第2話
どうしてグレンがここに――心臓が変な音を立てる。彼と約束はしていないはずだ。それなのにどうして……
その時、彼が自らの左腕にそっと触れた動作に、メディアナの言葉が真実だったのだと頭の中がスッと冷えていくのがわかった。
「何の御用でしょう。今日はお約束をしていなかったはずですが」
咄嗟に発した声は、想像よりも突き放すように聞こえた。グレンも様子の違うエステラに気づいたのだろう。困惑の色が青い瞳に浮かぶ。
「あ、いや……今日は君に少し相談したいことがあって」
そう答えながら彼が触れるのは左の義腕だ。皮手袋に手をかけるグレンを制止するように、エステラは言葉を投げつけた。
「スルー伯爵家に行かれたんですよね」
「……どうしてそれを?」
「昨日、夜会でメディアナ様に伺いました」
エステラの言葉にグレンの目が見開かれる。その表情には驚きと、ややきまりの悪さが混じっているように見えた。
「そうだったのか。スルー伯爵家を訪ねたのは確かだ。だが彼女に何を聞いたかはわからないが――」
「我が家の技術ではもうご満足いただけなかったのでしょう? グレン様はスルー伯爵家の最新技術を選んだのだと、メディアナ様が仰っていました。お気遣いいただかなくとも、私も技術者の端くれです。より良いものを選びたい気持ちはわかります」
グレンの言葉を遮るように、エステラは一息で言い切った。いつの間にか工具を握る手に力がこもり、じんじんと痛みだしていた。
「あの手の甲についた傷だって、消したかったのならどうして仰ってくださらなかったのですか?」
「待ってくれ。いったい何のことか――」
「お気遣いは必要ありません。そもそも私との婚約だってお父様に命じられたものですし、これまで大変なご負担を強いてしまい申し訳ございませんでした。父には私から婚約を解消してほしいと伝えます」
「な……っ!?」
エステラが言い放つと、普段は冷静なグレンの顔からみるみる血の気が引いていく。
「エ、エステラ……どうし――」
「ルベルシュ家の技術では――私では……もうグレン様のお役には、立てません……」
震える声が湿り気を帯びる。しかし煤と油にまみれた顔に、これ以上涙の跡を重ねるわけにはいかない。エステラは必死に唇を噛み締め、グレンに背を向けた。
「違うんだ、エステラ。聞いてくれ! ルベルシュ伯爵家には――」
「申し訳ございません。今日はもうお帰りください」
グレンはよろめくように一歩踏み出した。
しかし咄嗟に伸ばした左腕を、グレンは顔をしかめすぐに抑え込んでしまう。その光景に声を上げたのは、ハラハラと二人のやり取りを見つめていたブリジッタだった。
「――グレン様?」
だがブリジッタの声はエステラの耳に届かなかった。
その時、けたたましい蒸気笛の音が響き渡った。ウゥゥゥゥ……ッと、長く、不穏な響きが王都を包む。それは緊急事態を告げる王城の警報だ。緊急事態が起こった際に鳴ると話には聞いたことがあったが、実際に耳にするのは初めてだった。
「――な、何っ?」
エステラが動揺の声を上げる。一方、グレンは鋭い眼差しで窓の外を睨んでいた。
「この音……緊急招集か」
「招集……」
厳しいグレンの声に、エステラは思わず彼の顔を見つめた。グレンはすっかり凛々しい騎士の面持ちに変わっている。その瞳には騎士として、王都の危機に立ち向かう覚悟が宿っているようだった。
(グレン様が行ってしまう……)
エステラの胸に言い表せない不安が広がっていく。そう、グレンは人々のために命を懸けて戦う騎士なのだ。不意にグレンが振り向き、彼を見つめていたエステラと視線がぶつかる。
「すまない、行かなければならない。警報が止まるまで、君たちは決して外に出ないように」
グレンの真剣な眼差しはエステラたちを心から案じるものだった。
「そしてエステラ、終わったら必ず戻って来る。戻ってきたらゆっくり話をしよう……俺たちのこれからの事を」
「は、はい」
その真摯な瞳にエステラは無意識に頷いていた。その姿を見たグレンは一度だけ頷き、工房を飛び出して行ったのだった。
工房には警報の音だけが不安を煽るように響き続けていた。
グレンが飛び出して行ったあと、小さな爆発音が何度か聞こえ、やがて窓から見える空に黒い煙が幾筋もたなびき始めた。
(いったい何が起きているの?)
幸い母屋の兄たちは無事だと従僕が伝言してくれたおかげで、そちらに関しては安心していられる。しかし……
「大丈夫でしょうか……」
ブリジッタが外を見ながらぽつりと呟いた。
「どうしたの?」
「……実は」
エステラが尋ねるとブリジッタは少し迷った後、躊躇いがちに口を開いた。
「グレン様ですが、先ほど左腕を伸ばした際に、顔をしかめていらっしゃったのです」
「え?」
「義腕の不調を感じていらっしゃったのかも、と」
義腕の不調……?
その言葉にエステラは頭を殴られたような衝撃を覚えた。脳裏にグレンの焦ったような表情がよみがえる。たしかに彼は左腕をしきりに気にしていたようだった。
「まさか……」
あの時、手袋を外そうとした彼は、どんな顔をしていただろうか。
カラン……とエステラの震える手から工具が滑り落ちた。崩れ落ちそうになるほどの、激しい胸騒ぎが襲いかかって来る。
(いいえ、それならメディアナ様の所でメンテナンスをなさったというお話は? メディアナ様は甲の傷の事も知っていたわ……だけどグレン様は否定なさっていた。もし、本当にグレン様が私に不調を訴えようとしていたのだとしたら――)
――グレン様に必要なのは我が家の技術よ。あなたじゃないわ。
メディアナの言葉がよみがえる。
けれどようやく気付く。こんなにも彼女の言葉に囚われてしまったのは、本当はグレンに必要とされていたかったから。
(私が認められなかったのは私自身。私の存在も、グレン様への気持ちも……全部私が認めようとしなかっただけじゃない)
煤と油にまみれ、淑女とはかけ離れた自分の劣等感を見ないようにしていたのはエステラ自身だ。
「……私はっ!」
いつの間にかきつく噛みしめていた唇から鉄錆の味が広がる。
「もしグレン様の腕が動かなくなったら――グレン様に何かあったら、私は……!」
今、自分にできること――
エステラは唇を固く結び、顔を上げた。
「ごめんなさい! 私、行ってきます!」
次の瞬間、足元に置かれていた工具箱を迷わず掴んで駆け出したエステラは、スチームホースに飛び乗った。流れるように起動すると、スチームホース特有の駆動音がまるで馬のいななきのように工房に響き渡る。
「いけません、お嬢様っ!」
「あなたは母屋で待っていてちょうだい! 必ず戻るから!」
慌てて引き留めようとするブリジッタの声はエステラに届くことはなかった。
工房の扉を勢いよく開け放ち飛び出したエステラの姿は、あっという間に王都の騒乱の中へと消えていったのだった。