上下関係。
人として言語を発する以上、「方言」という存在とは切っても切り離せないものがある。
一応標準とされる言葉はあるが、首都である東京ですら「東京弁」、古くは「江戸弁」と呼ばれ、それはそれで独自の文化を築いてきた。「標準語」を話すのはもっぱらアナウンサーに特化され、最近はテレビなどの影響で他府県の方言の入り混じったよく分からない流行言葉が出来上がりつつある。
「標準語」が、一部宗教や学術界においてのみの公用語である「ラテン語」と同じ扱いに成り果てているというのは、それはそれで興味深いと言えなくもないのだが。
ところで、私も御他聞に漏れず、ある独特な方言を話す地域に住んでいる。
実は、私にとってこれは、まったくの異質なのだ。両親は共に別々の県の出身で、母などは各地を転々としすぎて、ものすごくきれいな「標準語」しか話せない。どこかネジが入れ代わってしまったのだ。
母国語は幼少期の耳で育つというが、どうやら本当らしい。おかげで生まれ育ったにも関わらず、住んでいる地方の方言は、まるで未知の言語だ。○十年になろうかというのに、知らない言葉が山ほど出てくる。
今も多少バイトで絡んでいるが、動物関係の職についていたときのことだ。
その地域は、私の住んでいる町とは山をひとつ挟んだ南側で、ちょいと海の男たちの息がかかっていなくもない場所だった。そうなると、多少言葉も荒くなる。
ある日やってきたのは、見るからに無愛想な五十がらみのおじさんだ。あまり手のかけていなさそうな、これまた無愛想な雑種犬を連れている。
「今日はどうされましたか?」
「うちのがあげよるんよ」
「……」
物を貰うとかいう話ではない。無理やり漢字で書くと「上げる」だ。ちなみに「よる」は「している」という意味。
「上げている」――つまり体の機能反応のうち、ある物体がA地点からB地点に上昇するということは――嘔吐、である。
こういうときは、方言で返すに限る。
「あげよるだけですか? どれくらいあげよります?」
「もう、あげたりさげたりよ。何回も」
「さげよるんです?」
頭のいい方ならお分かりであろう。
「上げる」が嘔吐ならば、「下げる」が何を意味するか――。
もし、これを読みながらお食事をされている方がいたとしたら、非常に申し訳なく思う。
「はあ、そりゃえらい(=しんどい)ですねえ。今はちょっと落ち着いとるんですかねぇ?」
「出るもんも出きったわ。すごかったんじゃけえ」
そこを自慢されても仕方ないが、とりあえず嘔吐下痢の飼い犬を心配する心優しい飼い主さんであることは確かだ。こういう方は、分かりやすく説明すれば、医師の指示を忠実に守ってくださることが多い。
酷い嘔吐下痢という症状は、ウイルス(伝染病)か寄生虫かとびくびくするが、結局その患者はそういった症状は認められず、一般的な腹痛の治療をされた。もちろん飼い主のおじさんも、「あとはお願いしますけん」とこちらが投げた球をしっかり受け取ってくれたようだ。
その後、その犬が「あげたりさげたり」で来院されたことは、私の記憶する限りない。
方言というのは、「同じ共同体にいるんですよ」という旗印みたいなものだ。県外でも海外でも、同じ音をもつ人の声は、特別に耳に響く。そして区別がつく。
私のように寄る辺ない故郷の持ち主にしても、強引にコミュニティの音を染みつかせて、後天的に地方を刷り込んでいくことでどこか安堵感を覚える。
さながら、新しい地にゆっくりと根を伸ばしていく草のように。
それでいて、ときに言葉はものすごく邪魔だ。本当に伝えたいことを、薄いヴェールで阻まれているようなもどかしさが常にある。
「あ」と書けばそれだけなのに、声に出した「あ」はただの「あ」ではない。驚嘆であり、注意であり、歓喜であり、嬰児の一声である。それでも、言葉に含んだすべてを相手に伝えきることは出来ない。
だから、言葉は形を変えていく。
変わっていく言葉、朽ちていく言葉、忘れ去られた言葉、産み出された言葉。
さまざまなその言葉の森から、私たちは日々想いを伝えるにふさわしい音をうまく選び取れているだろうか。
ふと、不安になる。そしてその不安を解消するために、私たちは言葉を発する。
「大丈夫じゃけえ」
「うちらはひとりじゃないんじゃけん」
そう、それは例えば今。この地のどこかで、肉体的や精神的にも「あげたりさげたり」している人たちにかける言葉を模索する。
気の利いたクールギャグなど言えない代わりに、一言を。
「無理せんと、一緒にぼちぼちやってこうや」
日本全国津々浦々、上から下までまとめて全部「ニッポン」だ。
同じひとつの未来に向かっているのだと信じている。
デ○ブさんのついったに嵌まりました…。