海釣り 五
時はややさかのぼり。
七海が異変に気が付いたのは、元気を見送ってしばらくのことだった。
「……釣れないな」
握った竿に反応がない。
ぎこちない動きでリールを巻いて針先を見れば、餌の虫はついたまま。
だというのに、竿を振っていくら待っても魚が食いつく手ごたえ、あたりが来ない。
仕掛けは金に物を言わせて完成品を買った。
餌の虫のつけ方も、ネットの動画で予習してきた。
竿の振り方はまだぎこちないと自分でもわかったが、そのほかに修正すべき点が見つめられず、七海は早々に飽いていた。
「さっきまで楽しいと思ってたのに」
つぶやいて、その楽しさをもたらしてくれていたのが元気の存在だったのだと気づかされて、七海は黙り込む。
――呼べば元気は来るだろうか。
ふと思ったけれど、思った心のままに呼べる素直さは七海にない。
――なんで呼んだの、なんて聞かれたら面倒だしな。
いつまでも小学生みたいな元気のことだ。「ひとりだとつまらなくて」と言ったところで笑わないだろう。いや笑いはするかもしれないが、馬鹿にすることはぜったいにない。
――ないけど、まあ、今に元気のほうから呼んでくるだろ。
釣り餌の虫を触るのが怖いと騒いでいた元気だ。
こちらから呼ばなくとも「助けて七海ぃ」と声をあげるに違いない。
そう自分を納得させて、七海は静かに耳を澄ませた。
たぽたぽたぽ。
岩にぶつかる波の音。
ちゃぷちゃぱちゃぽ。
足元で揺れる黒い海の音。
じゃり。
七海の足の下でこすれた石が立てるかすかな音。
「……まあ、ちょっと見に行ってやったほうがいいかもしれないしな」
七海がつぶやいたのは、もちろん照れ隠しのためだった。
そして、あまりにも静かすぎる夜の海がなんとなく気味悪く思えたのもある。
元気のところに行こう、と思った七海だったがリールを巻いて仕掛けを引き上げたところではたと止まった。
「そういえば、竿ってどうすればいいんだ?」
竿は長い。
七海が購入したのは初心者向けの物で竿の中で言えばさほど長いほうでもないが、それでも男子高校生の平均以上の身長を持つ七海の背丈の倍はある。
釣り場に来るまでは収納されていたためそこまで邪魔にもならなかったが、いま七海の目の前にあるのは、一度伸ばして仕掛けまでつけた竿だ。
七海は試しにそれを地面に置いてみた。
「めちゃくちゃ邪魔だな……」
波打ち際に向かって平行に置いてはみたものの、長い。邪魔だ。人が通りかかったなら、気づかず蹴飛ばしてしまうかもしれない。
だからと言って直角に置いたところで竿が縮まるわけでもない。誰かが足を引っかけてしまう可能性もある。
「下調べが不十分だったか」
七海は反省しつつ、スマホを取りだした。
ちらりと見えた新着メールの送り主は、同じ塾に通う同学年の男子。
そうと知ってあえて触れず、七海はネットで竿の扱い方について調べていく。
「なるほど、竿を立てかけて置く器具があるわけだ」
小ぶりな三脚の上部にくぼみのあるパイプが伸びたものや、大型クリップの上部に溝がついたもの。色も形も様々な竿用のスタンドが画面に並ぶ。
その図を参考に、七海は流木の破片を拾い集めて岩のすき間に立てていく。できあがったのは簡易の竿立てだ。
「さて」
竿を置いた七海はペンライトを片手に歩いて来た岩場を戻っていく。
今夜の釣り客は七海と元気だけなのか、道中に人はいない。
けれど釣り人がいないわけではないのだろう。遠く離れた海辺にはぽつぽつと小さな明かりが揺れているのが見えた。
それを見るともなしに眺めながら歩いていって、七海はふと足を止めた。
元気がいない。
七海はそう離れたところへ行ったわけではなかったから、そろそろ元気の姿が見えて良いはずだ。
けれど「七海だ」と振り向く友人が見当たらない。
「あいつ、どこいった?」
ペンライトで遠くを照らしてみるが、届く範囲に人影はなかった。
代わりに見つけたのは、大きく膨らんだ元気のリュック。
