俺の青春はまだ続く
翌日、土曜日。
午前中の空気はまだ秋の名残を残していて、吐く息は白くない。でも、肌に触れる風だけが冬の予告編みたいに冷たい。駅前の街路樹は赤と黄のグラデーションで、やたらと「今日は何かが起きます」と主張してくる。
やめろ。俺の人生はだいたい“何かが起きる日”に限って、胃が死ぬ。
図書館の入口前で、俺は深呼吸を三回目で諦めた。深呼吸って回数を数え始めた時点で負けだと思う。
今日の予定はシンプルだ。
①俺の受賞作を三人に見せる。
②その後、いろいろな“話”を整理する。
シンプルと言いながら、内訳が地獄。俺の心のHPが、開幕から黄色点滅している。
スマホが震えた。
浅葱からだ。
『着いたよー! 入口のとこ!』
返信しようとして、指が「了解」しか打てない。俺に語彙を返せ。
入口に向かうと浅葱が両手を振っていた。今日も元気。元気が眩しい。眩しさで目が焼けそう。
「高一くん! おはよ!」
「おはよう。早いな」
「そりゃね。今日は高一くんの作品を最速で読むイベントだから」
「イベントって言うな。心が持たない」
浅葱は笑って、俺の肩を軽く叩いた。叩くな。今の俺はガラス細工だ。
そのタイミングで、瀬良先輩が現れた。薄いコートに、静かな歩き方。周囲の空気だけ一段落ち着く。
「おはよう、高一くん」
「おはようございます」
挨拶がきれいに出た。俺、えらい。えらいけど、これで命が助かるわけじゃない。
最後に、不知火先輩が少し遅れてやってきた。走ってはいない。だけど足取りは軽く、表情はいつもの明るさのまま。
「おはよ。待った?」
「今来たところです」
「よかった。図書館って、練習試合より緊張するな」
「分かります。俺は毎日が練習試合ですけど」
四人で図書館に入ると、空気がすっと静かになった。紙と木の匂い。人の気配はあるのに、みんな音を小さくしている。
陰キャに優しい空間。ここに住民票を移したい。
自習室の利用手続きをして、長机の席を確保する。俺は反射で端を選んだ。端はいい。逃げ道がある。いや、今日は逃げない。逃げないけど、逃げ道は精神安定剤だ。
机の上に、印刷した原稿を置く。
紙の束が、やけに重い。
俺が書いて、俺が削って、俺が悩んで、俺が夜中に「何してんだ俺」と呟きながら完成させたものだ。
それを今日、三人に手渡す。
透明人間が、スポットライトのど真ん中に立つ儀式。普通に罰ゲームだろ。
「……じゃあ、渡します」
声が少しだけ裏返りそうになるのを、根性でねじ伏せた。
「うん!」
浅葱が嬉しそうに頷く。
「読ませてもらうわ」
瀬良先輩は落ち着いたまま、原稿に指を添えた。
「楽しみ。受賞作だもんね」
不知火先輩も、今日は妙に真面目な目をしている。
俺は三部に分けて、それぞれに手渡した。紙が離れた瞬間、胃がきゅっと縮む。
ここからは待ち時間だ。
世界が静かで、俺の心音だけがやたら大きい。
ページをめくる音が、一定の間隔で鳴る。
俺は視線の置き場がなくて机の木目を見つめた。木目って見続けると海みたいに見える。現実逃避に最適。次の小説、木目が主人公でいいかもしれない。いや無理だ。
浅葱は時々、口元を押さえる。笑ってるのか、泣きそうなのか判別できない。やめろ。俺の文章は情緒不安定じゃない、はず。
不知火先輩はページをめくる速度が安定している。集中力が強い。スポーツで鍛えた集中が、読書にも乗るのか。強い。さすが「最強」。
瀬良先輩は一番静かだ。表情が読めない。読めないから怖い。俺は瀬良先輩の表情を読む技能だけ、いまだにレベル1だ。
そして、三人が最後のページに辿り着く。
紙が重なる音が止まり、空気が一段変わった。
最初に口を開いたのは浅葱だった。
「……高一くん」
「な、なんだよ」
「これ、すごい」
浅葱の声が少しだけ震えていた。
「主人公がさ、ずっと一人で、でも最後に“自分で選ぶ”の……刺さる。刺さりすぎて危ない」
「危ないって何だ」
「心がね」
浅葱は笑った。笑いながら、目尻を指で拭う。泣くな。こっちが動揺する。
不知火先輩が原稿を机に置いて、俺を見る。
「高一くん」
「はい」
「読んでて思ったんだけど……これ、強いよ」
また“強い”が来た。俺が? 俺が強い? 俺は弱さの詰め合わせセットだぞ。
「強いっていうのは、派手って意味じゃない。ちゃんと怖さを出してるのに、逃げないで進んでる。そういうの、試合でも一番強い」
不知火先輩の言葉はスポーツの比喩なのに、変に説得力がある。悔しい。
「ありがとうございます」
声が少しだけ掠れた。
瀬良先輩は、原稿に指を置いたまま静かに言った。
「いい作品だったわ」
短い。けど、重い。
「ありがとうございます」
「独白が以前より正確で、逃避ではなく“意思”になっている。読者にとって安心できる軸がある」
瀬良先輩は淡々と、でも確信を持って言う。
「それが受賞に繋がった。あなた自身の変化が、作品の説得力になっている」
胸の奥が熱くなる。嬉しい。恥ずかしい。怖い。全部混ざって、呼吸の仕方が分からなくなる。
俺はいつもの癖で、少しだけ茶化した。
「じゃあ俺、また変わっちゃうんですかね。何回目かで爆発しそうなんですけど」
浅葱が小声で笑う。不知火先輩も口元を押さえる。
