陰キャ、小説応募の最終審査の果てに -そこにあったのは希望か-
金曜日。
結果発表の日。
目を開けた瞬間から、胸の内側で何かが暴れていた。心臓が「まだか」と急かすみたいに、一定のリズムを拒んで跳ねる。体は布団の温もりに沈んだままなのに、神経だけが先に起きてしまった感覚だ。
反射でスマホに手が伸びる。画面の冷たいガラスが、指先の熱を奪う。メールボックスを開き、更新。
——まだ来ていない。
息を吸う。深く。ゆっくり。吐く。
落ち着け。落ち着け、俺。
分かっている。発表時刻は午前十時。学校の休み時間。
その瞬間までは、何も確定しない。
それでも、頭の中では何度も同じ映像が繰り返される。件名を見た瞬間、本文の一行目を読んだ瞬間、手の震えで画面が揺れる瞬間。あり得る未来を片っ端から試写して、心が勝手に消耗していく。
起き上がって洗面所に向かう。顔を洗う水がやけに冷たくて、頬の熱を一瞬で奪っていった。鏡に映る自分は、隠しようもなく緊張している。目の下にうっすらと影が落ちていて、昨夜の寝不足がそのまま証拠になっていた。
制服に袖を通す。布の感触すら落ち着かない。いつもなら何でもない動作が、今日はどれも「間違えられない儀式」みたいに重い。階段を下りる足音が、家の静けさにやけに大きく響く。
リビングでは、母親が朝食の準備をしていた。フライパンの小さな音と、湯気。いつもと同じ朝の景色なのに、俺だけが異物みたいに浮いている。
「おはよう、賢聖」
「おはよう」
「今日、結果発表なんでしょ?」
「ああ」
母親は、俺の顔を一度だけ丁寧に見てから、優しく笑った。
「頑張ってきたものね。きっと大丈夫よ」
その「きっと」が、ありがたくて、怖かった。期待がこぼれ落ちないように受け止めながら、俺は小さく頷く。
「ありがとう」
朝食を口に運ぶ。味が分からない。噛んでいるのに、感覚だけが遠い。咀嚼の合間に、スマホを何度も確認する。更新。更新。
——まだ来ない。
発表時刻までの時間は、ただの「待ち時間」じゃない。自分の努力が採点され、価値が裁定されるまでの、異様に長い通路みたいなものだ。通路の先は見えないのに、戻れない。
「お兄、大丈夫? 顔色悪いよ」
柚葉が心配そうに言う。
俺は笑おうとして、うまくいかなくて、結局いつもの癖で軽く誤魔化した。
「大丈夫。ちょっと緊張してるだけ」
「そっか。お兄、頑張ってね」
「ああ」
家を出て駅に向かう。いつもの道。いつもの景色。
なのに今日は、全てが輪郭を強く持って迫ってくる。空気が澄んでいる。冬に向かう季節の匂いが、鼻の奥を刺す。空は快晴で、昨日までの曇りが嘘みたいに青い。
まるで——「いい知らせ」が来ると決まっているみたいな天気だ。
そんな都合のいい暗示にすがりたくなる自分が、情けなくも愛おしくもあった。
※ ※ ※
学校に着くと、すぐに浅葱が駆け寄ってきた。足取りが軽く、声が明るい。その明るさが、今の俺には眩しい。
「高一くん! おはよ!」
「おはよう」
「今日だね、結果発表」
「ああ」
「大丈夫?」
大丈夫か、と聞かれて、大丈夫だと答えられるほど、俺は器用じゃない。
それでも、弱音をそのまま出すのは格好悪い気がして、言葉の端を丸めた。
「まあ、何とか」
浅葱は俺の顔をじっと見る。逃げ道を塞ぐみたいに、視線が真っ直ぐで——すぐに見透かされた。
「嘘だ。全然大丈夫じゃないじゃん」
「バレたか」
「バレバレだよ」
浅葱は笑う。その笑いはからかいじゃなく、励ましに近い。
それが分かるから、余計に胸が痛くなる。情けなくて、ありがたくて。
「でも、きっと大丈夫。私、信じてるから」
その一言が、ひとつ重りを外してくれたみたいに、胸の圧がほんの少しだけ軽くなった。
「ありがとな」
「うん!」
教室に入ると、いつもの日常が始まる。ホームルーム、一時間目。
でも、俺だけが別の世界にいる。黒板の文字はただの記号になって流れていき、先生の声は遠くで鳴っているラジオみたいに意味を持たない。
時計を見る。九時十五分。
あと四十五分。
長い。本当に長い。
この四十五分の間に、もしも結果が悪かったらどうする? 誰にどう説明する? 笑って誤魔化せる? 部室の空気はどうなる? 自分の努力は何だった?
