(2)あんまりまじめでない理由
ドナーに選ばれた話の前に、わたしが骨髄バンクに登録した理由を書いておく。
実はバンクへの登録は、人道的な理由からというより「まあ、登録くらいはしておくか」という、わりに後ろ向きなものからだったりする。
産まれてすぐ、従弟が小児性白血病になった。なったのか、素質があって発病したのか、突発的なこの病気に関しては調べても良く分からない。とりあえずそのとき以降、「白血病」「骨髄移植」「バンク」なんてキーワードが、わたしの脳みそにしっかり叩き込まれてしまった。
そこで二十歳を過ぎた頃、半分成人記念のような気持ちで登録した次第である。
幸い従弟は、現在むくむくと立派な社会人に成長しているので心配いらないのだが、それだけでなく、なんだかんだと縁はあるものだ。
部活で一緒だった子の友だちが白血病で亡くなった(知り合った頃にはもう過去形だった)とか、近所の人の兄弟が白血病だとかご本人がそうだとか。続々と話を聞くのだ。もう驚きもへったくれもない。
埴色の欠片を扱う職場で一緒だった人が、バンク登録後に骨髄提供したと知ったときは、驚きを通り越して巡り合わせの妙というものを感じた。感じるほかはない。
骨髄移植を治療方法とする病気は白血病だけではないのだが、わりにメジャーな(特にわたし的には)病気だ。それに関連した話をこれだけ周りで聞くと、バンクに入ったことがある意味免罪符のようでもあり、自分や近しい人がいざそうなったときの心構えでもある気さえしてくる。
つつつい、と周りの「縁」という糸に引っ張られて、わたしの元に「骨髄バンク」という道が開けた。
それが正解だ。
世の中には「他人からの移植」ということに好意的でない人も多いことは知っている。
他人の臓器をもらってまで生きたいか――その問いはだが、深刻な病を得ていない者やその人たちの家族以外が論議するものではないと思う。
誰だって生きたい。生きるなら、心地よく存分に生きたい。それは生きるものの業だ。
いや、生きるということがもともと業なのだろう。
衣食住。どれをとっても自分ひとりで生み出すことはできないし、大袈裟ではなく他人の存在がなければ日常生活はままならない。
「移植」とは「人生の前借り」なのだと、わたしは思う。
なにしろバンク(銀行)がらみだ。あるひとが前途有望な会社を設立する代わりに、未来ある人生を打ち立てるために必要なものを借りる。その人生に出資したいか、したくないか。それだけの判断だ。
二者択一で、わたしはたまたま前者を選んだ。
だから「すごいですねー」「えらいですねー」という言葉をかけられるのは、正直疑問だ。
大なり小なり、他人と生きている以上貸し借りは当然のことだ。ご迷惑もおかけする代わりに、多少の手助けはする。
誰だって目の前で人が転んだら「大丈夫ですか?」くらい言うだろう。エレベーターで人が駆け込んできたら「開」ボタンを押す。そのレベルと同じだと思う。
第一それ以上のレベルは、人がひとりで抱え込むには重過ぎる。命が関わっているのにいささか軽率すぎるようだが、残念ながら人は、自分が一番かわいい生き物なのだ。
自分を大事に、なおかつ良心に恥じない程度に――それもまた自分のためだろうが。
そのバランスを保つのに、深刻さはむしろ邪魔だ。まじめに軽く。それがモットーだ。
誰だって、気難しい顔をしたボランティアに助けられても嬉しくはあるまい。
骨髄だってそうだ。
深刻に考え込んだ血液より、多少あほでも明るくライトなほうがいいのではないだろうか。
……あくまで個人的な見解であるが。
どのみち、どれだけ深刻になって悩んでも、できることはしれている。わたしのHLA型も相手さんのHLA型も、世界中の誰のものだって、どうやったって変えようがない。事実は動かせないのだ。
ある日あるとき突然に、事実と事実がつながった。
縁。
この状況を表わすのに、これ以上の言葉はあるまい。
人生って、わりとそんなものだ。