瀬良先輩は笑わない。ただ、目が少し柔らかい。
「爆発しないわ。あなたは、爆発する前に誰かを頼れるようになった」
……その言葉が、やけに効いた。
沈黙が一瞬だけ優しくなる。
そこで、不知火先輩が姿勢を正した。いつもの勢いじゃなく、言葉を選ぶ前の呼吸をしている。
「高一くん。ちょっと、いい?」
「……はい」
「この前言ってた“続き”、覚えてる?」
心臓が嫌な跳ね方をした。
体育館裏。あの途中で止まった言葉。俺の脳内に、勝手に警報が鳴る。
不知火先輩は、俺の顔を見て、少しだけ苦笑した。
「そんな顔しないで。今日、全部言うつもりじゃない」
浅葱が目を丸くする。瀬良先輩は黙って見ている。圧がある。空気が薄い。
「ただ、約束は守りたいから」
不知火先輩は続ける。
「テストが終わったら続きを、って言ったでしょ。だから“今週の決勝が終わったら”、ちゃんと時間ちょうだい。二人で。落ち着いて話したい」
告白はない。だけど、確実に“重要な話”が予約された。
俺の胃が「予約は受け付けてません」と叫んでいる。俺も同意だ。だが現実は同意を取らない。
「……分かりました」
逃げない。逃げないって決めた。決めたけど、怖い。
「ありがとう」
不知火先輩は笑った。眩しいけど、今日は少しだけ慎重な笑顔だった。
次に、浅葱が小さく手を挙げる。
「じゃ、じゃあ……私も、話していい?」
来た。“大事な話”。
浅葱の表情は、いつもの明るさに真剣が混ざっている。軽いノリで聞いていい話じゃない。
俺は頷いた。
「うん。聞く」
浅葱は息を吸って、言葉を探す。
「ここ、だと……ちょっと、ね」
瀬良先輩が即座に頷く。
「場所を変えましょう。落ち着いて話せるところへ」
判断が早い。さすが。
俺たちは荷物をまとめて、自習室を出た。
外の空気は、さっきより冷たい。季節のせいだけじゃない。話の重さが、皮膚の上に落ちてくる感じがした。
図書館の裏手にある小さな公園。人が少なく、ベンチがある。俺たちはそこに座った。
浅葱は手を膝の上で握りしめて、しばらく黙った。いつも喋ってる浅葱が黙ると、それだけで胸がざわつく。
「……私ね。合唱部だったって言ったじゃん」
「うん」
「歌うの、好きだった。ほんとに」
浅葱は笑おうとして、うまくいかない。
「でも、中学のとき……声が出なくなった」
俺は息を止めた。
「急にじゃない。じわじわ。最初は喉が詰まる感じで、次は高い音が出なくなって、最後は……歌おうとすると体が固まる」
浅葱は、指先をぎゅっと握り直す。
「原因はたぶん……怖さ。期待されるのが。褒められるのが。失敗したらどうしようって」
その気持ちは、俺にも分かる。評価が欲しいのに、評価が怖い。見られたいのに、見られるのが怖い。
「本番で声が出なくて、みんなの前で固まって……それで、辞めた」
浅葱は俯く。
「私は逃げたって、自分で思ってた」
沈黙が落ちる。風が葉を揺らす音だけがする。
浅葱は顔を上げた。
「でもね。高一くんの小説を読んで思った。怖いって思っても、終わりじゃないって」
浅葱の目が、まっすぐだった。
「私、もう一回、歌いたい」
言い切った声は震えていた。でも、逃げてない。
「教師になりたいのも本当。子どもに“怖い”って気持ちを否定しない先生になりたい。でも……それを言うなら、私自身が逃げたままじゃだめだって思った」
胸が締め付けられる。
不知火先輩が頷いた。
「それ、かっこいいじゃん」
瀬良先輩も静かに言う。
「怖いと認めた上で、もう一度やろうとするのは強さよ」
浅葱は、こらえるみたいに唇を噛んで、それから小さく笑った。
「……言ってよかった」
俺は、言葉を選んで、ちゃんと伝える。
「浅葱。それ、逃げじゃない」
浅葱の目が揺れる。
「逃げたって思ってても、今戻ろうとしてる。だったら、それは“戻る”ってことだ。……俺も、怖いのは同じだから」
俺は空を見上げた。秋の青が少しだけ薄くなっている。冬が近い。
「怖いけど、やる。そういうのが一番しんどいけど、一番ちゃんとしてる」
浅葱はこくりと頷いた。
そこで、スマホが震えた。
通知。
画面に表示されたのは、見覚えのない番号――ではない。昨日、四宮先生が言っていたやつだ。
『編集部』
……現実、攻めるの早すぎない?
俺は固まったまま画面を見つめた。指が動かない。
「どうしたの?」
不知火先輩が覗き込む。
「編集部?」
浅葱が目を丸くする。
瀬良先輩だけが、静かに言った。
「出なさい。今が“作家の現実”よ」
作家の現実。怖い言葉だ。
俺は喉を鳴らして、通話ボタンを押した。
「……はい。高一賢聖です」
受話口から、大人の落ち着いた声が返ってきた。
『突然失礼します。○○編集部の△△と申します。優秀賞、受賞おめでとうございます』
心臓がまた跳ねる。
『短時間で構いませんので、受賞作について少しお話を伺えますか。今、お時間は――』
俺は三人の方を見た。
三人とも、何も言わずに頷いた。
一人じゃない。だから倒れない。
「……はい。大丈夫です」
俺の青春ラブコメは、恋愛の続きも、夢の続きも、現実の続きも。
まとめて同時に押し寄せてくるらしい。
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