第9章:責任転嫁の極み「お前のせいで怒った」と言う兄の場合
~自分の失敗をすべて妹になすりつける卑怯者。国王の前で「俺を怒らせる王が悪い」と口走り、不敬罪で滅びる~
家の中で一番怖いものは、嵐でも剣でもない。
“怒り”を免罪符にする人間だ。
私の兄、ヘンリックは、そういう人だった。
公爵家の長男。次期当主候補。
肩書きだけは立派で、鏡の前では常に輝いている。
――ただし、その輝きはいつも、私が磨いた結果だった。
私、エルザは、長い間、兄の尻拭いをしてきた。
書類を失くせば「お前が整理しなかったからだ」。
寝坊すれば「お前が起こさなかったからだ」。
酒で失敗すれば「お前が止めなかったからだ」。
そして極めつけは、これだ。
「……兄に向かってその態度は何だ!」
私が反論しようとすると、ヘンリックは声を荒げる。
「俺を怒らせるお前が悪いんだぞ!」
――俺の怒りは、俺の責任じゃない。
お前のせいで、俺は怒っている。
だから俺は悪くない。
その謎理論で、兄は何でも正当化した。
夜更け、兄が酒臭い息でふらつきながら廊下を歩き、花瓶を倒したときも。
「エルザ!」
割れた陶器を見下ろしながら、兄は真っ赤な顔で叫んだ。
「お前がもっと早く俺を止めないからだぞ。あーだるい。お前のせいで俺の評価が下がるじゃないか」
私は床に膝をつき、黙って破片を拾った。
手のひらが切れて血がにじんでも、声は出さなかった。
声を出せば、彼はもっと怒るから。
怒れば、もっと私のせいになるから。
私は、ずっとそうやって生きてきた。
……けれど。
国王陛下の前では、もう通用しない。
いいえ。
“通用させてはいけない”。
公爵家が主催する、国王陛下を招いての晩餐会。
我が家にとっては、権威と信頼を示す国家級の行事。
そして兄にとっては――“自分が輝く舞台”。
「絶好の機会だ」
ヘンリックは朝から鏡の前に立ち、軍服の襟を正しながら酔いしれていた。
「俺が次期公爵として、陛下にふさわしい男だと見せつける」
その間、準備は全部、私。
席次、料理、装飾、楽団、招待状、衛兵の配置、使用人の導線。
失敗が許されない段取りを、私は夜を削って積み上げた。
「兄上、当日の進行ですが——」
「だるい。お前が全部やっとけ」
いつもの台詞。
「ワインだけは俺が選ぶ。センスを見せつける」
兄は胸を張った。
そして私は、その言葉を“最後の鎖”として記憶に結び付けた。
――ワインは兄の担当。
兄の責任。
その一点だけは、絶対に譲らないと決めた。
晩餐会当日。
屋敷は燭台の光に満ち、銀食器が整列し、音楽が流れ、貴族たちの笑顔が並んだ。
国王陛下が入場する。
空気が一段重くなる。
誰もが背筋を伸ばす中、兄だけが“自分の劇場”みたいに笑っていた。
乾杯。
そしてワインが注がれる。
……その瞬間、私は感じた。
国王陛下の眉が、わずかに動いた。
嫌悪とも、警戒ともつかない、ほんの小さな変化。
けれど、王の顔の“ほんの小さな変化”は、国の天気が変わるのと同じだ。
陛下の前に置かれた銘柄――
それは、陛下が公にはしないが、明確に嫌っているワインだった。
外交儀礼上、出してはいけない一本。
場が凍りかける。
誰かが息を呑む。
そのとき、兄は――いつもの癖で、私を見た。
「エルザ!」
大声。
場の空気を裂く、無神経な大声。
「お前がこんなワインを選んだせいで、陛下が不快な思いをされたじゃないか!」
視線が私に集まる。
心臓が、冷たく跳ねた。
――また始まる。いつもの責任転嫁。いつもの私の処刑。
「お前が俺に恥をかかせたんだぞ!」
兄は、勝った顔をしていた。
“怒り”を盾にすれば、いつも相手が黙ると知っている顔。
でも――今日は違う。
私は、立ち上がった。
静かに。背筋を伸ばして。
「陛下」
