第4話
グレンがスルー伯爵家の工房に立ち入ったのは、今回のオートマタの大量導入に関してスルー伯爵家に贈収賄を含む不正の疑いが上がっていたからだ。
グレンは調査に入る会計監査官の護衛として同伴した。工房で働く職人たちは突然の調査に驚きながらも、目の前の騎士があのルベルシュ子爵家の傑作を身につけるグレンだと気づくと、別のざわめきが湧き上がった。
『あの腕が、あの噂に聞くルベルシュの……』
『すげぇ。全然普通の手と変わらないぜ。いったいどうなってんだ?』
(彼女に似ているな……)
彼らの純粋な眼差しは技術者としての情熱に溢れていた。その姿はこれまでずっと自分が見つめて来たエステラの真っ直ぐな瞳を思い出させるもので、グレンの心はわずかに緩んだ。
エステラのことは子爵に紹介されるずっと前から知っていた。
生き生きとスチームホースを操り、領民の家で機械の不調があると聞けば、子爵家の技術者と共に自分の工具箱を持って駆けつけていた。機械に真摯に向き合う横顔、そして誰であっても飾らない素直な表情に、グレンはいつからか彼女の姿を探すようになっていた。
しかし貴族と平民。埋められない溝がそこにはあった。わずかな可能性にかけるように騎士団に入団したものの、三年前、グレンは左腕を失った。
もう騎士を続けることはできない――そう思っていた時、故郷であるルベルシュ領の領主であるルベルシュ子爵家が義腕を提供しようと名乗り出てくれたのだ。さらには子爵の末娘であるエステラとの婚約までも許可され、あまりの幸運に数日間はふわふわと羽根が生えたような気持ちだったのを覚えている。
グレンの義腕のメンテナンスをエステラが行うと決まった時は、緊張で腕が震えないかと心配したものだ。エステラもまた緊張していたようで、工具を義腕に落としてしまった。その時についた手の甲の傷を、グレンは二人を繋ぐ絆のようだと思っていた。
(その真剣な眼差しが何よりも愛おしいと伝えたら、彼女はどんな顔をするだろう……いや、俺なんかにそんな思いを向けられているなんて、彼女にとっては迷惑でしかないか……)
騎士としてどれだけ活躍しても消えてくれない不安。焦燥。劣等感。
エステラとの関係を繋ぐものがこの義腕だけかもしれないと考えると、素直に思いを伝える勇気が出ない。グレンは重くなっていく胸の淀みを吐き出すように静かに息を吐くと、目の前の職人たちへと意識を戻した。
しかしその一瞬の隙が、あの出来事に繋がるとは想像していなかった。
『グレン様! ここにいらっしゃったのね!』
突如、工房にメディアナが現れた。メディアナはグレンの姿を認めると、顔を輝かせて駆け寄って来た。
『聞いてくださいませ、グレン様! 私なにも知らないのに、あれやこれや問い詰められてとても怖い思いをいたしました! 本当にひどいわ……グレン様、慰めてくださいませ!』
そう言ってしなだれかかって来るメディアナに呆気に取られていると、次の瞬間彼女は思わぬ行動に出た。
メディアナの眼差しがまるで獲物を見つけたかのようにぎらりと輝いた。
『そうだわ! せっかくですもの、その義腕、我がスルー家の工房でメンテナンスしていかれると良いですわ』
『――っ!』
メディアナはそう言い放つと、にわかにグレンの義腕に手を伸ばした。反射的に身を引こうとするグレンの動きを許さず、彼女はその皮手袋を掴み、一気に引き抜いた。わずかに動きが遅れたのはメディアナの瞳の奥の焦燥と、見覚えのある劣等感に気づいてしまったからかもれない。
ぽとりと手袋が落ち、普段グレンが決して人目に触れさせることのない、磨き上げられた金属の義腕が鈍い光を放ちながらあらわになった。周囲の職人たちはメディアナの横暴さと、まるで芸術品のような義腕の精巧さに息を呑んだ。
『触るな!』
『きゃっ!?』
グレンは思わず声を荒げた。
絡みつくメディアナを振り払うように身を捩ると、義腕の内側からキシ……と軋むような音が響いた。ハッと動きを止めたグレンに、メディアナは薄い笑みを浮かべる。
『さすがルベルシュ、古くさい作りですわね。それにその傷、もしかしてあの子が?』
