桃色のマフラー
季節ものということで。
クリスマスには夢が詰まっている。時として本来の目的とはかけ離れた、イベント満載の夢である。
恋人たちはきゃっきゃうふふな出来事を期待し、子どもたちはプレゼントとケーキに憧れを募らせ、親たちは懐具合を気にしつつも、年に一度だと開き直る。そんな夢だ。
この夢をどう現実と擦り合わせるかというのは、なかなか難しいところだ。特に大きな期待を抱いている子どもへの説明は、親としても気を遣う。
聞いた話によると、「大きくなったから、来年からサンタさんは来れなくなりました。あとはお父さんとお母さんにお願いしてください」という文面をわざわざ知人に英訳してもらい、子どもを納得させた人もいるようだ。
しかし、そんな回りくどいことをしなくとも、この情報化社会の中で、子ども自身はうすうす実態を感づいているものだ。そして、夢の終わりとは常に唐突に訪れる。
わたしの夢が壊れたのは、幼稚園の年長組のことだ。通っていた園はプロテスタント系で、小さいながらもクリスマスはまさに大イベントであった。
ホールには大きなクリスマスツリーが置かれ、クリスマスまでの間、1週間に1本ずつ礼拝堂のキャンドルの灯が増えていく様は、否が応でも興奮が高まる。もちろん当日はキリストの降誕劇を演じ、天使の格好をして賛美歌を歌うのだ。その準備もまた、わくわく感をもたらした。
極めつけは、赤い帽子に赤い服、白い髭をつけたサンタの登場である。中身が園長先生ということは容易に察せられるのだが、大きな白い袋を担ぎ、一人ずつにそれぞれ違ったプレゼントを用意してくれる彼は、きっと一時的にサンタになったに違いないと、幼少のわたしは思い込んだ。
その夢をいとも簡単にぶち壊したのは、二歳上の兄である。
無邪気にサンタを期待している妹が気に食わなかったのだろう、すでに小学生であった兄は「プレゼントは親が用意してるんだ」という悪魔の囁きをわたしに吹き込んだ。
さらに、証拠だと母の押入れを開け、編みかけの毛糸のマフラーをわざわざ見せつけてくれたのだ。
混乱したわたしは、初めそれを信じなかった。だが、幼稚園でのクリスマス会の当日、園長サンタがくれた包みを開け、兄の言ったことが真実だったことを知ったのである。
かわいらしい、少しオレンジがかった、ふわふわの桃色のマフラー。
色も毛質も大好きなもので、これで何も知らなかったのであれば、満面の笑顔で受け取れただろう。
しかし、夢破れた落胆が著しかったわたしは、明らかに失望した。周りに分かるほどに――参観に来ていた親が気付くほどに。
今思えば、親が一生懸命手編みしてくれたものなのだから、サンタがくれたのでなくとも喜びようはあったはずだ。それでも、赤と緑と金と銀の輝きに目の眩まされたわたしには、その小さな桃色のマフラーに籠められたものに、なにひとつ気付けなかった。
クリスマスの由来は、「ノエル=光の生まれる日」だという。
12月の終わり間際に訪れる冬至、すなわち昼がもっとも短くなり夜がもっとも長くなるこの日を境に、その割合はより光を増していく。
その長かった冬が終わりへと向かう節目を祝う祭りが、一部宗教の救い主の生誕と掛け合わせて発展したものが「クリスマス」だという話が一般的である。
だから本来は、きっと「光」を祝う日なのだ。
太陽ということだけでなく、どんよりと灰色の影の差す日常を照らす「光」となるもの。
それは家族であり恋人であり、名も知らぬ周りの人である。幼いわたしには、その「光」がまったく見えていなかったけれども。
そして、そんなわたしと他者の間に満ちる形にならない何かは、どこか確かに超越したものの存在を感じさせてくれる。それを例えば神と呼んでも、一向に差し支えないと思うのだ。
あの桃色のマフラーをくれたサンタ役の園長先生は、アメリカ人の牧師さまであった。
拙い日本語を話す背の高い彼は、実は、かつて第二次世界大戦で爆撃機に乗っていたパイロットだったのだという。わたしたちの街にも飛んできたらしいとは、母経由で耳にした、敬虔なクリスチャンである青山さんのお話だ。
彼が何を思って聖職を選んだのかは、わたしの推察すべきところではない。それでも彼が、大戦を終結へと促した爆弾の掠めたこの地で幼稚園の園長をすることになったのは、なにか不思議な導きがあったように思えてしまうのだ。
そんな彼が渡してくれた、クリスマスプレゼント。プレゼントを用意してくれた親たち。
あの桃色のマフラーにそれほど感動的な意味はなかったにしても、喜んで受け取れなかったことが、今も少しだけ苦い。
取り落とした想いの欠片が、桃色の傷痕となって、この時季わたしの胸をうずかせるのだ。
今宵は聖夜。
明日になったら、混雑を避けて予約したクリスマスケーキを受け取りに行く予定だ。
世間の王道をどこか斜に構えてしまう我が家だが、たまには長いものに巻かれてしまうのも悪くない。
親は、微妙に照れながらも、それを喜んでくれるだろう。
そういう機会を与えてくれたどこかの誰かは、やはり少しだけ偉大だ。
世界中のそこかしこで祝われているはずだが、この言葉を言う人は少ないと思うので、彼にこの言葉を捧げたい。
お誕生日おめでとう、かみさま。
そして生まれてきたすべての人たちに――ありがとう。