憂色の理由
知人ネタ続き。
大学時代、お世話になった先生は、数々の伝説を持つ人であった。
頭の回転の速さは当然、英語を習得するのに辞書を引くのが面倒だからと辞書を丸ごと暗記したりと、少々レベルの外れている凄さであった。出身大学には、先生の拳で変形したロッカーがまだ残っているという。
普段は生徒思いで、特に女性には、車に乗るときは必ずドアを開けてくださる紳士なのに、ことフィールドになると野犬や野牛と戦った逸話まである。
事実は伝えられるうちに過分に脚色されるものだが、大言壮語と思えない雰囲気をその先生が醸し出しているせいで、伝説はまことしやかに後輩たちに受け継がれていく。
これはその伝説などではなく、先生の口から直接お聞きした話だ。地元の大学に招かれた先生と、久しぶりにお会いしたときの話である。
「こないだえらい目にあってなあ」
日に焼けた顔を顰め、先生はそう口火を切られた。
その出来事が起きたのはN市。しかも、市警のあるすぐ裏通りでのことであった。あの辺りは警察の存在など関係なく、治安があまりよろしくない。昼間でも少し薄暗い感じのする路地であった。
そこを先生は一人で歩いていたという。そのとき、目の前から若い男が二人近づいてきた、と思うと、突然彼らが左右に分かれた。
はっと気付くと、背後にも二人いる。その背後の一人が、何かを振りあげるのが目の端に見えた。
――まずい!
思った瞬間、先生はおのずから前へと倒れた。振り下ろされた何かが後頭部をかすめ、重く空気を切る。
殴られこそしなかったものの、突然の出来事に、先生も咄嗟の対応ができない。
しかし、彼が倒れたのを殴られたせいだと思った仲間が、すでにズボンの後ろポケットに手を突っ込み、財布を抜き取ろうとしている。
――させるか。
先生は財布を掴む手を取り、その指を数本、手の甲側へとへし曲げた。折れなくとも相当のダメージだ。
これで3対1。先生はまだ地面に這いつくばったまま、手を伸ばし、武器になるものを探した。石は落ちていないが、電信柱の隅に手のひら大のコンクリート破片が指に触れる。
振り向きざま、第二打を浴びせようとする相手の顔面に、先生はそれを思い切り叩き付けた。
「――俺も年だよなあ。そこまでで、あと逃げていったやつらを追いかける気力がなくてなあ」
先生は苦笑するが、そこで追いかけるのは、ハリウッド映画だけであろう。
「とりあえず、すぐ警察に届けたよ。怪我もたいしてないし、財布も無事だったんだが、やはりああいうやつらはきちんと取り締まってもらわんとな」
だが、犯人の行方は杳として知れないという。
「現場には、血と折れた歯が2本残っていたからな。指を曲げてやったやつも含めて、少なくとも二人は絶対に病院に行ったはずだから、跡が追えないという事はないはずなんだが……。
島を出てしまっていたら、なかなか難しいのかもしれんな」
語りつつ、先生は憂鬱そうに首をふる。
犯人が捕らえられないということが、それほどまでに悔しいのだと思ったが、どうやら違う様子だ。
「ほんとまいるよなあ。あれは〝オヤジ狩り〟だぜ、〝オヤジ狩り〟。
俺もオヤジの仲間にされたかと思うと、ショックでなあ……」
深々と溜息をつかれる先生。
大丈夫です先生、その反撃の仕方は充分オヤジを通り越しています、とわたしは慰めるにとどまった。
伝説を持つ人は、それなりに悩みも伝説級なのだ。