第2章:謝ったら死ぬ病の文官様の場合
~「だるい」が口癖で非を認めないエリート様、書類の破棄を人のせいにして国家予算を溶かし、地下牢へ~
財務局の夜は、静かだ。
静かなはずなのに――私、リナの部屋だけが、いつも紙の音で満ちている。
カサ、カサ。
ペン先が走る。インクが乾く。誤字に気づいて、また書き直す。
机の上には、魔法灯の青白い光。窓の外には、すっかり眠った街。
なのに私は眠れない。
理由? 簡単だ。
婚約者であるゼノスが、今日も「仕事」を持ち帰ってくるから。
彼は侯爵家の次男で、若くして財務局の中堅文官。周囲からは“エリート”と持ち上げられ、本人もそれを疑わない。
ただし――書類が書ければ、の話だ。
「リナ。これ、明日まで。あー、だるい」
ゼノスは上着を脱ぎ散らかし、椅子に倒れ込むと、封を切ってもいない書類束を私の机に放った。
私は反射で受け止めてしまう。昔から、落ちそうなものを拾う癖がある。だから私は、人生も拾ってしまったのだろう。
「……条約関係ですね。これは、明日の朝一で提出の――」
「うん。頼む。俺、頭使うの嫌いなんだよね。てか、俺は“完璧”だから、直すとこなんてないはずなんだけど」
ゼノスは言って、にやりと笑う。
その笑みが一番怖い。悪意がない顔で、平気で他人を削る笑み。
「お前が確認、ちゃんとやれよ? 甘いとさ、俺の評価が落ちるじゃん。だるいから、俺の手を煩わせるな」
……私の手は、煩わせていいものなの?
喉まで出かけた言葉を飲み込む。飲み込むことには慣れていた。
婚約してから、ずっと。
私は書類を開く。
数字が踊っている。字が歪んでいる。欄がずれている。そもそも前提が間違っている。
修正するほど、赤が増える。ゼノスの“完璧”は、いつだって私の徹夜でできていた。
そして翌日。
「ほら、見ろよ。俺が直してやったから、上司も褒めてた」
ゼノスは平然と言った。
私が直した書類を、彼が直したことになっていた。
問い詰めても無駄だ。
彼は必ず言う。
「それ、俺のせいじゃなくない?」
便利な呪文。
責任から逃げるための、万能の盾。
でも盾で守れるのは、“自分のプライド”だけだ。
国家の金も、人の心も、守れない。
破綻は、ある一枚の紙から始まった。
隣国との通商条約。
それは、王国の未来を左右する重要書類だった。税率、輸送路、関税の撤廃条件。ひとつでも誤れば、国庫が揺らぐ。
その最終確認を担当するのが、ゼノス――という建前。
実際は、その“建前”を夜な夜な私が支えていた。
その日、ゼノスは珍しく私の机に座り、書類に目を通していた。
……通していた、ふりをしていた。目が字の上を滑っているだけで、内容は入っていない。
「リナ、コーヒー」
「……はい」
私は温かい杯を置く。
次の瞬間だった。
どんっ。
ゼノスが肘で杯を弾いた。
黒い液体が飛び散り、条約文書の上に、ありえないほど美しく落ちた。
にじむインク。歪む印章。溶ける文字。
一瞬、時間が止まった。
「……あ」
私が声を漏らすより早く、ゼノスは立ち上がった。
「はぁ? 最悪。だるい」
そして――彼は、汚れた条約文書をひったくると、部屋の隅に置いてある箱へ向かった。
魔法の焼却箱。
紙を入れると、青い炎が静かに燃え、灰だけを残す。財務局の機密保持のために各家庭にも配布されている、いわば“シュレッダー”だ。
「待って! それは、正式文書で――!」
「うるさい。こういうのは“なかったこと”にすればいい」
ゼノスは迷いなく、条約文書を箱へ放り込んだ。
ぼっ。
青い炎が、国家の未来を焼いた。
ゼノスは指先で灰を払うようにして、鼻歌を口ずさんだ。
そして軽く肩をすくめる。
「……まあ、リナのせいにすればいいや」
私は、息が止まった。
今、確かに聞いた。あまりに軽く。あまりに自然に。罪を私の肩に載せる言葉を。
「ゼノス……今、なんて」
「は? 何が?」
彼は不思議そうな顔をする。
本気で“自分は悪くない”と思っている顔だ。
「あなたがこぼしたんです。あなたが焼却箱に――」
「いやいや。お前がそこにコーヒー置いたのが悪いんだろ?」
出た。
責任転嫁のテンプレ。
「悪くないが口癖なのは俺じゃなくて、お前の不手際だ。あーだるい、謝るなら今のうちだぞ?」
謝る?
私が?
