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夜釣り 三

「七海ぃ、どこで釣る?」


 店を出た元気の心は、すでに海にたどりついていた。

 先に自転車を漕ぎはじめた元気を七海がさらりと追い抜いていく。マシンと操縦者のスペックの違いが如実に表れている。


「どこでもいいけど、そうだな……すぐそこ下った港で良いんじゃないか? 釣り禁止とは書いてなかったはずだし」

「あー、あるある。近いし、いいと思う!」


 七海は余裕で、元気は一生懸命に。自転車をこぎこぎ言葉を交わし、二人は目的地を決めた。


 釣り具屋から少し進んだ丘からは、昼間であれば青々とした海が見渡せただろう。

 けれど月明りもない今夜は、遠く水平線のかなたを行く船の明かりがちらつくばかり。


「海、見えないなあ」


 すいすい進む七海を追いかけるべく立ち漕ぎしながら、遠くに視線をやった元気が言う。


「今から行くんだから、嫌でも見るだろ」

「嫌なわけないだろー。俺、海好き! おいしいものが泳いでるし、きらきらしてるし!」


 元気がはしゃぐ声をあげたとき、先を行く七海が細い道に入り、掘立小屋を左に曲がる。

 とたんに、潮の香りがぐんと強くなった。


 車一台分の幅しかない細い道が、海まで続く、ぐねぐねと曲がりくねった坂道を降りていくと、やがて見えてきたのは、港の明かり。昼間は網を修理する老人や数人の漁師がうろつく程度の、ちいさな港だ。


 それが夜になれば、どうだろう。


「うわ、車いっぱい!」

「人も多いな……あれ全部、釣り客か」


 昼間はがらんとしている駐車場が嘘のように、車で満ちていた。

 作業場の明かりは消えているため、港関係者の車ではないだろう。それを示すかのように、港から伸びる岬には、ずらりと並んだ人間のシルエットがあった。


 それぞれのシルエットからは細く長い竿が伸びている。互いの竿が絡まらないようにだろう、人びとは等間隔に間をあけて釣りをしているようだった。

 格別、騒いでいる者は見当たらないが、どことなく賑やかしい気配があたりに漂っている。

 夜だというのに寂し気な雰囲気はなく、港はにぎわっていた。


 ぽつりぽつりと街灯が設置された港は、車を停める場所もあり、釣り場としても安全で理想的なのだろう。

 街灯に照らされた岬の途中に『海を汚さず安全に気を付けて釣りをしましょう』と書かれており、釣り禁止でないのもまた、人が集まる理由のようだった。


「おわー。完全に出遅れた感じ? 俺たち、入るとこなさそう?」 


 港の入り口で自転車を停める、あたりをきょろきょろと見回した元気はいっそ感心する。

 並ぶ車のナンバーの、半数以上が他県だった。

 海のない隣県ならばまだわかる。けれど、日本海に面した県名がちらほら見えるのは、釣りをするためだけにわざわざやってきたのだろうか。


 元気たち学生は春休みだが、車を持っている人間の大部分は社会人だろう。世間的には今日が平日であることを思えば、仕事終わりにそのまま高速道路に向かって車を走らせ、釣り場へと直行した者もいるに違いない。


「どうする、七海。他の場所、探しに行く?」

「そうだな……いや」


 元気の提案に、七海は頷きかけて首を振った。


「一回、あっちのほうを見てみよう」


 七海が指さしたのは、港に背を向けて進んだ先。

 海とも崖ともつかない暗がりのなかに、細い道が続いている。


「この向こうに、夏に泳ぐ場所があったろ。狭いけど、歩いて行ける磯だ。海を挟んですぐ道路があるから、磯まで行けば街灯の明かりも届いて真っ暗でもないだろうし」

「おー! あそこね。いいね、行ってみよ」


 自転車から降りた元気は、七海と並んで自転車を押して歩く。

 背中に当たる街灯に照らされて、ふたりの足元には長く影が伸びていた。その影が闇に飲まれて消えるころには、人の気配も遠ざかり、心なしか気温もぐっと下がったように思える。


