あなた色に染まるということ
色っぽい話ではない。
自分ではどうにもままならない別の「あなた」色に染まる――つまり「遺伝」である。
幼い頃はそうも思わないが、年齢を重ねるたびに血の繋がりの見事さを実感することはないだろうか。
視力の良い兄弟たちの中でも、目の悪い父と母から生まれたわたしと兄はやはり近眼だし、癖のある硬い黒髪も同じくそうだ。
母は150センチ足らずの小柄で、父方の体格の良さを継いだわたしとはかけ離れているのに、二人で歩いている後姿がそっくりで、近所の皆さまの爆笑を買ったこともある。
これが、親戚一同が集まるとさらに恐ろしい。わたしの兄は早世した祖父の兄に生き写しだし、叔父(母の弟)の娘と叔母(母の妹)は、なぜか叔母自身の娘よりも瓜二つだ。祖母と母は似ていないようで、写真に写るときの首の傾げ方が同じだという、奇妙なシンクロもある。
数十年ぶりに駅で父方の伯父と待ち合わせたときに、わたしよりも同行した初対面の友人のほうが先に相手を見つけてしまったりすると、その血筋の確かさに、もう笑うほかない。
環境を同じくするということもあるのだろう。外見だけでなく、趣味や笑いの傾向もだいたい似通ってくる。
そのひとつに金銭感覚がある。とかく、皆こだわりが薄いのだ。
祖父が死んだときは、遺産争いなどとメロドラマ風なことは一切起きず、兄弟全員が遺産放棄に一律決定。借金もない代わりに、溜め込むということもあまりしない。要は、金銭に対する執着が限りなく低いのだ。
いいことのようだが、これを日常で行うと結構大変である。
宵越しの金は持たない、エセ江戸っ子的な、空っ風の吹くお財布事情が露見するというわけだ。
数百円単位のお小遣いから始まったわたしの財布も例外ではなく、学生時代から1円残らずきれいに使い果たすのがなかば癖のようになっていた。兄はわりと計画的なほうだが、その代わり目標を決めて大きなものをドンと買う。結論、どちらも通帳には涼しい数字が並んでいるのに変わりはない。
或る日いつものように軽い財布を眺めて溜息をついていると、慰めるつもりか、母が声をかけて来た。
「まあ、仕方ないじゃない」
「なんで」
「だってほら、うちの貧乏は遺伝だから」
そんな遺伝は真っ平だ!と叫びたいが、なぜだか血よりも濃くその部分を受け継いでしまっている自覚があるわたしは、反論の言葉をもたなかった。
貧乏は遺伝する。
誰かこの因果関係を解き明かしてくれ――ることはまずないとは思うが、貧乏という螺旋の迷宮に入り込んだわが一族に、節約という突破口を見出すことが果たしてできるのだろうか。
いや、それよりまず「節約」の遺伝子を探すことのほうが重要なのかもしれない。情けなくも、われわれ子孫たちは、誰一人として成功していないようであるけれども。
願わくば、この「貧乏」の遺伝子が、優性遺伝子でないことを祈るばかりだ。