色なき風
近頃はこの秋の季語がふさわしいほど、涼しさのたつ季候になってきた。
温暖化などと言われ、四季の混乱した一年が過ぎることもあるが、それでもこういった言葉に残る日本の季節や風景は、残していきたいものだとつくづく思う。
わが家の周りは、まあほどほどに田舎である。田圃だった周囲が次々と埋め立てられ、家や道路ができて、絵本の『ちいさいおうち』のように少しずつ追い立てられている。そんな田舎だ。
山に入れば、どこかとシンクロするように『熊に注意』の立て札が顔を見せる。近所の浴室で白蛇がとぐろを巻いていたのに驚けば、自分の家の雨樋が詰まった原因が2メートルほどの青大将の抜け殻だったこともあった。誰も手をつけていない近所の野原には長いこと雉の夫婦が棲んでいたし、カワセミや時に派手な頭のヤマゲラもやってくる。
空港整備のために山が拓かれれば街に猿が下りて騒動となるし、背広を着たおじさんたちが深刻な顔で話していると思えば、猪退治の対策だったりする。ひとつふたつ山を越えると、村の住人のような顔をした鹿とばったり出くわすというのは珍しいことではないのだ。
まあ、たまに家の猫が奇妙なネズミを捕まえてきたと思えば、ハムスターだったということもあるのだが。
ある時など、深夜、隣の家の犬が恐ろしい声で鳴いたので何かと思ったら、驚くことに狐が出たという。
狸はときどき交通事故で轢かれているのを見かけるが、わたし自身はまだ狐を見たことがない。狐などいるのかと訝しむわたしに、
「普通にいるよ」
と告げたのは、埴色の出土物の調査員の一人だ。その方のご自宅は、実はわたしの家とはそんなに離れてはいない。
「お家の近くですか?」
「うん。なんか最近うちの近所で、履物の盗難が多くてさ……」
その方は、そう話を切り出された。
田舎なので、暑い日中は家の勝手口や玄関など開け放していることが多いのだが、そこで靴やつっかけが良く盗まれるのだそうだ。しかも、
「片方だけ、なんだよね」
泥棒なら、靴は両方盗むはず。これはきっと動物の仕業に違いないと近所中で噂になったが、それでも罠をはって仕掛けようというところまではいかない。
盗まれるのが貴重品ならともかく、使い古した履物ばかりなのだ。
ところが、ある日偶然にも、近所のひとりが盗難の現場に出くわした。
なんと、小さな狐がよれよれのスリッパをくわえて、てくてく歩いているのを目にしたのだ。その人はこっそりと後をつけ、狐のねぐらを突き止めた。
宿主のいない時を見計らって確認してみれば、その小さなねぐらには、片方だけのつっかけやスニーカーや靴が山となって積み重なっていたらしい。
「なんでまた?」
「さあ? 集めたかったんじゃない?」
その場所は、瞬く間に近所中に知れ渡り、ひそかに『靴塚(くつづか)』と呼ばれるようになった。
「その狐はどうしたんですか?」
「うん、まだいるみたいよ」
失くなった履物の場所が分かればそれでいいということになったらしく、近所の人は「ああ、あの靴がないな」と思うと、そこへ行って取ってくるのだそうだ。
そして、それをまたいつの間にか狐に取られる。
取られ、取り返し、また取られる。
本当になんでもないそのことに、なぜだかわたしは、不思議なくらい激しい郷愁を覚えた。
日本昔話はこんな日常から生まれたのだと、素直にそう思える温かさ。
人間の暮らしと自然とが、がっぷり四つに組むのではなく、少し顔を逸らしながら、それでもお互いを尊重し合う――ふたつの世界が隣り合いながら、ほんのわずか交じり合う、そんな風景。
これこそが「日本らしさ」の原点なのではないだろうか。
ともすれば両極端なほうへシフトしがちな現代において、こういった曖昧な関係が、他の日本の小さな片隅でも、同じようにひっそりと続いてくれているといい。季語を尊ぶひとの心が、まだ今も残るように。
秋色の深まる澄んだ風に包まれながら、わたしはふと、そんなことを思った。