 暗がりのなか、だぷん、だぷんと波がコンクリートを嬲る音ばかりが繰り返す。時折、どぼん、と大きな音を響かせるのは、波の形が変わるせいだろうか。


 からから、からから。ふたりぶんの自転車の車輪の音は頼りなく、心細さが元気の胸にじわりと浮かぶ。

 だからだろう。暗い道の先に見えた大きな車に、元気はついふらふらと近づいた。


「あー。これも釣りする人の車だよね。よく入ってこれたね、ギリギリじゃない? これ、帰るときはバックで戻るのかな」

「だろうな。車の天井に竿が吊るしてある」


 通り過ぎざまにちらりと目をやれば、暗い車内に釣り竿が数本見える。

 光がないためわかりづらいが、新しい車のようだ。

 見える範囲に釣り人の姿はないけれど、車中にいないということはこの先のどこかで釣りをしているのだろう。


 そう思うだけで、元気はなんとなくほっとした。

 暗がりのなかにいるのは自分たちだけじゃない。そんな安心感があったのだ。

 けれどそんな安堵が続いたのは、ほんのひととき。


「思った以上に暗いな」

「ほんと、ほとんど見えないや」


 自転車が進めない場所まで来ると、あたりの闇がぐんと濃さを増した。

 七海があてにしていた道路の街灯はずいぶん遠く、こぼれた明かりは波にもまれて飲まれ、ふたりのいる位置までは届かない。


 なんとなく無言になって、ふたりはそれぞれの荷物を手にした。


 元気は大きなリュックを背負い、七海はセットで買った初心者用釣り竿セットと釣り具屋で買ったばかりの白いビニール袋を手に下げる。


「じいちゃんのヘッドライト持ってくれば良かった」

「なんで持って来なかったんだ?」

「電池探すのめんどくて」

「お前らしいな」


 軽口を叩いてみたところで、闇は晴れない。

 手探りで進んだとしても釣り餌をつけられやしないのでは、不安定な足場を超えて磯に出る意味もない。


 そのとき、ふと七海がズボンのポケットをまさぐった。


「あった」


 ごそりと取りだしたのは、やや太めのペン。

 顔を寄せてまじまじと見た元気は首をかしげる。


「なにそれ。秘密道具?」

「じゃないけど、無いよりマシだろ」


 言いながら七海が触れると、カチとかすかな音とともにペンの先が光を放つ。


「わあ、ペンライトだ」

「懐中電灯にするには暗いけど、まあ、手元を見るくらいならいけるだろ」


 か細いペンライトで足元を照らし、そろりそろりと進んでいく。

 夏に遊んだ記憶を頼りに岩場を越えれば、大きさを増した波の音と不気味にうねる黒い波だけがふたりを包み込んだ。

 空には雲が広がっているらしく、星も見えない。


「おー、誰もいないからどこでも釣り放題!」

「あんまり前に行くなよ。お前、明かり持ってないし、海と岩の境目もよく見えないんだから」

「はーい」


 言われるまま素直に七海のそばへ戻った元気は、その場にしゃがんで地面に触れてみる。

 大きめの石がごろごろと集まる地面は、潮の香りに満ちてはいたが湿ってはいない。「濡れないよな」つぶやいて、大きなリュックをおろした元気がごそごそと中身をさぐる。


「じゃーん!」


 取りだしたのは短く縮めた竿。用意した元気の祖父が「竿は先端から伸ばすんだ。いいな、先端から順番に伸ばす、今日はそれだけ覚えていってくれ」と念を押して、渡したものだ。

