天使と悪魔
「今夜が峠かと…」
医者は淡々と、しかし申し訳なさそうに言った。
無理もない。齢26の新婚の男に『あなたの妻は今夜死にます』と伝えているようなものなのだから。
ごく普通の新婚生活を送っていた俺たちの状況が一変したのは半年前。彼女が健康診断で“要検査”と診断され、設備の整った病院で診てもらったらすでに全身病に侵されていて“余命半年”と宣告されたのだ。
青天の霹靂とはまさにこのことを言うのだろうな。そんなそぶりを彼女から感じられなかったから俺は全く気づかず、現在はただ病院のパイプ椅子に腰掛け彼女の寝顔を見つめることしかできない。
雲の切れ間から月明かりが漏れ、彼女の美しい寝顔に光が差す。陶器のようにピクリとも動かないので一瞬でもヒヤッとするが、心電図の規則的な音のおかげで生を確認できていた。闇夜のせいか病状のせいか、彼女の顔は蒼白でこの世に天使が存在するならまさにこんな顔なのではないかとふと思ってしまった。
「助けてほしい?」
甘く妖艶な女の声が聞こえた。ここは個室で、看護師の巡回時間もまだのはず。一体誰だと声のする方に振り返ると、そこにはこの世のものとは思えないほど美しい女が立っていた。いや、黒い翼をはためかせて俺を見つめていた。
「その人、もうヤバいんでしょ?私なら助けてあげられるけど。どうする?」
「はぁ?何を言ってるんだ?そもそも誰だよ、オマエ」
「私は…そぉねぇ…、この世の世界の言葉を借りるなら“悪魔”かしら?フフッ」
「意味がわからないし、話にならない。出ていってくれ。」
俺はその妖艶な悪魔と名乗る女から背を背けると、彼女は楽しそうに、しかし少し脅すようにこう言った。
「いいの?このままだと本当にその人死ぬよ。」
「何を根拠に!?なんでオマエがそんなことわかるんだよ!」
勝手なことばかり言う悪魔に腹を立て、思わず感情的に怒鳴ってしまった。
「私の能力の一つに先読みっていうのがあって、要は未来が見えるんだけど、それで彼女はもう死んじゃうって未来になってるの。」
医者ですら濁した言葉をこんな訳のわからない奴に断言されて腹が立ったが、正直俺は心のどこかで彼女と過ごせるのは今日で最後なんだろうとも思っていた。
現実を突きつけられて一気に悲壮感と絶望感が襲いかかる。受け止めきれてない俺はどんどん自暴自棄になっていくのがわかった。
「…それで?どうしたら助けられるんだよ。彼女を」
気づくとそんな言葉を口にしていた。
「フフッ、やっと話を聞いてくれた。簡単なことよ。私と結婚して」
「はっ!?何言ってるんだ?オマエ、悪魔だろ?人間と悪魔が結婚するなんて聞いたことない!」
「まぁまぁ落ち着いて。悪魔界もさ、ほら少子化?っていうので結構困ってて。でも優秀な遺伝子以外は残せないからどんどん減っていってて。だから私と結婚して子を作ってほしいの。」
「そんなバカバカしい条件は飲めない。第一、子を宿すのが目的なら結婚しなくてもいいだろう?」
我ながら最低なことを言ってるのはわかってる。だが、悪魔を名乗るこの女の掌の上で転がされるのは真っ平だ。
「あなたわかってないわね。悪魔との結婚は“契約”なの。それに結婚しないと子を宿さないし、仮に子を宿したとしてもその世界から追放されるから本来の目的の『増やす』ってとこから外れるしね。意外と厳しいのよ、この世界。」
彼女はさらに進める。
「ちなみにこの選択に折衷案も別の選択肢もない。あなたがこの話に乗るか、乗らないか。乗れば彼女は助かる。乗らなければ彼女は死ぬ。ただそれだけ。」
今までの甘い口調とは一転、ドスのきいたゲームのラスボスのような口調に変わった。
俺は一瞬怯んで恐怖と焦燥と悔しさが混じった表情でこの女を見つめる。
「いいねぇ、その顔。ゾクゾクする」
と、またあの耳にへばりつく甘い妖艶な声で高らかに笑っていた。
頭では決まってるのに、その決断に心が追いつかない。窓の外には朝日が差し始め、別日を迎える準備をしている。決めなくては。
俺はこの悪魔に手を伸ばし、悪魔も満足そうな顔で俺の手を取った。
最期に眠る彼女に向かって
「さよなら…エリス…」
と呟いた。
遠ざかる病室の窓を空から見つめていると、眠る彼女の口元が微かに微笑んだようにみえた。




