焦茶色の謎
色鉛筆は、魅惑に満ちた文房具だと思う。
十代前半の頃、たいして絵もうまくないのに、わたしは色鉛筆に凝っていた。
それでも、おこづかいを漫画や小説につぎ込んでいたわたしに、高価なシリーズの色鉛筆を買い揃える余裕はなく、昔から使っている兄や他人のおさがりをちまちまと使っていた。
おかげで、気がついたことがひとつある。メーカーによって、「緑」や「オレンジ」「黄色」など中間色の発色が多少異なるのだ。なかでも「茶色」は幅広かった。
水彩色鉛筆のメジャーでなかった時代、色鉛筆といえば油彩で、視覚効果で色を重ねることはできても正確な混色は不可能であった。一本の色鉛筆が表わせるのは一色きりという、良くも悪くもそれが色鉛筆の特徴でもあった。
色鉛筆好きというジャンルがあるのか分からないが、この微妙な色の差に気がついてしまったら病みつきになるのが凡人の趣味の悪さというものだ。技術力のなさを色でカバーしてやろうという魂胆である。
メーカーによって異なる「茶色」は、どういう基準で作られているのか分からないほど多彩であった。赤みががるもの、黄みよりのもの(今は言わないらしいが)肌色に近いものまで。わたしの好みは、赤みを抑えたシンプルな「茶色」である。
そもそも「茶色」という色名自体が曖昧だ。わたしたちの知っている「お茶」は、主に若葉色がみずみずしい「緑茶」である。茶色のお茶というと「ほうじ茶」に「麦茶」「ウーロン茶」などがあたるのであろうか。お茶に茶色、という表現もなんだか微妙である。
それでも、木に土に、肌に髪に目に服にと、さまざまに使える「茶色」は素人的にこだわりたい一色であった。
そのときである、「焦茶色」の存在を知ったのは。
12色や24色のセットの中には出てこない、「焦茶色」。これはきっと奥深い美しさをもつ「茶色」に違いないと確信したわたしは、ある日買い物にいく母に、その色鉛筆を1本買ってきてくれるよう、お願いをした。
ところが、である。
なにを思ったのか、母が買ってきたのはなんの変哲もない「茶色」であった。かすかな願いをこめて紙で色を確かめるものの、持っているメーカーのものとまるっきり同じ発色だと知り、思春期真っ只中のわたしは癇癪を起こした。
「『焦茶色』じゃないじゃない!」
「あ、ごめん」
「軸のところに『茶色』って書いてあるし!」
「軸の色が焦茶色っぽいから、そうかと思って」
「え~もう、なんできちんと確かめないの。しかも使ったからもう返せないし!」
今思えば、なんて低レベルな喧嘩だったのだろうと思う。だが、当時のわたしには死活問題だった。憧れの「焦茶色」の夢を無残に打ち砕かれたのだ。
そのとき、このどうしようもない喧嘩に腹を立てた兄が、突如怒鳴った。
「やかましいっ! 『茶色』を焦がせば『焦茶色』じゃ! 文句を言うな!!」
この仲裁にも逆ギレにもならない一言で、わたしと母の喧嘩は終わった。
残ったのは、1本の真新しい茶色の色鉛筆と、中途半端な疑問である。
茶色の色鉛筆を、どう焦がせというのか。
フライパンかグリルか、はたまた電子レンジなのか。
「茶色」を焦がして、本当に「焦茶色」になるというのか。
そのうえ、焦がした色鉛筆に発色能力は残るものなのだろうか。
試していないので、謎はまだ解けていない。
ちなみに、間違えて買ってこられた茶色の色鉛筆は、すでに使ってなくなってしまった。
のちに手に入れた「焦茶色」は、いまだ半分ほどの長さで、手元に残っている。