天然色のハンカチ
「天然」と呼ばれる人が存在する。
「天然ボケ」の略称で、だからといってお笑い芸人ではなく、主に素人のどうしようもないおばかさん的な人に使われることの多い、日本人的ぬるま湯度に満ちた形容詞だ。
母は、この「天然」に相当する人と思う。
産みの親である人に対して断っておくが、母はけして頭の悪い人ではない。漫画から児童小説、歴史にミステリー、純文学、SFとジャンルこだわりない雑読者で、ナンプレとクラシックを愛するお茶目な女性だ。
しかし「天然」であるということに異論のある周囲の人間は、そういないと思う。
そして、多くの「天然」の人がそうであるように、多少困ったことをしでかす人であった。
「天然」の子であるわたしは、やはり多少その気があるのか、そそっかしい人間である。あるときわたしは、職場のお昼時間に淹れた紅茶をこぼし、同僚の年上女性にハンカチをお借りすることになってしまった。
染みひとつない真っ白な綿のハンカチを使うことはためらわれたが、惜しげもなく差し出された好意にわたしは遠慮なく甘えた。
「すみません、洗って返します」
気にしないでいいのに、というその人から、わたしはお願いするような形でハンカチを持って帰り、母に相談をした。
「これ、なんとかなりそうかな? 紅茶をこぼしたんだけど」
「大丈夫、やっといてあげるよ」
わたしは愚かにも、その言葉を信じた。いや、そもそも自分の尻拭いを母にさせたことが最大の失敗だったのである。だが、そそっかしく不器用でもあるわたしは、母に染みのついたハンカチを託し、すべてが終わったような気になっていた。
翌日の夕方、帰宅したわたしは、期待をこめて母に尋ねた。
「ハンカチどうなった?」
「できたよ、はい」
青天の霹靂という言葉は、こういう瞬間のためにあるのだと思う。
ハンカチは一面、隅から隅までまぎれもない淡いベージュ色に染まっていた。
「どう? 紅茶染めしてみたんだけど」
「……」
ムラなくきれいに染まりました、と得意げな母に、わたしは何と答えたか記憶に残っていない。
白くなるはずだったハンカチを見て、頭が真っ白になったのは、後にも先にもこのときだけだ。
ふつふつと湧き上がる怒りに震えつつ、母にハンカチを漂白するよう言い、後日周りの友人全員にこの出来事を話しまくったことだけははっきりと覚えている。
救いは、当のハンカチを貸して下さった方が爆笑してくれたことである。
「いいわよ。わたし、紅茶染めのハンカチでも」
「いえ、ちゃんと元に戻しますので」
わたしは穴があったら入りたい思いで一杯だったが、今にして考えると、母の発想はそう悪いものではなかったのかもしれない気もする。
汚れを落とすのではなく、汚れの色に染めてしまう。しかし、クリエイティビティを求められる分野ならともかく、日常での発想の転換など、他人を振りまわす以外の何物でもない。
その翌々日。丸一日漂白剤に浸けられたハンカチは、元の白さで無事お返しすることができた。おかげでこの話はしばらく、職場での雑談のよいネタとなってくれた。
結局母はその後、紅茶染めには一度もチャレンジしていない。
ハンカチを貸してくれた方は、数年前、母より若くして身罷られてしまった。
今でも真っ白なハンカチを見ると、わたしはふと、なんともいえぬ苦い気持ちに囚われてしまうことがある。