詩人の色眼鏡
真面目モード一転。
母の友人の詩人の話だ。
詩人といっても、わたしも趣味で詩など書くこともあるがそんなレベルではなく、賞も受賞され、地元紙などに定期的に詩とエッセイを掲載したり、詩の朗読やらに呼ばれてあちこち出掛けたりする、肩書きどおりの人である。
とはいえ、わたしにとってその人は「詩人」というより、小さいときからお世話になっている近所のおばさまという印象しかない。
「天然」の母の友人らしく、とても自然体であるその人は、やはりちょっと変わっている。草がぼうぼう生えているのが好きだから、という理由で庭の手入れは一切しない。おかげで広々とした庭はどことなく、コロボックルたちが棲むのにふさわしいような雰囲気だ。
お付き合いも幅広く、気がつくとピアニストやら篠笛やら12弦ギターを演奏する人までタコ足的芋づる式に連なり、そのご縁で先日わたしはアマチュア画家の方の絵と運命的な出逢いをさせて頂いた。
これだけ多彩な特技をもつ方々が周囲にいると、一介の主婦にすぎない母など個性が埋没してしまいそうである。が、そうでもないようで、あるときその人は、母を題材に詩を書いた。
「わたし、前世は石だったと思うの」
なんていう、くだらない発言が発端である。
母曰く、自分が今おしゃべりなのは、前世が石で、しゃべれなかった反動が来ているのだという。
ただのお喋りな言い訳に過ぎないのだが、詩人であるその人は、深い洞察をもった一篇の詩に仕上げてみせた。感受性というのは素晴らしいものだ。
それでも、正直――母の前世が石なら、石でもしゃべっていたとわたしは思う。
「おまえ、そんなにしゃべりたいなら人間にでもなっとけ」(by GOD)
というところが、本当ではないだろうか。
わたしは、そのうち母がギリシア神話のエコーのように、声だけになってしまう(そしてしゃべり続ける)のではないかと、危惧している。
こんなわたしも詩にされた。
一応、「詩にしたいけど良い?」という事前連絡は受け取った。
何の詩かというと、虫や小動物の苦手なその人にお宅に出没したヤモリを、わたしが退治にいったときの話である。
害のない生物一般は殺さない主義のわたしは、ヤモリを生かして捕らえ、外へ放してやった。
「窓と壁の隙間とかから入ると思うんで、そこ目張りしてもらうか……まあ、また出たら呼んで下さい。出口を見失って家の中で干からびても可哀相ですから、救助に来ますよ」
わたしとしては何の気もない一言だったが、「ヤモリを助けに来る」というところが詩心をくすぐられたらしい。感受性が豊かすぎると、ちょっと空恐ろしいところがある。
詩人の目とは、ものすごいフィルターがかかっているものだな、とわたしは痛感した。
ところで、わたしはと言えば、このエッセイはもちろん、文章を書いていることすら母に教えていない。その詩人の人は、言わずもがなだ。
言ったら最後、詩にされたり、山びこのように話されまくったりなどとなっては堪らない。わたしにとってのネタは、彼女ら自身なのだ。
良きネタは、わたし一人がひっそり刈り取るくらいで充分なのである。