考え始めると止まらなくて、脳の中が勝手に最悪のシミュレーションで埋め尽くされる。
「高一、聞いてるか?」
先生の声で我に返る。冷や汗が背中を伝う。
「あ、はい。すみません」
「大丈夫か? 体調悪いなら、保健室行くか?」
「いえ、大丈夫です」
クラスメイトがクスクス笑う。視線が刺さる。
恥ずかしい。
でも、そんなものは小さな痛みに過ぎなかった。俺の中で本当に怖いのは、午前十時の通知音だけだ。
時計を見る。九時三十二分。
あと二十八分。
※ ※ ※
一時間目が終わり、休み時間。
九時五十分。
あと十分。
俺は席に座ったまま、スマホを握りしめていた。手の中の重さが、現実の錨みたいに感じる。
指先が震える。自分の体なのに言うことを聞かない。
深呼吸。落ち着け。
分かっているのに、体が拒否する。
周りの生徒たちは普通に雑談している。笑い声、椅子を引く音、廊下を走る足音。
この世界はいつも通り回っていて、俺の緊張なんて誰の生活にも影響しない。
その事実が、逆に孤独を濃くする。
「高一くん」
背後から声。
振り向くと、浅葱が立っていた。その隣には瀬良先輩と不知火先輩。三人が揃うだけで、教室の空気が少し変わる。視線が集まるのに、彼女たちは気にしていない。
「先輩たち」
「一緒にいるわ」
瀬良先輩の声は落ち着いていて、どこか確信めいていた。
「一人で待つのは、辛いでしょう」
「私たちも一緒に待つよ」
不知火先輩は穏やかに微笑む。
浅葱も頷く。
「そうだよ。一人じゃないんだから」
胸の奥が熱くなった。泣きそうになる。
でも、ここで泣いたら崩れてしまう気がして、唇を噛んで堪える。
「ありがとうございます」
四人で教室の隅、窓際へ移動する。
光が差し込む席。外の空はやっぱり青い。眩しくて、目が痛いくらいだ。
時計を見る。九時五十八分。
あと二分。
心臓の鼓動がまた速くなる。
瀬良先輩が、何の躊躇もなく俺の手を握った。人の体温がこんなに強いものだと、久しぶりに思った。
「大丈夫よ」
瀬良先輩が囁く。
浅葱が反対側から俺の肩に手を置く。
不知火先輩も、そっと目を細めて見守ってくれる。
——支えられている。
それだけで、俺は「倒れずに済む」。
九時五十九分。
あと一分。
スマホの画面を見つめる。メールボックスを開いたまま更新。
——まだ来ない。
時間が伸びる。秒が固形の鉛みたいに重い。
三十秒。
十秒。
五秒。
そして。
十時〇〇分。
更新。
新着メールが一通。
差出人は、コンテストの事務局。
来た。
喉が鳴る。手が震えて、指が思うように動かない。
瀬良先輩が、さらに強く手を握る。逃げるな、と言われたみたいだった。
「開けなさい」
瀬良先輩が言う。
俺は頷いて、震える指でメールをタップした。
画面が開く。
最初に目に入ったのは、件名。
『最終審査結果のお知らせ』
心臓が耳の内側で鳴っている。文字を追う視線が、うまく焦点を結ばない。
それでも、俺は読む。一文字、一文字。息をするのも忘れて。
『この度は、多数のご応募ありがとうございました。厳正なる審査の結果』
喉が乾く。
次の行へ。
『あなたの作品が、優秀賞に選ばれました』
——時が止まった。
いや、止まったのは世界じゃなくて、俺の思考の方だ。
優秀賞。
選ばれた。
俺の作品が。
頭の中でその言葉を何度も繰り返す。読み返す。読み返しても消えない。
やっと現実として染み込んできたところで、浅葱の声が震えて聞こえた。
「どうだった?」
俺は、ゆっくり顔を上げた。
目が熱い。泣かないと決めていたのに、決意の方が溶けそうだった。
「受賞、しました」
口にした瞬間、堰が切れたように感情が溢れ出す。胸がいっぱいで、息が詰まるほど嬉しい。
「やった!」
浅葱が叫ぶ。
不知火先輩が弾む声で言う。
「おめでとう!」
「ほら、言った通りでしょう」
