一人前。
ついに色関係の題名が尽きました…。
一人前――「ひとりまえ」と読むとただの食事の分量だが、「いちにんまえ」と読んだとき、その意味は深い。
この雑記で以前載せた「青山さん」の記事で書いた演奏会で、詩人のIさんが話されたことだ。
かつて、ご自身の娘さんを亡くした経験のある、Iさん。
そのIさんは前年、前々年と引きつづいて、実のご両親を亡くされた。
団塊世代の母より年下だが、それくらいの方のご両親となれば正直、天に召されても不思議ではない年齢である。もちろん別れは辛いし哀しい。
それに、自分の産まれる前から存在していた人がこの世からいなくなるというのは、かなりの衝撃だ。それでも、時には勝てない。
Iさんは、ご両親が亡くなったことについて多くは語らず、簡単にこう話された。
「これで、わたしも一人前になったということだと思います」
一人前。
ご両親が今まで生きてらしたのは、Iさんが一人前と認められていなかったから、ということなのか。
わたしにとっては、小さな激震であった。
いろんな家庭があるはずだ。いろんな事情があって、いろんな関係の親子がいる。
友だちのように仲良しもいれば、同じ空気を吸うだけでも嫌ということだって当然ある。
それでも、ただひとつはっきりしているのは「親がいなければ自分は産まれていなかった」という純然たる事実だ。親としての責任云々はともかく、それだけは揺るぎようがない。
20才になろうが50になろうが、還暦過ぎようが、親子は親子。
考えてみれば不思議なことである。当たり前すぎて、とても不思議だ。
「一人」が在るために、「一人」では足りないのだ。
自分が「ひとり」だと自覚したのは、いつ頃だろう。
だが、それは「一人」ではなく、弱い心が「独り」という自分の影を見ていたにすぎないのかもしれない。「一人」は、もっと強くなければ、立っていることができない。
そのうえ、無数のものを費やして幾万の命に養われているわたしたちは、完全に「一人」になることなどできはしないのだ。
一人前。
それは、大切な誰かを亡くしたとき、
「貴方がいなくても、私はきちんと生きていきます」
と誓って見送ることのできる、その心を言うのではないだろうか。
一人で、前へ。
その一歩は小さく震えても、それでも貴重で偉大だ。
自分自身でしか進めない一歩なのだから。
そこに広がる新しい景色を掴みとるのは、自分にしかできない。たぶん、それが本当の人生の醍醐味なのだ。
大切な誰かを、何かを亡くしたとき。心に塞がったかさぶたを剥いで痛みに浸ったり、記憶に残る甘い味を思い出して美化したり、どうしようもない「もし」を思い巡らせることがある。
そんな自分は、まだまだ「半人前」である証拠だ。鼻で笑ってやるといい。
そんなことでは、役割を終えたものたちも安心して去ることができない。
笑って、見送る。それがこの世に残されたものの役目だ。
無様に転んでも、前向きならなんとかなる。
それでも――まだ半人前というのも、そう悪いものではない。
少なくとも、自分が一人前でない限り、大切なものたちはまだこの世に踏みとどまってくれるようだから。
ちなみに、わたしの両親は根が八方美人なせいか病気ともつき合いがよく、あっちが痛いこっちが痛いと言いながら、いたって元気に暮らしている。口がおとなしくなる気配がないので、当分お迎えは来ないのだろう。
わたしが「一人前」になれるのは、まだまだ先のようである。
それもまた、人生だ。
――ケ・セラ・セラ。
ケ・セラ・セラ(Que sera sera):なるようになる。
…調べてびっくり。これって、正しいスペイン語じゃなかったんですね…。ほへー。