(13)骨髄穿刺
<▲月24日>
手術は朝一番だ。
きっと相手のほうも朝一番で待ってるんだろう。詳しい状況を教えてもらえないので、よく分からないけれど。
8時15分には手術室に到着しないといけないというので、8時過ぎには支度をして病室を出た。もちろん飲食禁止なのだが、寝ぼけていて空腹感はあまりない。
脇がすっかすかの手術用ガウンを着て、靴下を履いてT字帯を巻き、看護師さんと手術室に向かう。二重扉を出て、廊下でつながった手術棟は〝ちょっと歩く〟距離にあるらしい。あたたかい季節でよかった。
てくてくてくてくてく……。
「遠いですね」
「そうなんですよ。手術棟はまだ建物が古くて」
「なんだか歴史を感じます。そういえば今、建て替えしてるんですよね」
「もうじき新しいほうに移るんですよ」
「じゃあ今回貴重なんですね……ってゆーか、わたしこの道、覚えられるんでしょうか」
めっちゃいろんな角を曲がって歩き続けましたが。
「帰りは寝て帰りますから、だいじょうぶですよ」
あのドラマでよく見る動くベッドでがらがらと運ばれるわけですね。この距離を。
――すいません、もう少し体重落とせばよかったですね……。
後悔先に立たずとはこのことだ。今さらすぎる。
手術室は人がごった返していた。手術待ちの患者さんと付き添いの看護師さんと手術担当の看護師さんがひしめいて、まさにカオスである。なんだこれ、朝イチの手術こんなにあるのか。
片隅のパイプ椅子を暖めたのは、ほんの数十秒だ。手術担当の看護師さんたちにてきぱきとカルテを確認され、大丈夫ですよと声をかけられ。手術室に呼ばれてベッドに横たわり、いろんなモニターをつけてやけにふかふかする手術台に移されたとたん――――意識は飛んでいた。
幸い、うわ言は言わなかったらしい。声を掛けられたときにはすでに自分のベッドで、わりにはっきり受け答えをしていた。それまでのことは想像しないことにする。
――覚えていないことは知らぬ存ぜぬ、わたしの人生には関わりのないことです。合掌。
鎮痛剤が効いているせいか痛みはそれほどでもないが、違和感がすごい。腰にごっついサポーターをぎっちぎちに巻かれているような引きつった感じだ。
「どうですか? 痛みはないですか?」
「……喉渇きました」
とりあえず口の中がからっからです。訴えたのだが、いまだ絶賛飲食禁止らしい。えー。
代わりなのか、左腕にはブドウ糖入りの輸液がつながっている。さらに口には酸素マスクがつけられていた。術後マスクで高濃度の酸素を供給するのって、ただの気休めのように思えるんだがどうなんだろうか。というか、邪魔だ。よけいに喉が渇く。
それでもやさしい看護師さんがカルテを確認して、水くらいならと飲ませてくれた。さすが天使。
ついでに尿道カテーテルも「痛いでしょうから」ととってくれる。腕の点滴と酸素マスクはまだ保留だ。残念。
「今何時ですか?」
「11時過ぎですよ」
わりに時間が経ってるんだな。
「骨髄どれくらい採ったんですか?」
「870mlです」
――………………あれ???
最初のとき「700mlくらい」っていう話だったような。
……そういえば、昨日の診察のときに「800~900mlを目標に」って言ってて、自己血が800ml返るから大丈夫的なことを言われたような。
――ちょっと待て。800mlの自己血はミスじゃなかったのか……?
まだ麻酔と鎮静剤でぼんやりした頭には、すべてが仕組まれていたことではないかと猜疑心がよぎる。当然そんな理不尽なことはないと、理性がかたわらで囁いてはいるけれども。
たしかに相手は男性だし、もらうほうは多いほうがいいだろう。こちらの体重も鰻上りで、体重比を考えれば当初の計画よりも多く採れる計算になる、はず――なのだが。
なんだか、あらためて現われた担当医師から笑顔で「ありがとうございます。無事に終了しました」と言われても、微妙に腑に落ちない。
もっと言うとそれより納得がいかないのが、腰に貼られたテープだ。かぶれやすいと散々言ってきたのだが、皮膚のひきつれ具合が本気で痛い。これは絶対にかぶれると経験で分かる痛さだ。
「テープが痛いんですけど」
「今は傷を圧迫してるので、明日になってだいじょうぶだったらはがしましょう」
うう、天使が悪魔に見えるよぅ。
骨にぶすぶす穴を開けてるんだから圧迫する必要は分かるけど! けどテープはい・や・だ!!
そこへ手術終了を待っていたらしいコーディネーターさんが、お菓子を持って登場してくれる。ありがたいが、飴はまだだめですと天使に止められた。
「六時になったら夕飯ですから。あと六時間ですっ(笑顔で励まし)」
「遠いですねー……」
「痛みはどうですか?」
「思ったより痛くはないです」
「動いたほうがいいですよ。そのほうが治りがいいそうですから」
と、にこやかに去っていくコーディネーターさん。
せっかく勧めていただいたので、トイレに行こうと立ち上がると、わりに動ける。鎮痛剤バンザイ――と思っていたら。
突然、世界が真っ暗になった。足元からすとん、と魂だけが洞穴に抜け落ちた感覚だ。
「だいじょうぶですか? 顔色が真っ青ですよ?」
「……気持ち悪いです」
「貧血ですよ。寝てください。1リットル近く採ったんですからねー」
支えもらいながら歩いてベッドに横になると、少し楽になる。恐るべし貧血。戻った自己血は、やはりあまりあてにはならないらしい。
それに加えて、男性のかたがたには非常に恐縮なのだが、実は入院と同時にお月さまがやってきていたのだ。いろんな意味で失血過多なわけである。
――血って大事なんだねー。
吸血鬼の気持ちが今なら分かる――わけもないが。
そんなこんなでベッドの上でふらふらしながら貧血と戦い。空腹と戦い。テープのひきつれにじりじりし。数時間ぶりの携帯に緊急の仕事メールを見つけて寝ぼけた頭で連絡をしまくり。
わりにハードな術後だった。精神的にも肉体的にも、いろいろと。
とどめに飢えたように夕食を食べている最中、持参の携帯箸がぱっきり折れたときは、本気で世の中の不条理を疑いそうになった。
――神さまよ、がんばったんだから少しは労わりを見せてはくれまいか。
とはいえ周りは病人だらけなのだから、元が健康体のわたしの重要度が低くなるのは当然といえば当然なわけで。世の中は結局、帳尻が合うようにできているものなんだろうと、いささかの達観を覚えつつ手術の日は更けていった。
合掌。
夕飯:白米、サラダ、ホウレン草のおひたし、おでん(←この大根で箸が折れました…)