青山さん
先日、母の代理で、とあるコンサートに行った。例の詩人のIさんの朗読とピアノのジョイントという、ちょっと聞きには分かりづらい内容の非常にこじんまりとした演奏会である。
会場は街の音楽教室、しかも一階は雑貨屋さんという、これまた微妙な場所だ。そこに高速で一時間もかけて車で赴く目的は、なかば応援団のような気持ちからである。特に今回は、母の代理だ。
母もぎりぎりまで薬とにらめっこしていたが、無理はできないと判断したようである。
出かける間際、残念そうな母から、私は伝言を仰せつかった。
「青山さんが来てるかもしれないから、よろしく言っておいて」
青山さんとは、私が二~三歳の頃に同じ社宅に住んでおり、引越しをされたご家族である。母も私も御縁ができると長いほうなので、驚くに値しない付き合い方なのだが、私は二~三歳以降、その青山さんとは電話で喋ったことしかない。あとは母のお喋りから聞く話が九割九分九厘だ。
聞けば、会場がご自宅と近いので、声を掛けてみたのだという。
「今まで連絡来ないけど、行かないっていう連絡もないから、たぶん来ると思うんだよね」
いかにも母の友人らしいファジーさだ。
「会ってわかるの?」
「うん。〝青山さん〟って感じの人だから、会えば分かる」
「……」
時間のなかった私は、それで話を切り上げた。どのみち突っ込んでも、得られる情報は大なり小なり同じに決まっている。
開場十分ほど前に着いた私は、一階の雑貨屋で時間を潰す間にIさんに挨拶し――そして、数十数年ぶりに〝青山さん〟と対面した。
運命的な出会いというわけではない。コンサートの当日券を電話で予約していたらしい女性が、雑貨屋のカウンターで名乗られたのを立ち聞きしたのである。
「青山ですけど」
それでも、声を聞いた瞬間に「この人だ」と思えたのは、電話で耳にしたことがあるからだけではないのだろう。その声はどこか、古い記憶の片隅で眠る、私の何かを刺激した。
店の人とのやり取りが落ち着いた頃を見計り、私は声をかけた。
「どうも。鴇合です。お久しぶりです」
「ええっ。まあ、ほんとに!」
青山さんは、まさに〝青山さん〟という感じの人だった。すらりとした背筋に柔らかな物腰、おっとりとした雰囲気の漂う、母よりやや若い年頃の奥様であった。
母と会うのを楽しみにしていたという青山さんは、ありがたいことに、こんな数十年の空白のある成長しきった友人の子どもとの再会を大変喜んでくださった。
「まあ、お母さんに会えるより良かったわあ。大きくなって!」
二~三歳の頃と比べられても辛いものがあるので、私は適当に笑ってごまかした。
幼い頃を知られている相手というのは、不思議なものである。親戚がもう一人増えたような、なんだかプライベートな人間関係の外堀がひとつ埋まったような、奇妙な感覚だ。
青山さんからは、いろいろな話を聞いた。飼っている犬のこと、ご主人のこと、趣味のこと。母に編み物を教わったこと。
「編み物をするたびに、あなたのお母さんを思い出すのよ」
母はまだ亡くなったわけではないが、改めてそう言われると複雑な気分になる。
実は以前、病気がひどくて落ち込んだ時に、母は毛糸を全部捨ててしまっていた。編み棒もかぎ針も何もかも、まとめて離れた妹や友人へ送り、余ったものはゴミで出した。
昨年ようやく病状も気持ちも落ち着き、再び道具を買い直して編み物をはじめたのだが、ベストを編み上げた矢先、それをあげるつもりでいた祖母が急死。母はまた、編み物道具を押し入れの奥へとしまいこんでしまった。
そのことは、だが私は青山さんに告げなかった。なんだか、こんな友人がいるのなら、母はまたいつか編み物をはじめるだろう。そう思ったからだ。
「母の教え方は結構適当でしょう」
「よく怒られたわあ。分からないところは、貸しなさいって言って、やってくれてね」
「私、いまだに身頃をうまく閉じれないんですよ」
他愛のない話に、それぞれの過去を思う。思いきり良く社宅で暴れ回っていた私たち子どもは、親たちのそんな関係をひとつも感じ取れていなかった。
「今思うと、あの頃が一番充実してた。子育てしてね」
子どもが手を離れ、夫が退職し、なだらかに人生の秋口へと向かう――きっと順風満帆である人などいないのだろう。それでも散り去る前の紅葉のように、親たちは静かに人生の第二の山場を歩んでいるのだと思う。
ゆるやかに続いてきた友情と同じような、ぬるい熱情の山場を。
今、私の周囲には、子育て中の友人が増えつつある。今週も一人、産まれたばかりの赤ん坊とお母さんを祝いに行く予定だ。
彼女たちにも、きっと子育て仲間がいる。それはお互いの抱える事情で、関係が途切れてしまうこともあるだろう。それでも、どこかしら人生の場面で、その人にとっての〝青山さん〟が居てくれるはずだ。
母のように長い付き合いはできなくとも、人生の若葉の頃のかけがえのない時間を共有する相手。それは、人生の宝だ。
そんな宝と出会えた母は、間違いなく幸せ者だと、私は思う。
〝青山さん〟は実名です。お世話になりました!