すぐそばにはもぞもぞと動く餌の虫も転がっていた。
「便所か」
いるはずの場所に友人がいない。
その状況を七海はそう結論付けた。
といっても、漁港から離れた海辺にちょうど良く公衆トイレがあるはずもない。
だが七海も元気も男だ。
どこでどう済ませるとまでは明言しないが、自転車を置いたあたりまで戻れば程よい低木の茂みがあった。
――いないならおとなしく、ひとりで釣りするか。元気が戻ってきたときに魚の一匹も見せてやれば、悔しがるかもしれないし。
道具を置いてきた岩場に再び戻ろうと、踵を返した七海はふと足を止めた。
「なんだ……?」
すぐそばの波間から何かが突き出ている。
波の動きに合わせて揺れ動くのは、細い棒。釣り竿の柄だ。
「これ、元気のか」
波打ち際から手を伸ばし、手に取った七海は気が付いた。
――あいつも置き方がわからなかったんだな。
竿の置き方がわからず、用を足すため慌てて置いたせいで流されたのだろう。
そう思い、呆れ混じりに身体を起こした時。
七海は波の合間に何かが見えた気がして、目を細めた。
黒い海。黒い空。
地平線も空も境がなく、どこまでも暗い波がたゆたっている。
そのなかに、七海の持つペンライトの明かりを受けてきらめくものがあった。
――あれは波じゃない。それよりも明確に、光を跳ね返すもの。
「……反射材と、極彩色のスキーウェア。あれは、元気!?」
気づいた七海はぞっとした。
見えたのは元気が身に着けていた衣服。
それはつまり、元気が海の中にいるということを示している。
「まさか服着たまま泳いでるわけねえよな……」
春とはいえ、夜は冷える。水の中などなおさらだ。
夏には水遊びを欠かさない元気とはいえ、さすがにすすんで寒中着衣水泳に挑みはしないだろう。
「元気! おい、元気!」
波打ち際で叫ぶが、返事はない。
それどころか元気の体はゆらり、沖のほうへと遠ざかる。下半身は水の中に沈んで、すっかり見えない。
「おいっ、何してんだ!」
声をあげた七海は慌てて海に駆け込んだが、一歩踏み込んだところで驚いて足が止まった。
「なんだこの冷たさ……!」
波が氷のように冷たい。
いいや、氷以上だ。
波に触れた箇所からぞくぞくと怖気がわきあがるほどに、冷え切っている。
いくら夜とは言えこんなに冷えるものだろうか。
浮かび掛けた疑問に、七海はハッとした。
冬季の水の事故での死亡は、水に溺れて死ぬよりも低体温で死ぬ確率のほうが高い。
水温十度における意識不明までの時間は、長くて一時間。
水温五度では三十分保てばよくがんばった、と言われるほど。
――なら、今ここの。触れるのも怖いくらいの水温なら?
考える間も惜しいと、七海はあたりにペンライトの光を走らせた。
飛び込みたい。今すぐ駆けて行って、元気の首根っこをつかんで連れ戻したい。
けれど、七海は見てしまった。
海に胸まで浸かる元気を取り囲む、無数の青白い手。
海中から伸び、元気を誘い込むように揺れる腕、腕、腕。
がむしゃらに動かしたペンライトの光を嫌うように、波の影に隠れてしまったけれど。
――見間違いじゃない。あれは腕だ。それも、生きてる人間のものじゃない……。
生きている人間のものでないならば、何なのか。
じっくり考えている余裕など七海にはない。
――助けに行く。でも、俺まで水に入れば、元気の二の舞だ。
あまりに冷たい水の感触と、ぞっとするような青白い腕。
体験し、目にしたそれらのおぞましさが、わずかに残った冷静さが七海を陸にとどめていた。
代わりに探し出したのは、打ち上げられた流木。釣竿よりも長いそれを持ち上げられたのは、鍛冶場の馬鹿力というやつだろう。
長く、太さもあるそれを七海は海面に叩きつけるように伸ばした。
「元気!」
目をこらして見つけた元気は、七海の声には反応しない。けれどもぞもぞと身じろいでいる。
――あいつ、何して……まさか、ジャケットを脱ごうと!?