声は震えなかった。
震えさせないために、私は今日まで生き延びてきたのだから。
「事実確認をさせてください」
私は、用意していた封筒を差し出した。
中には一枚の紙。
ワイン発注指示書。
兄の筆跡で、兄の名前が大きく書かれている。
――まるで“俺が選んだ”と誇るために。
「お兄様」
私は兄を見た。
そして、淡々と問うた。
「これはあなたが『俺のセンスを見せつける』と豪語して書いた指示書ですよね?」
兄の顔が、一瞬で凍る。
「なっ……」
口が開いて、音が出ない。
目が泳ぐ。
いつもなら“怒り”で押し切るところだが、証拠があるとき、人は怒りの使い方を間違える。
「そ、それは……!」
兄は笑おうとした。
誤魔化そうとした。
いつものように私を睨みつけようとした。
でも、国王陛下の前では、目の前の空気そのものが“許さない”。
兄の喉が鳴る。
焦りが口を滑らせた。
「……陛下が急に来るなんて言うから、俺が焦ったんじゃないか!」
静まり返る会場。
誰かの杯の音が、やけに大きく響いた。
兄は止まらなかった。
止まれなかった。
責任転嫁でしか生きられない人間は、転嫁先が消えると“上”へ投げる。
「そもそも、陛下がそんな細かいことを気にするから、俺がミスをしたように見えるんだ!」
……越えた。
越えてはいけない線を、越えた。
「俺を怒らせ、焦らせる陛下が悪いんだ……!」
言ってしまった。
“王が悪い”。
その瞬間、会場の温度が落ちた。
国王陛下の顔から、表情が消える。
怒りではない。
失望でもない。
もっと冷たいもの――秩序の裁定。
「——不敬」
陛下の声は低く、短かった。
それだけで、空気が決壊した。
近衛が動く。
衛兵が一歩、前へ出る。
「ヘンリック・グランディス。国王に対する不敬、および公爵家の名誉と国家行事への重大な損害。今この場で身柄を預かる」
「ま、待て! 俺は悪くない! こいつが——」
兄は私を指差そうとした。
でも、その指は途中で止まった。
もう誰も見ていない。
“妹のせい”の物語は、王の前では成立しない。
兄は喚いた。
いつもの呪文を繰り返した。
「俺は悪くない! 俺は悪くないんだ!!」
でも、その声は会場の誰にも届かなかった。
“悪くない”と叫ぶほど、悪さが際立つだけだった。
判決は速かった。
公爵家継承権の剥奪。
そして北方最果ての地への強制隠居――名目は“静養”。実態は追放。
家の者たちは、誰も兄を庇わなかった。
庇えば一緒に沈むと理解していたから。
そして、彼らもまた、薄々知っていたのだ。
ヘンリックは“次期当主候補”ではなく、ただの厄介者だったと。
兄が連れて行かれるとき、私は一度だけ目を合わせた。
彼の目は、怒りと恐怖と、そして“被害者の目”で濁っていた。
最後まで、彼は自分の舵を握れなかった。
晩餐会の後。
国王陛下は私を呼び、短く告げた。
「エルザ。そなたが公爵家を継げ」
その言葉は、私の人生の鎖を切った。
私は深く礼をした。
泣かなかった。
泣くより先に、呼吸が楽になった。
屋敷に戻る廊下は、驚くほど静かだった。
怒鳴り声がない。
物が投げられない。
“お前のせい”が飛んでこない。
私は窓を開け、冷たい風を吸い込んだ。
胸の奥の空気が入れ替わる。
そして小さく呟いた。
「他人のせいにして生きる人は、自分の人生の舵も握れないのよ」
最後に、兄の名を口にしないまま言った。
「……さようなら、お兄様」
それは呪いじゃない。
私が私の人生を取り戻すための、宣言だ。
第9章までお読みいただきありがとうございます。
一番しんどいのは「お前のせいで怒った」と感情まで押し付けるタイプ。
でも責任転嫁は、王の前でも通用しない――その瞬間を書きたかった章です。
次はいよいよ最終章。「滅べクズ男!」の回収へ。