 竿の先端から伸びるラインにはすでに仕掛けがつけられている。もちろん、元気の祖父がつけたのだ。

 針が刺さらないように、と仕掛けまきに巻き付けられた箇所を元気が解いていけば、丸いウキ、金具、ハリがぶら下がった。


 ラインからハリの先までは竿と同じくらいの長さ。ぶらりと揺れる一連の仕掛けを、七海はペンライトで照らして興味深げに眺める。


「延べ竿か。竿の先のこれがリリアン、そこにラインを結び付けるのがチチワ結び、と」

「チワワ?」


 真面目な顔で頷く七海の隣で、竿を持った元気が首をかしげる。その表情こそチワワのようだ。


「ちがう、チチワ結び。釣りにはいろんな結び方があって、そのうちのひとつだ。物にラインを結びつけるときの一般的な結び方らしい。しっかり結び付けられるうえに外すのが簡単だから、初心者はまず覚えておくと良いそうだ」

「ほぇあー」


 元気の顔がチワワから、パグになる。

 頷いてはいるが視線の向いている先がわからない。恐らく理解していないだろう、と思いつつ七海は竿の観察を続ける。


「このウキはラインに通すタイプのやつだな。その下にある金具は、ラインとラインを繋ぐ接続具の丸カンか。丸カンの上下のラインの結び方はユニノット。真結びの輪に何回も糸を通すような結び方で、これも簡単だけどほどけにくい。これなら元気でもできるんじゃないか?」

「ほんと? でもさっきのと違いがわかんないんだけど。あ、ハリの所も同じ結び方!」


 自分にもできる、と言われて元気の意識が現実に帰ってきた。

 七海が指さすあたりをしげしげと眺め、うれしそうに言うけれど。

 

「よく見ろ、ちょっと違う」


 あっさり否定されてしまった。

 見えづらいのか、と七海はハリをつまんで元気の目の前にかざして、ペンライトを真横から当ててやる。


「ハリは丸カンと違って真っすぐな箇所に結び付ける必要がある。だからハリの根元にラインを巻くようにして結びつける、内がけ結びになってるだろ」

「うん……? そう、なのか……? そう言われれば違うような気もしなくもないような気もするような、どうなんだろう……」


 もごもごとつぶやく元気をよそに、七海はラインの上から下までを改めて見つめた。


「この竿一本で、すでに三種類の結び方があるわけだ。元気のじいちゃんはきっとさくさく結びつけていったんだろう。ああ、俺も隣で眺めていたかった」

「じいちゃんすごかったんだ。俺、ひとつも覚えられる気がしないや」


 感心しつつあらためて見たところで、やっぱり元気には三つの結び方の違いがわからない。

 いやこれは薄暗いなかで見ているからだ、家に帰って電灯の下でようく見ればきっと違いもわかるはず、と自分をなぐさめる元気の横で、七海は持ってきたビニールポーチを開いて準備をはじめた。


「まずはグリップのリールシートにリールをはめて」


 取りだした竿は元気の物と同じように短く縮められている。伸ばさないまま、七海は竿の持ち手にリールをはめ込んだ。はじめからナイロンのラインが巻かれた、初心者にうれしい一品である。