「元気! 元気、バカ元気! さっさと気づけ!」
声をかぎりに叫ぶ。
けれど元気は背を向けたまま。それどころか、身に着けていたジャケットがずるりと波に浮かぶのが見えて、七海が思わず飛び込もうと、流木を捨てかけたとき。
「……ぃだなんまいだなんまいだ」
低く聞こえてきた念仏を唱える声。
七海はいよいよ背筋が凍りそうだったが、しかし。
ばしゃんっ。
波間で、たゆたうばかりだった元気が大きく海を叩いた。
「うわっ、なに、海!?」
「っ元気! はやく、その流木をつかめ!」
「なになに、なんなの助けて七海!」
「助けるから、はやく!」
突然、暴れ出した元気が助けを求める。
七海は驚きながらも、混乱する元気を落ち着かせようと必死で叫び声をあげるのだった。
***
湯舟でしっかり温めた身体を分厚いはんてんで包んで、熱いほうじ茶をすする。
「ほふぅ……」
「あったまるな」
海での危機を乗り越えたふたりは、七海のスマホで連絡をした元気の祖父の迎えで、無事に帰宅していた。
現在、祖父はふたりぶんの自転車を回収するため、軽トラックで出かけて行った。
出かけ際に「海は色々あるからよお、まあ無事に戻って何よりだ」と独り言のようにつぶやきながら。
ゆっくり体を温めるよう言いつけられたふたりは、そろってひと息ついているところ。
こたつに並んで足を突っ込み、湯呑を抱えていれば、冷え切っていた身体はじわじわと暖まっていく。
だんだんと温もりが浸透してきたのだろう、元気はこたつの天板にぺたりと顔をつけた。
こちこちこち。
静かな部屋に余計の音が響く。
「……なあ、どうして海に入ろうなんて思ったんだ」
「……明かりが見えたんだ、海のなかに。それで、ああ七海がいる、って思って。そんなわけないのにね」
ぽつりと答えた元気の声に、じゅうぶん暖かくしているはずの七海の背筋がひやりとする。
「海に、明かりが?」
「うん。それで、行かなきゃ、って思って。どうしてかわからないけど、そう思って。気づいたら、七海が俺の名前を叫んでた」
「だってお前、ジャケットを脱ごうとしてたから。海のなかでもがきもせずに、むしろ沖に向かって進んで、そのうえジャケットまで脱いだら、そんなの」
――死んでしまうじゃないか。
言葉にすればもう誤魔化せなくなってしまう。
そう思えて、七海は口をつぐむ。
代わりに言葉にしたのは、海で体験したもうひとつの不思議。
「そういえばあの時、念仏を唱える声が聞こえたんだが。あの辺に民家ってないよな?」
「あ、七海も聞いたんだ。俺もね、ぼーっと海に進んでる途中で聞こえてさ『なんまんだ〜』って。それではっとしたら七海がめちゃくちゃ俺のこと呼んでるから、びっくりしたよ」
必死に呼んだ覚えは七海自身にもあった。
そうしなければ、元気が死んでしまうと思ったから。
けれどそれを素直に伝えられる素直さを七海は持ち合わせていないので、お茶をすする。
「……その、悪かったな。釣りになんか誘って」
決まずげに、申し訳なさそうに七海がぼそりとつぶやけば。
元気はきょとりと、目を丸くして七海を見つめた。
けれど七海は居心地悪そうに視線を明後日の方向へやっているものだから、元気は「うーん」と言葉を探す。
「俺、うれしかったよ。七海と久しぶりに遊べてさ」
「お前、正気か?」
異様な体験をしたのはほんの少し前。
それを『楽しかった』と笑う元気が信じられなくて、七海は気まずさも忘れて元気の顔を見た。
「いや、まあ怖い思いもしたわけだけどさ。でも、中学の終わりぐらいから七海、塾とか勉強で忙しくって、あんまり遊んでくれないんだもん」
「……トップが取れなくてな」
七海はどうしてか、素直にそうこぼしていた。
元気は「うん」とひとつうなずく。
「俺、家のあと継いで医者になるからさ。こんな地方の塾でトップもとれないようじゃ、やばいって思って」
「うん」
「焦って色んな参考書買ってみたり塾の時間増やしてみたけど、結果が出なくて、むちゃくちゃ苦しくって」
「うん」
「どうしよう、どうにかしないと、ってことばっかり考えてたら些細なことでイライラしたり腹立って嫌な言い方して、そんなことする自分にまたむかついたりしてさ」
「うん」
ひとつこぼせば、親にも言えずにいた胸のうちが、ほろほろとこぼれ落ちてくる。
それを聞く元気はずっと「うん」「うん」とうなずくばかり。
アドバイスはない。じゅうぶんがんばってるよ、なんて慰めの言葉すらない。
ただ、だからこそ、七海は満足がいくまで話すことができた。
話し終えたときには、七海の顔は笑っていた。
「なんか、お前と話してたらそういうの全部ふっとんだわ」
「そう? なんかわかんないけど、良かった」
元気も笑う。
けらけらと笑い合ったふたりは、すこしぬるくなったほうじ茶をすすり、どちらからともなく口を開く。
「色々あるっていったって、程度があるよな」
「それな」
「まあ、夜釣りはとうぶんやめとこう」
「賛成」
互いの意見が一致するころ、長かったような短かったような春休みの一日が終わろうとしていた。
<夜釣り おしまい>
はじめての釣り、海釣り編はここでおしまい。
次の釣りにでかけるまで、しばらくお待ちください。