋から冬が杖道と練習が分かれており、なぜだかあれよあれよと双方に片足ずつ、つまり両足浸かることになったのが十数年前。

 指折り数えると不義理を働いていた年月のほうが長いのだが、よくぞここまで交誼が続いたものだと我ながら思う。


 縁とは実に奇妙なもので。

 習いはじめてから知ったのだが、他の方よりも遅くから杖と居合の道に入られた先生は、自己研鑽に余念がなく、練習場所として週に一度ほどあの幼稚園の遊戯室を借りていらっしゃった。

 それを聞いて、私は素直に驚いた。かつて通った園と縁を感じただけでなく、日本の武道の根幹は神道だからだ。よく武道場には神棚が置かれているが、特に居合は、始める前に必ず「神座の礼」といって、北に向かって一礼を行なうのが作法なのである。

 よくもキリスト教の幼稚園が許可したものだと、感心して母に話をしたところ、事態は思わぬ展開をみせた。

 なんと先生の奥様は熱心なクリスチャンで、あろうことか私のときの先生も牧師様も兄のときの牧師様も、ついでにあの青山さんまでお知り合いだというのだ。

 先生の手術の話も今回の葬儀も、その母の友人経由から話が回ってきたのだから、巡りあわせに感謝するほかはない。

 あるいはこれも、神さまの采配の結果なのだろうか。



 茫然とそんなことを回想しているうち、「あら」と声をかけて、当の青山さんがご主人と一緒に現われる。遠距離だからいらっしゃるか疑問だったのだが、思わぬところで再会だ。

 とはいえ笑顔で喜ぶにも場が違い、とりとめのないことをぽつぽつと話しているうちに、祭壇の蝋燭に火が灯され、オルガンの音色とともに式がはじまった。


 式の進行は小冊子となって各席に配布されている。久しぶりに歌う賛美歌は、頭ではわりと覚えているが、体のほうはそうでもないらしい。声はうまく出ないし、三番まで歌うとお腹がきつい。どれほど腹式呼吸が久しぶりだというのか。

 隣では、持参の賛美歌を広げ、青山さんご夫妻が見事なハーモニーを奏でている。

 左右の窓には、かつての教会にはなかったステンドグラスが飾られていた。

 色は青・水色・黄・白。シンプルなラインで描かれた百合に魚。それらが、昇りゆく太陽に伴走するように、やわらかく明るい光を室内に落としこんでゆく。

 いつも感じることだが、祭儀とは、主役ではなく周囲の人たちのために行なうものだと思う。

 残された者が心の折り合いをつけるために、これほどの大がかりな仕掛けが必要なのだ。

 

「寂しくなるねえ」


 ぽつりと呟かれた、青山さんの一言がすべてではないかと思った。

 寂しいのだ。

 彼の人が、この場にいる皆の人生から欠落してしまった。その穴は、なにをもっても、きっと埋まらないのだ。

 これがいかに〝天に召される〟ための儀式だとしても、形を変えて在るのだと説かれても、皆が慕った彼の人という存在は永遠に喪われてしまった。

 折り合いは、それぞれの心で、それぞれのやりかたでつけるしかない。

 葬儀屋のスタッフが、飾られていた花をめきめきと手折り、皆で棺を埋めていく。二周、三周とすると感傷もやや薄れ、送り出すのだという気持ちに変わるのだから、人の心とは曖昧なものだ。

 

 式の終盤、先生の息子さんが挨拶に立たれ、そこで、これまで知らなかった先生の半生について聞かせていただいた。

 奥様のお母様が熱心なクリスチャンで、その影響で、転居した先のこの教会に通うようになったこと。

 洗礼を受けたこと。

 教会の仲間に誘われてマラソンをするようになり、さらに杖道と居合にも誘われたこと。

 そもそもは教会の牧師様がはじめられ、向いていないからと武道具一式を譲られたことから、杖道と居合にのめりこんでいったこと。

 思えば、先生の口から断片的にお聞きしていたことが、ようやくひとつに繋がった瞬間だった。


(――まったく、本当にこれまでなにをしていたのか)


 自分自身の不甲斐無さが、ほとほと嫌になる。

 車で五分の距離にいたというのに、一体なにをしていたのか。目の前にある宝を見ながらにして、掴もうとしていなかったのだ。自ら望めば、いくらでも手に入ったというのに。

 寂しいと泣くことすら、おこがましいくらいだ。


 長らく御無沙汰をしていた大先生や諸先輩方にも、こそこそと挨拶をすれば、「また来なさい」とのお声がかかる。土曜日なので、この夜もまた体育館で練習があるのだ。

 もともとさして上手くもなく、十年もブランクのある身では、さすがに怖くて近寄る勇気がない。

 それに――――ずっと受太刀で指導してくれた先生がいないのに、どうして杖が握れるというのか。

 言い訳だと頭ではわかっているけれど、踏ん切りがつかない。

 相変わらず、十年経ってもダメな弟子なのである。


 

 外に出れば、うす曇りだった空は、いつのまにか秋晴れの気配に包まれていた。

 天におわす方の足元には、サファイアが敷き詰められているのだという。

 だがその空は、宝石の深い青ではなく、もっと穏やかな、川の流れのように清涼な白群色だった。ゆるやかな雲の波濤がたゆたう、日本の空。

 唯一無二の日の光に照らされながら、棺が長い車に納められるのを見守り、瞑目をして送り出す。


 私は拠りどころとなる宗教をもたない。宗教カオスな日本人だ。

 だから、差し込む光のその先に、天国があると断言することはできない。

 それでも、空の彼方に広がる無辺の宇宙。その一端にこの星が在るのなら、やはり〝天の国〟はあるのだと思う。

 そして、それもまた確かに、人知を超えたものの仕業なのだ。



 きっと今。

 神さまの御許には、杖と日本刀をもった長身痩躯の天使がいるのだと信じている。




※参考:旧約聖書 出エジプト記(口語訳)Wikisouce 24章10節

http://ja.wikisource.org/wiki/%E5%87%BA%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%83%97%E3%83%88%E8%A8%98(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)


※杖道(じょうどう):習ったのは全日本剣道連盟杖道です。WIKIはこちら↓

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%89%A3%E9%81%93%E9%80%A3%E7%9B%9F%E6%9D%96%E9%81%93


※居合も同じく↓

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%89%A3%E9%81%93%E9%80%A3%E7%9B%9F%E5%B1%85%E5%90%88


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