胸の奥が、冷たく澄んだ。
怒りじゃない。悲しみでもない。もっと静かな、決意の冷たさ。
私は一歩、彼に近づいて言った。
「……分かりました。あなたは“謝れない病”なんですね」
「は? 何それ。意味分かんない。てか、俺のせいじゃなくない?」
ゼノスは笑った。
自分の無敵を信じている笑い方だった。
その笑いを聞きながら、私はそっと、自分の袖口を撫でた。
そこに仕込んだ小さな魔石が、淡く光っているのを確かめる。
全自動記録魔法。
音と言葉を、ありのままに保存する魔法。
“言った/言わない”を終わらせるための、私の切り札。
翌日、王城の広間。
国王の前に、財務尚書が立ち、厳しい声で問うた。
「ゼノス・ヴァルデン。隣国通商条約の原本が消失した件、説明せよ」
ゼノスは胸を張った。
まるで英雄のように、凛々しく。
「はい。これは私の婚約者リナが、勝手に書類を処分したことが原因です」
言った。
迷いもなく。
“自分の罪を他人に渡すこと”に慣れきった声で。
広間がざわめく。
視線が私に刺さる。
でも私は、もう耐えない。
私は一歩前へ出て、深く礼をした。
「陛下、財務尚書。発言の前に、提出したいものがございます」
ゼノスが眉をひそめた。
「は? 何だよ。だる――」
その言葉を、私は遮った。
「記録を、再生します」
袖口の魔石に触れ、起動の呪文を唱える。
――次の瞬間。
広間に、ゼノス自身の声が響き渡った。
『うるさい。こういうのは“なかったこと”にすればいい』
『……まあ、リナのせいにすればいいや』
さらに続く。
『お前がそこにコーヒー置いたのが悪いんだろ?』
『あーだるい、謝るなら今のうちだぞ?』
音が、証拠になる。
言葉が、鎖になる。
ゼノスの顔色が変わった。
さっきまでの自信満々が、剥がれ落ちる。焦りが、汗となって滲む。
「ち、違う! それは編集だ! 誰かが俺を陥れ――」
「全自動記録魔法は、改竄できません」
財務尚書が冷たく言い切った。
国王の目が、静かに細くなる。
「……ゼノス。続けて聞く。条約文書以外にも、書類の不備が頻発している。なぜだ」
私は、二つ目の封筒を差し出した。
「こちらは、ゼノスが提出する前の“未修正原稿”です。これまで私が夜な夜な修正していました」
封筒が開かれ、紙が広げられる。
――誤字。
――計算ミス。
――桁が一つ違う数字。
――条文の引用先が別書類。
――日付が未来。
――署名欄が空欄。
財務尚書が、しばらく沈黙した後、ぽつりと言った。
「……小学生以下だな」
広間が凍った。
ゼノスが叫ぶ。
「違う! 部下の書き方が悪い! リナが確認しなかったせいだ! 俺は常に完璧で――」
「完璧なら、なぜ謝れない?」
国王の声は低く、静かだった。
「そなたは国家の金を扱う者だ。責任を認められぬ者に、財を預けることはできぬ」
ゼノスの膝が、わずかに折れた。
判決は、即日だった。
爵位剥奪。
財務局免職。
そして――国家予算規模の損失の賠償のため、地下牢での強制労働。
ゼノスは最後まで叫んでいた。
「俺のせいじゃなくない!? なあ、リナ! お前もそう思うだろ!?」
私は答えなかった。
もう、彼の“呪文”に返事をしないと決めたから。
地下へ連れて行かれる彼の背中は、小さかった。
あれほど大きく見えたのは、私が彼を大きくしてしまっていたからだ。
夜。
私は自分の部屋に戻った。
静か。
紙の音がしない。
徹夜の予定がない。それだけで、世界が広く感じる。
私は鏡の前に立ち、自分の顔を見た。
目の下に薄い影がある。けれど、目は前より澄んでいる。
本棚から、ずっと読みたかった本を取り出す。
美容瓶も、開ける。
夜の時間が、私のものに戻ってきた。
そして私は、独り言みたいに言った。
「謝れない男って……結局、自分を守るのに必死なだけの臆病者なのよね」
窓の外で、風が鳴った。
王都の灯りが揺れる。
明日、何をしよう。
眠って、起きて、好きな服を着て、本を読んで、散歩して――。
人生は、こんなにも自分のものだったのか。
私は小さく息を吐いて、笑った。
クズ男は全世界に生息する。
でも私はもう、誰かのミスを“私の責任”として抱えない。
そのとき、机の上の封蝋付きの手紙に気づいた。
財務尚書の印。
嫌な予感がした――けれど、同時に不思議と怖くなかった。
封を切る。
『リナ殿。至急、王城へ。
“次の案件”が発生した』
……来た。
次の「万国共通」が、またどこかで呼吸している。
第2章ありがとうございました!
「だるい」「俺のせいじゃなくない?」という責任回避が、どれだけ周囲の時間を奪うかを、書類と証拠で可視化してみました。
リナが取り戻したのは復讐ではなく“夜の時間”です。次は、聞く耳を持たない自称天才が登場します。




