大天使の動揺。
いくどか書いた、前の職場での話である。
動物の医療に携わるそこは、改装前は薬置き場が着替え場所だったりする、限られた空間があますところなく活用された職場であった。どの部屋にいても、だいたいお互いのことが把握できるのが利点であり欠点でもあるのだ。
あるとき、片づけをしていたわたしは、隣の部屋で院長が他院の先生と電話で話しているのを耳にした。
「……大天使が……ははあ。動揺しているか確認を……」
――い……今、なんと!?
わたしの頭の中に、白い貫頭衣姿の大天使さまが、おろおろと蒼ざめた顔で空を飛び交う姿が鮮明に浮かびあがる。もうラッパは鳴り放題の黙示録状態だ。
――ちょっと待ったぁっ!
さすがにここは二十一世紀の医療現場である。神さまのことなど関係あるはずもない。
わたしは傍にいたスタッフに尋ねた。
「先生、なんの電話しているの?」
「○○ちゃんのことみたいよ」
「!」
数日前から入院している犬の名をあげられ、わたしはようやく思い違いに気がついた。
「だいてんし」は「大転子」。神さまのお使いなどではなく、股関節を構成する骨のひとつだったのだ。
股関節脱臼という診断のくだったその子は、成犬にも関わらず先天的な原因が多分にあったため、整復(外れた関節を元の位置にもどすこと)して固定というだけでは不十分で、他院の優秀な先生の手による手術がおこなわれていた。普通よりも浅くて外れやすい股関節に大腿骨を嵌め込み、ピンで固定するのだ。
ところが、犬は非常に痛みに強い。人間ならば動けるはずもないのに、股関節が正常な位置に戻って手術のショックが遠のくと、ピンで固定されていようが包帯でぐるぐる巻きにされていようが、元気に動きたがるのだ。
いいことなのだが、これが厄介だ。病院にいれば帰りたくて暴れ、家に帰せば嬉しくてはしゃぎまわり、安静なんだよと言い聞かせたところで話は通じない。
かくして治療経過を確認するレントゲンで、不味い事態が判明してしまうのだ。せっかく固定したピンの位置がずれているのである。
つまり先ほどの電話は、この状態のまま様子を見るべきか、手術をおこなった先生に確認をとっていたというわけだ。神秘的な話はひとつもない。
「大転子」はふととも部分である「大腿骨」の上部、骨盤にかみ合う有名な「大腿骨頭」の外側に位置し、股関節を動かすための大事な筋肉がつく部分だ。
翼が生えて飛んでいくなんてとんでもない、重要な器官である。
手術では、もちろんそこを補完するようにピンで固定がなされたはずだ。ところが当たり前だが、固定したてのものを強引に動かせば、ピンは緩まる。
ピンが緩まってぐらぐらと動く状態。これを「動揺」と呼ぶ――のだそうだ。
なんてまぎらわしい日本語だ!と思ってはいけない。「揺れて動く」のだ。「動揺」は実に的確な表現ではないか。まぎらわしいのは聞くほうの心だ。思い込みがすべてを揺れ動かすのである。
これで謎は解けた。われわれは、飼い主さんも含めてまたひとつ課題を抱えてしまったというわけだ。
麻酔をかけて縫合の痕を剥がし、「大転子」近くに埋め込まれたピンが「動揺」していないか確認するのである。もちろん「動揺」が酷ければ再手術だ。
なにが一番「動揺」しているのだか分からない、ある意味混沌とした状況であった。
結果を言うと、ピンの緩まり具合は予想よりも少なく、再手術は見送りとなった。この一件で懲りた飼い主さんは深い愛情をもって飼い犬を厳しく見守り、一ヶ月後、二ヶ月後のレントゲンでも再発はみられなかった。一件落着である。
もちろん、股関節の固定が終わればまた手術でピンを取り出さなければならないし、治ったといっても体重の管理や関節のケアは一生続けていかなければならない。
けれどもまあ、この程度の病気を背負うくらいであれば、神さまとの折り合いもそこそこつこうというものだ。
* * *
聞き間違いではないのだが、意図した言葉が間違って伝わったことは他にもある。
職場が変わり、ある方の部屋におじゃました際に見つけたものを、帰ってうきうきと家族に話した内容がそれであった。
「先生の部屋に冷蔵庫があってさー」
「ふーん」
「そこに〝開放厳禁。うちゅうじんが入っています〟って貼ってあるんだよね。すごくない?」
「そりゃあー……解放できんねぇ」
普通に話していたつもりのわたしは、その反応に気がついた。
慌てて訂正する。
「や、冷蔵庫の中に宇宙人が体育座りして入ってるわけじゃないからね。〝宇宙塵(うちゅうじん)〟だよ?」
何度言っても「うちゅうじん」だから同じことだ。
「塵(ちり)だからね!」
「いやいや。そりゃ絶対〝宇宙人〟入ってるよ」
「先生、NASAに連れてかれちゃうじゃん……」
「冷蔵庫、開けてみなさいよ」
「よく分かんない小瓶とかしか入ってないと思うよ?」
「その中に塵と見せかけて、小さい宇宙人が入ってるかもしれないじゃないの」
「どんなのそれ……」
妙な想像が膨れあがったのも仕方ないことである。
大変貴重なサンプルのため素人の好奇心で失われるわけにはいかずに、その確認は実行に移されることはなかったのだが。
* * *
思い込みや勘違いは多い。
日常で、犬が歩いて棒に当たるのは目にしたことはないが、歩いていて犬がぼーっと日に当たっているのを見たことがあるくらい、ままあることである。
まかり間違って、勘違いで大損害や大事故にならないとも限らないが、ほとんどが笑って済ませられるものではないだろうか。
ひねくれて言うならば、勘違いが訪れた時とは、笑って済ませられるか否か。そのひとの心の柔軟性が試されている瞬間なのだと思うのだ。
なかなか物の見方を変えられない自分たちの常識を、横っ面から眺める絶好のチャンス。そう考えると、人生は思いもよらない色を纏う。
たとえば、自分の太腿の一部に「大天使」がいるのだと思う。
たとえば、宇宙のあの真っ暗な中に無数のこまかい「宇宙人」が漂っているのだと思う。
そういう人生も、そう悪くはない。
ちなみに「しょうてんし」も存在します。