「え、なにそれ。俺のと違う! 俺もリールぐるぐるしたい!」


 魚釣りといえばリールをぐるぐる巻くもの。そう思っている元気の視線には目もくれず、七海は手元に集中したまま口だけで答える。


「俺のはリール竿。初心者用のセットで値段が手ごろで評価も良かったんだよ。元気のは延べ竿っていってリールをつける場所がないから、いくら騒いでも貸せないぞ」


 言われて、元気が自分の竿の持ち手をさすれば、たしかに七海の竿にはある溝のようなものがない。


「ちぇー」

「自分でライン通して仕掛けの準備ができるなら、交換してやろうか?」


 口を尖らせた元気に、七海がにやりと笑う。

 ちょうど、縮めたままの竿に並ぶ丸い輪、ガイドにリールから引き出したラインを通しながらのお誘いだ。

 膝で竿を挟み、左手でガイドの向きをそろえつつ右手でラインを通していくその動作に、元気は「うっ」とひるむ。


「無理ぃ……」

「なら今回はおとなしく延べ竿つかってろ。で、次回があるならじいちゃんに教わってリールをセットできるようになって来い」

「ふあ~い。ていうか、七海、経験者だったの?」


 喋りながらも七海の指先は器用にラインを通し終え、流れるようなしぐさでラインの先に仕掛けをつけていく。その一連の動きのスムーズさに、元気は感嘆の声をあげた。


「いいや、ネットで見てきただけだ。結び方は何回か練習してきたが、覚えればまあそこまで難しいもんでもないしな。それに、今回は完成した仕掛けを結びつけるだけだから、大したことはしていない」


 元気と同じく初心者なハズの七海があれこれと詳しかったのは、事前学習の結果だった。

 息抜きのためにも予習を欠かさないなんて、勤勉な七海らしいやと元気は納得する。


 さすが七海、と言わんばかりの元気の視線に、七海はもぞりと身じろいだ。


「ていうか、先に釣ってろよ。準備は終わってるんだろ」

「それもそうだな! 俺、アオムシが釣りに使えるなんて知らなかったよ」


 言いながら、元気は釣り具屋で渡された白いビニール袋をあさる。

 ごそりと取りだした透明なパックの中、乾いた土のようなものをくっつけて蠢くのは、鮮やかな緑が美しいイモムシ。ではなく。

「……なにこれ、怪獣の子ども?」

 つぶやく元気の目の前で、トゲの生えたミミズのような生き物がもぞりと動いた。

 全体的に茶色っぽい身体がやけにしなやかに、うねりまわる。仲間にぶつかると激しく身をくねらせるものだから、互いに絡まりあって不気味な団子のようなものがパックのそこかしこに発生していた。


「アオイソメ、だと思う。このへんじゃアオムシって呼ぶのか。ゴカイの仲間で一般的な釣り餌の、水棲生物だ」

「えぇ……キモォ……」


 言葉どおりの感情を隠しもしない元気の顔に笑いながら、七海は伸ばした竿を脇に挟んでパックを受け取った。躊躇なく開けるとひょいと指を伸ばす。土のかけらをくっつけたアオムシが、七海の指につままれて踊るようにうねうねと身をくねらせた。


 作り終えた仕掛けの先をつまみ、ハリでアオムシの身体をずぶりと刺す。刺されたアオムシはまだ元気よく動きまわっている。


「おお!」


 声をあげた元気が自分も、というようにいそいそとアオムシに手をのばした。むにゅりとした冷たい感触に「うへぇ」と元気がうめいたとき、七海が「そうそう」と楽しげに言う。


「そいつ、噛みつくこともあるらしいから、気をつけろ」

「へ? んぎゃっ」


 その瞬間、まさに狙ったかのようにアオムシが牙を剥いた。

 ちょうど伸びてきていた元気の指の先に、ちまりとぶつかる白い牙。


 痛くはないはずだが、驚いた元気は大げさに肩をはねさせた。

 元気の手からこぼれたパックを七海がすかさずキャッチする。


 こぼれることなく保たれたパックのなか、体のふちにヒダを生やしたミミズめいた生物が、つるりとした頭部から牙を剥きだしにしていた。

 ちっちゃな牙だ。

 けれど初対面で噛まれた、と思っている元気には、自分に食いついてやろうと狙う恐ろしいクリーチャーに見えていた。

 ほんの数センチの、クリーチャーだ。


「噛まれても怪我はしないらしいぞ。ほら、俺もう釣りはじめるから、自分でつけてみろよ」

「む、む、無理ぃ! ぜったいまた噛む!」


 おびえきった元気にくつくつと笑って、七海は元気のハリにクリーチャー(小)をつけてやるのだった。

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