(9)術前健診と健康のオススメ
<*月9日>
手術前の総合的な健康診断の日。コーディネーターさんに付き添われ、初めて実際に手術を担当する先生とのご対面となった。説明係だった同級生先生とはここまでで、この先は執刀医とのやりとりが主になる。
向かった先は、なんと小児科だ。
「みなさん驚かれるんですけどね~」
「はあ」
驚くよりも居心地の悪さが先に立つ。
なにしろ病身の子どもたちが待ちくたびれている中、見るからに健康な大人が先に呼ばれるのだ。さすがに術前健診というだけあって、採られる血液のチューブの数が尋常ではなかったが。
一般的な身長・体重・血圧なんてものから、尿検査・レントゲン・肺機能検査まで済ませて午前中をめいいっぱい使いきって検査終了。
せっかくなのでコピーをいただいて、職場の健康診断の代わりにさせてもらった。
骨髄提供の詳細も見えてきた。
差し上げる相手は予想通り、四十代の男性。提供する骨髄量は、とりあえず700ml程度と決まった。
700mlも一度に骨髄液を抜かれると辛いので、手術時には自分の血を輸血しながらの手技となるのだが、そのために必要な血液を確保するために400ml+200mlと二回に分けて採血をおこなうことも決定する。
100ml足りないんじゃないかとか、骨髄を抜かれて普通の血液が戻ってくるのが〝とんとん〟になるのかなど素人的疑問が湧き起こるが、見ず知らずの相手の骨髄から他人さまの血液を造るということ自体、われわれの体にはファジーな部分があるという証拠でもあるのだ。
ファジーなところはそれだけではない。なんとお互いの「血液型」が違っていた場合、相手のかたは「わたしの血液型」に変わるのだ。この先一生。
――……極端な動物好きと本好きが伝染したらどうしよう。
非常に奇妙な感覚である。
子どもを産んだことはないが、それはこういう心持ちなんだろうか――いや絶対に違うと、世界中のママさんから総スカンを食らいそうだ。
クローンではないが、もう自分がひとり産まれるととるべきなのか。
さらに言うと、骨髄提供を受ける側の血液がドナーにものに書き換えられるという状況は、血液型だけの問題ではない。性別が違っていた場合、「骨髄由来の細胞」はドナーの性別になる。つまり今回は男性患者さんなので、移植を受けると血液は女性になるのだ。
命には代えられないにしても、別の女が居座っているという状況。しかも体内に(この書き方が悪いのか)。
どちらにしろ悔やむべくは、もうすこし自分が上等な性質の人間であったらということだ。もうちょっと素直で寛大でポジティブで性根のやさしい――このあたりでかなり無理がある――かわいらしい女であったら、と考えて気がついた。
――……はて。ある意味これは正しいのか。
なにしろ鴇合、昔はどこからどうみても小猿。ある程度の年齢になってからは「ちゃんと〝女の子〟に育ってよかったね」と近所のおばさまがたに安堵され、さらにタロット占いで「あなたの魂は〝キング〟ですね」と言われる始末。
立派に「男性の血液」になれる要素があるのではなかろうか、と思うのだ。
――多少理屈っぽくなって興味が理系に偏ったり、妄想が豊かになるかもしれないけど、相手が女っぽくなることはないはずだ。うん、大丈夫。
この性格がコピーされるとは思わないしコピーされても困るのだが、それくらいを気持ちの落としどころに据えることにした。
われながら厄介なこの性格。それでもマイナスばかりではないのだとすれば、世の中はうまくできているのではないか。ご都合主義でも、そう考えたい。
* * *
最終同意が決定すると同時に、患者さんは、おのれの血液から免疫力のすべてを奪う過程へと移行がはじまる。ときにテレビで映されることもある、あの無菌室の状態だ。ドナーが最終同意をしたら引き返せない所以がここにある。
発病したとはいえ、これまで数十年間自分を支えてきてくれた血液を破壊して、新たな生命循環の要を受容するのはどんな気分なのだろう。
想像しようとしてできるものではないが、なまなかなことではない。ご本人もご家族も。
さすがにここまでくると、わたしも「他人様に命を分ける」自覚をするようになってきた。ネットでいろいろと体験談を読んだり、飲食や体調にも気をつかうようになる。
その流れで、最近忙しくて通えていなかったカイロプラクティク(西洋整体)で腰の調子を整えておくことにした。
いつも整体に一時間、おしゃべりに一時間を費やすそこは、調子の悪いときに駆け込むストレスの吐き出し口である。内臓の疲労が体の痛みに直結するタイプのわたしには、人生の先輩である女性との遠慮ないやりとりは、自分の状態を一番客観的に観てもらえる場でもあった。
施術を受けながら一通り状況を話すと、手術日を確かめられ、「運気的には大丈夫だわ」とよく分からない太鼓判を押される。占いはまるっと信じるほうではないが、統計学的なこともあるし、同じ根拠がないのならダメかもと言われるより大丈夫だと言われたほうがなんとなく安心だ。
それから「よく決めた。いいことだ」と言われるのは他の人と反応が一緒だったが、その次に出た言葉がちょっと違った。
「それは、あんたのためにもいいことよね。新しく自分が生まれ変わるようなもんよ」
「そうなんでしょうか?」
「そりゃそうよ。人にそういうことをしてあげられる人は、なかなかいないんだから。そういう人の人生に関わる機会を与えられたってことは、自分も新しく人生をはじめるようなもんよ」
――……そういう考え方もあるんだな。
素直にそう感心をした。
最初から「与える自分」がこんなので大丈夫かと引け目を感じていた。医学的には保証されている。が、まるでそのあたりの根拠が見えないために、ずっと不安がつきまとうのだ。
もうちょっとふさわしい人がいたんじゃないかとか、まるで恋愛の最中のような愚かなことを。
それでも、この出来事が「誰かの人生を左右する」ことではなく「自分の人生を変える」出来事であるのならば、そのほうが気楽だ。
実際は、気の持ちようなのだとは分かっている。
だけどこのイベントを他人のものではなく、自分のイベントと腹をくくるには、それくらい思い込む必要があるのだと思う。
「だから、体調もちゃんと管理しないと」
「気をつけます」
「トマトがいいわよ。ほら抗酸化作用とか、体にいいらしいじゃないの」
「トマトですか。話題になりましたよね」
「そうよ。トマト、食べなさい」
「わりに高いんですよ」
「なに言ってるの。百五十円のビール買うくらいなら、トマト一個買って食べたほうがいいじゃないの。トマト、食べときなさい」
「……はい」
そんなわけで、すっかり洗脳?されたわたしは、帰りがけに100%トマトジュースを買って帰ることになった。洗脳というよりは根負けかもしれない。
ひさびさのトマトジュースは、わりに美味しく体に沁みてゆき――。
抗酸化作用がどこまで働いたのかは分からないが、その後つつがなく自己血の採血へと駒が進められていくことになったのだった。