心の音色
小澤征爾さんの復活コンサートを番組で観た。
わたしのクラシック体験は9割が母の受け売りなので、その分野に関しての知識は全く薄っぺらいのだが、彼の生き様は素人的にも素直にすごいと思う。
そして書きたかったのは彼のことではなく、奏でた音のことだ。
チャイコフスキーの『弦楽セレナード』第1楽章。
始まったとたんに、空気が馥郁(ふくいく)とした香りで満たされるような感覚にとらわれた。弦の響きが重なり合いもつれ合うそこに、鮮やかな色彩が展開していく。
「音色」という言葉は、一体誰が言い出したのだろう。考えてみれば、あまりに当を得た表現である。
音は、ただの可聴音域に属する空気の振動だ。それをわれわれの耳が捉え、増幅し、音として理解する。
逆を言えば、わたしたちの聞こえない音も、世界には充満している。
わたしたちの耳は、なにを聞き、なにを聞かないように進化してきたのだろうか。
「静寂」は交響曲の最初の「音」である、というようなことを言ったのは、バレンボイムだったか。
「静寂」のなかに潜む「音」。
吐息、脈拍、鼓動、大気の流れ。ゆっくりと、だが一月に数ミリずつ動く大地。
聴覚として捉えるまでもないその振動は、それでも、聞こえていないわけではないのだろう。
天で雷音が轟いたとき、荒々しい海鳴りを前にしたとき、壮大な和音に包まれたとき――わたしたちは、その響きに全身が震えるのを感じる。
音は確実に、この肉体、この細胞に伝わってくるのだ。
この「音」こそ原初の「言葉」なのだと、わたしはその演奏を耳にして、初めて気付かされた。
「言葉」は、音の積み重ねだ。複数の音が生じ、音節となり、固有の音節が定着して、共通の或るものを表わす単語となる。
他者に何かを伝えたくて始まった、音の進化。
だが、伝えようと形を追うたび突き詰めるたびに、その豊かな色彩と香りは失われていく。
わたしたちの日常で交わされる無数の言葉たちの、なんと味気ないことだろうか。
無味無臭の乾ききった言葉の洪水の中で、わたしたちは、本当に伝えたいことすら見失い、虚しくもがいているような気がしてならない。
モーツァルトの音楽を「天上の音楽」と称する人がいる。
天に漂う澄んだ音色を紡ぎ出したような、音の連なり。このことを考えるたびに、わたしはまた、夏目漱石の『夢十夜』に出てくる、木の中に埋まる仁王を掘り起こそうとする話を思い出す。
おのずからそこに存在する形。
そこに在る音。
心の核。
そういったものを探り求め、結び留める作業こそが、本来の言葉のあるべき姿なのかもしれない。
病苦を堪えた小柄な体が、白髪を乱し、豊かな音たちを時に刻みつけるように腕を奮う姿を眺めながら、わたしはふと、そんな幻想を抱いた。
この音もまた、彼の魂が産み出す言葉なのだと思い知りながら。
参考:http://www.youtube.com/watch?v=Xis8WM49mfE
だいぶ切られておりますな…。