メディアナの視線は露出したグレンの手の甲に向けられている。そこにはエステラの初めてのメンテナンスの時についた傷が、黒い筋となってはっきりと残っていた。
『こんな傷をつけるだなんて信じられない……。でも私の力なら、全部入れ替えて差し上げられましてよ。そう、あなたに必要なのはあの子じゃないわ……』
あの時のメディアナの言葉がよみがえる。
そして今朝、義腕の様子を見てもらうために訪れたエステラは、どうも様子がおかしかった。彼女が口にした『スルー伯爵家を選んだ』の言葉に、昨日の夜会でメディアナが何か良からぬことを吹き込んだと察したのだ。
しかし誤解を解こうにも、任務の詳細を口にするわけにはいかない。言葉を選んでいるうちに王城からけたたましい警報が響き渡り、グレンはエステラの元を離れなければならなくなった。
(あの時、自分の気持ちを正直に伝えればよかったんだ。俺は彼女を――)
その思考は、突如響いた激しい地響きによってかき消された。広間の奥から、何かが激しく壁にぶつかる衝撃音が響いてくる。シャンデリアのクリスタルが互いにぶつかり合いガチャガチャと音を上げ、地面に転がったオートマタの残骸が小刻みに揺れる。
「まだ残っていたのか」
音の主は制御を失い、壁に何度もぶつかりながらこちらに迫って来ているようだった。
グレンがすで刃こぼれだらけとなった剣を構え直した。きっとこれが最後の一体だろう。早く終わらせて戻らなければならない……早くエステラと話をしなければ……。その思いが頭をよぎったまさにその時、入口に大きな影が現れた。
壁にぶつかりながら向かって来ていたのは、荷運び用の大型オートマタだった。給仕用のオートマタよりも頑強に作られているせいで、壁に激しくぶつかってもその躯体が動きを止めることはない。オートマタは大きなレンズにグレンの姿を捉えると、大きく腕を振りかぶり突進して来た。
剣を構える左腕の奥に、再び微かな軋みが響く。
「これが終わるまでどうかもってくれ……」
左腕に祈るように呟くと、グレンはぎりぎりまで引き寄せたオートマタの腕を紙一重ですり抜けるように交わした。太い腕は標的を失い、全力で絨毯に叩きつけられる。その衝撃でオートマタの腕からいくつもの機械片が弾き飛んでいった。
その瞬間を狙い、グレンは躯体の継ぎ目を目掛けて斬りかかる。目論み通り、ガキンッと鈍い音を立て剣はオートマタの胴体の継ぎ目に食い込んだ。しかし剣はそれ以上進むことなく、その巨体はわずかに揺らいだだけで、動きを止めることはなかった。
「っ、くそ!」
グレンは剣を引き抜こうとするが、固く食い込んだ刃はびくともしない。その隙を逃さず、オートマタのもう一方の腕が振りかぶられる。
――まずい。グレンは咄嗟に左腕をかばうように前に出した。
ギィンッ!
「ぐっ、ぅぅ……!」
振り下ろされた腕を義腕が受け止めた。鈍い金属音と共に、全身を激痛が駆け抜ける。歯を食いしばり耐えるが、視界が歪む。
一方、オートマタはグレンを押しつぶさんが如くぎりぎりと力を緩めることはない。靴の踵が絨毯に深く沈み込み、少しずつ押し下げられていく。
その時、手首の継ぎ目から黒い機械油がぽとりと雫となって落ちた。それは義腕内部の装置に注入されている油だ。
(中も限界か……くっ、こんなところで……)
シュゥゥゥ……と細い線を描きながら蒸気も漏れ始めた。
(諦めるな! 彼女に――エステラに約束しただろう。戻ったら話をしようと――)
だが暴走したオートマタは容赦なくグレンを追い詰める。ピシ、ピシ……と嫌な音を立てて義腕に亀裂が走り始める。騎士としての誇りも、エステラと自分を繋ぐはずだった義腕も、このまま砕け散ってしまうのだろうか。
エステラの笑顔がグレンの脳裏をかすめた、その時だった――
「――いけぇぇぇっっ!」
広間の大きく開いた扉の向こうから、凄まじい勢いでスチームホースが突進してきた。馬上にいるのは、煤と油にまみれた作業着姿のエステラだ。エステラはグレンを襲うオートマタを睨みつけながら、速度を緩めることなくその巨体にスチームホースを走らせた。