瀬良先輩は微笑む。その笑顔が、今までで一番綺麗に見えた。
教室中の視線が集まる。ざわめきが起きる。
でも、そんなことどうでもよかった。
ただ、嬉しい。
こんなにも嬉しいことがあるなんて。
こんなにも、報われることがあるなんて。
「ありがとうございます、みんな」
声が少し掠れた。
「みんなのおかげです」
「何言ってるの。あなたが頑張ったからよ」
瀬良先輩が言う。
浅葱が首を振る。
「私たちは、ただ応援しただけ」
「でも、その応援があったから、頑張れました」
俺は本心を口にした。
支えられることは、弱さじゃない。俺は今日、それを実感してしまった。
「だから、本当にありがとうございます」
三人は優しく微笑む。
その笑顔が眩しくて、俺は目を細めた。
※ ※ ※
放課後。文芸部の部室。
いつもより少しだけ空気が甘い。窓から入る夕方の光が、机の上の紙やペンをオレンジ色に染めている。
浅葱が買ってきたケーキを四人で分け合う。フォークが皿に当たる小さな音が、やけに心地いい。
「おめでとう、高一くん!」
浅葱が元気よく言う。
「ありがとう」
「これで、高一くんも立派な作家だね」
「いや、まだ作家じゃないけど」
自分で言いながら、胸の奥が少しくすぐったい。
「作家」と呼ばれる未来が、急に現実味を帯びてしまったからだ。
「でも、受賞したんだから、もう作家みたいなもんだよ」
不知火先輩が笑う。
瀬良先輩はケーキを一口食べてから、ふっと目を細めた。
「ねえ、高一くん」
「はい」
「次は、何を書くの?」
その問いは、軽い雑談の形をしているのに、芯が鋭かった。
瀬良先輩の目は、今日の結果だけで満足していない。「次」を見る目だ。
「次、ですか」
「ええ。一作書き終えたら、次の作品を書くものよ」
瀬良先輩は静かに言う。
「作家は、書き続けることが仕事だから」
「それは、そうですけど」
言いながら、俺は自分の中で確かに芽生えたものを感じる。
書くことが、趣味から「道」に変わっていく感覚。
「じゃあ、もう考えてるわね」
「まあ、少しだけ」
俺は正直に答えた。
実は、もう次のアイデアが浮かんでいる。今度はもっと違う物語。もっと、成長した自分で書ける物語。
「楽しみにしてるわ」
「はい。頑張ります」
窓の外では夕陽が沈んでいく。空はオレンジ色に燃えて、街の輪郭が少しずつ柔らかくなる。
俺たちはその景色を、言葉少なに眺めた。
「ねえ、みんな」
俺は言った。
「俺、変わったな」
「うん、変わったね」
浅葱が頷く。
「最初は、もっと暗かったもんね」
「そんなに暗かったか」
「暗かったよ。いつも一人で、誰とも話さなくて」
不知火先輩も続ける。
「でも、今は違う。笑ってるし、話してるし」
「ええ。とても良い変化だわ」
瀬良先輩が静かに微笑む。
「これからも、もっと変わっていくわよ」
「そうですね」
俺は頷いた。
陰キャの俺が、ここまで変わるなんて。
昔の自分には想像もできなかった。
でも、今はこれでいいと思える。
この変化を、受け入れられる。
なぜなら、俺には仲間がいる。
支えてくれる人がいる。
大切な人たちがいる。
「ありがとう、みんな」
もう一度、そう言った。
「どういたしまして」
三人は笑顔で答えた。
その笑顔が、俺の宝物だった。
陰キャ孤独の王は、もういない。
今の俺は、ただの高校生だ。
友達がいて、笑い合える仲間がいて。
そして、大切な人たちがいる。
これが、俺の青春だ。
そう思えるようになった。
夕陽が部室を温かく照らしている。
その光の中で、四人は笑い合っていた。
この瞬間が、ずっと続けばいい。
そう思った。
俺の青春ラブコメは、まだまだ続く。
そして、これからも楽しい日々が待っている。
そんな確信があった。
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