「グレン様、跳んでっ!」
「っ!!」
その声にグレンはエステラの意図を理解した。
グレンはオートマタに押し付けられていた左腕を捻り、激痛に耐えながら後ろに大きく跳躍する。同時に最高速に達したスチームホースが暴走オートマタの側面へと激しく衝突した。
ガァンッ!という耳をつんざくような金属音。そして速度を落とさないスチームホースに押し込まれながら、オートマタは激しい衝突音と共に壁にめり込み、ついにその動きを止めた。
エステラはオートマタへ体当たりする寸前、その身を宙に投げ出していた。
身体は無防備に床に叩きつけられ、思わず息が止まる。痛みをこらえながら顔を上げると、少し先で倒れ込んだグレンが身体を起こそうとするところだった。
「――っ、グレン様!」
その声に弾かれたように顔を上げたグレンの青い瞳がエステラを捉える。
エステラはすぐに身を起こすと、足をもつれさせながらグレンの元へ駆け出した。グレンもまたよろよろと立ち上がると、左腕を押さえながらエステラの方へ足を踏み出す。
「エステラ……!」
「グレン様っ……あ!」
「危ない!」
しかしグレンに駆け寄ることしか考えていなかったせいで、エステラはオートマタによって深く抉られた床の窪みに気づくことができなかった。足がもつれてバランスを失ったエステラの体は、前のめりに倒れ込んだ。
だが次の瞬間、グレンの腕がエステラの体を力強く支えていた。見上げると、血と油に汚れたグレンが瞳に安堵の色を浮かべながらエステラを見つめていた。
「エステラ、大丈夫か?」
「は、はい……」
「良かった。君が無事でいてくれて」
「で、でも――」
グレンの温かく力強い右腕に支えられ、エステラは体勢を立て直した。その時、視界の端に映った彼の左腕にエステラはハッと息を呑んだ。
そこには力なく垂れ下がっている義腕があった。すでに動力源の蒸気を失い、大きく口を開いた関節部分からは機械油がとめどなく滴っている。ここまで激しい損傷なら生体への負担も大きいだろう。事実、痛みをこらえるようなグレンの様子にエステラの瞳から涙が堰を切ったようにあふれ出した。
「ごめんなさい! あの時、私がちゃんとグレン様のお話を聞けていたら、こんな事にはならなかったのに!」
激しい後悔がエステラの胸を締め付ける。
メディアナの言葉と自分の劣等感に囚われ、最も信じたかったはずのグレンの言葉を聞かないようにしたのはエステラ自身だ。グレンに技術者として認められ、婚約者として愛されたかった……そんなどうしようもない願いを抱いてしまった自分の責任だ。エステラは嗚咽を漏らしながら必死に言葉を紡いだ。
「グレン様の腕に触れられるのは私だけって、そう思いたかった。私だけが特別でいたかった……そんな勝手な思いのせいで、こんなことになってしまって……」
「エステラ、それは違うんだ……君のせいじゃない」
その時、グレンの指先がそっと頬に触れた。エステラの頬の油汚れをなぞるように、柔らかな頬をそっと撫で、涙を掬い取っていく。
「俺ももっと君に伝えなければならないことがあった。けれどそれを伝えるのが遅くなってしまったせいで、君を苦しめる結果になってしまって……」
そう語る指先の微かな震えに、エステラはハッとグレンを見上げた。グレンの顔もまた煤と油と、そしてすっかり乾ききった血がこびりついている。
「彼女が何を言ったか知らないが、俺は君以外にメンテナンスを任せるつもりはなかった。生涯を共にするのも君以外には考えられない。それだけは信じてほしい」
「……グレン様」
グレンの瞳に油に汚れた自分が映る。
彼の言葉に心が震えるほどの喜びを感じながら、無意識に伸ばした手が力なく垂れさがるグレンの義腕にそっと触れた。手の甲にはエステラがつけた傷が、滴る油の中に一筋の線となって浮き上がっていた。熱い思いが胸にこみ上げる。
「必ず……必ず私が直します。どんなことがあろうとも、ずっと」
グレンの瞳に映る、エステラの震える唇が紡ぐのは謝罪ではない。一人の技術者として、そして彼を愛する一人の人間としての誓いの言葉だった。