夜釣り 二
夜の静けさと冷ややかさの中、公民館から自転車で進むこと数分。
はやくも眠りに着いた田舎町の一角に、明かりを灯した店がひとつ。
本日の目的地、ウオヨシ釣り具店だ。
色あせ、朽ちかけた立て看板に書かれた上手いのか下手なのか判断に困る筆文字が、ふたりを出迎えてくれた。
いつからあるのか、元気と七海の物心がついたころにはすでに、今と変わらぬ風情で建っていた釣具店。
二階建ての民家の一階部分を店舗に仕立て、道路に面した箇所はどこでも駐車場にしてくれと言わんばかりに解放感のあるつくりをしている。
とはいえ、一度に停められる車はせいぜい三台がいいところ。
店の裏側を囲うように生えた竹が伸び放題に伸び、だんだんと敷地を侵略しつつある。店舗入り口のガラス扉には古いものから新しいものまで、貼り付けられた広告が層をなして、店のなかはうかがえない。
すき間から漏れる光があるため、かろうじて営業しているとわかるほど。
その光も頼りなく、店の前に並ぶ二台の自動販売機のほうがよほど明るく見える始末。
夜の闇に紛れてわかりづらいが、昼間であれば潮風になぶられて色あせた木の壁が見えただろう。
パッと見ても、よく見てもボロい店というのが近隣住民の総意だ。
「……こんなところに、本当にきれいなお姉さんがいるの?」
店の前の駐車場に自転車を停め、元気は思わずつぶやいた。
昼間でも古めかしく見える建物は、夜の闇をまとってますます只者ではない雰囲気満載になっている。
およそ美女とは縁がなさそうで、むしろ山姥や狐狸、妖怪の住処と言われたほうがしっくりくる。
「いる。らしい」
「らしいって。そもそも七海は、どこでお姉さん情報をゲットしたんだよ。俺、はじめて聞いたよ」
なんとも不安な七海の返事に元気は首をかしげた。
長い付きあいだけれど、女性情報をゲットするのはいつも元気だった。元気が聞きつけた噂を確かめるため、七海を引っ張ってあちこちへ向かうのが常であったのに。
「塾」
「へえ! 塾でそんな話するやつできたんだ」
めずらしさと、親友に友人が増えた喜びとで元気の声が弾むけれど、七海はあっさり首を横に振る。
「いいや。休憩時間の暇つぶしにスマホいじってたら、地元の釣り師ブログにたどりついた」
「おう」
きっと七海のことだから、むやみと話しかけられるのを嫌って、休み時間になるや否やスマホと見つめ合っていたのだろう。
数多の女子からの視線と、いくらかは男子からの視線も集めつつ、すべてを無視する七海の横顔は、きっと大変クールで麗しく、話しかけるなオーラに満ちていたはずだ。
元気にはその図が易々と想像できた。
小学校でも中学校でも、教室に戻るたび何度も見かけた光景だったから。
だから、今日の夜遊びは元気を呼び出す口実でしかないことも、よくわかっていた。
「七海、塾つらいの?」
「……別に。ただちょっと、Sクラスに入れなかった自分に腹が立っただけだ」
「いちばん上のクラス? 七海がいるのは」
「A。Sのひとつ下」
ぶすりと不機嫌な顔で七海が言うのに、元気の顔は正反対に明るくなる。
「すげえじゃん!」
「すごくない。一番上じゃないと足りない」
「そっか。医学部って大変なんだなあ。じゃあ今日はばぁんとデカい魚釣って、すっきりしなきゃな」
言って、元気は七海の背を押して釣り具屋に向かう。必然的に店の入り口と向き合うこととなった七海は、釈然としない気持ちを抱えながらも、がたつく引き戸をがらりと開けた。
「いらっしゃいませ!」と明るく出迎えてくれるはずの美女はなく。
店の中央にひとつきりの電灯に照らされた店内には、誰もいなかった。
「あれ? 奥で休憩してるのかな」
肩透かしを食った元気は、七海の肩越しに無人の店内を見回す。
ひと気の無い店のなかには釣り具なのだろう、見慣れない不可思議な道具が壁と言わず棚と言わず、ごちゃごちゃと配置されていた。
そこここに立てかけられた竿や網の向こうには、魚を抱えた釣り人の写真がついたカレンダーや、潮見表とデカデカと書かれた紙。そして種々様々な種類の魚拓が貼られている。
魚拓はどれも黄ばんで紙の端が朽ちかけて、そのうえに新しい魚拓が重ねられている様は、魚の鱗のよう。
その魚拓の合間で、真新しいカレンダーや潮見表が蛍光灯の明かりを跳ね返す様は、濡れた鱗のようでもある。
「おおお、見れば見るほど不気味ぃ!」
なんとも言えない店内の雰囲気に気圧されて、元気の騒ぐ声もついつい小声になる。
そのせいか、どこかの暗がりにある時計の秒針の音がいやに耳につく。
「おぉ? 客か?」
そんな暗がりのなかからのっそりと姿を現したのは、小柄で小太りの中年男性だった。
不意の登場に「ぴえっ」と飛び上がった元気だったが、すぐに七海の肩をつかむ手から力を抜いた。なにせ、その中年男性は人に危機感を抱かせないような容姿と雰囲気をしていたからだ。
中年男性の頭頂部はまぶしいほどに禿げあがり、両耳の上にだけ残った髪の毛が黒々としている。
よほど癖毛なのだろう。残された髪の毛はもこもことボリューム満点に、丸く盛り上がっている。
「シルエットがパンダだ……」
「くっ……!」
思わずつぶやいた元気に、七海はたまらず噴き出した。
のそのそと暗がりからやってくる姿は、もはやパンダにしか見えない。
そうなると、丸まった背中も四足歩行の動物が無理をして立ち上がっているようにしか思えなくなるから、たまらない。
目を輝かせる元気のあごが乗る肩をぷるぷる震わせる七海。
明かりの下に出てきた中年パンダは、そんなふたりをじろじろ見て「ははぁん」となにやら合点する。
「マイちゃん目当てだろ」
「マイちゃん?」
きょとんとする元気に、中年パンダがやれやれと首を振った。
「しらばっくれんで良い。このところ、マイちゃん目当ての客ばっかで迷惑しとる。うちは釣り具屋なのに、どいつもこいつも店員目当てで買い物もせずうろうろと。せっかく春の朝まづめを楽しもうと思って雇ったのに、店員がかわいすぎるせいで店を任せられずに店主が夜番する羽目になるとは、本末転倒もいいとこよ」
ぶつぶつとこぼれる文句を聞いて、元気はへにょりと眉を下げる。
「なんだ、お姉さんいないのか……」
「はん、やっぱりお前らもマイちゃん目当てか。冷やかしなら帰った帰った! うちは釣り具屋、見世物屋じゃないんだ!」
しっし、と猫の子を追い払うように手を振る中年パンダに、七海の機嫌は急降下した。
大きく一歩を踏み出して、身長的にも心情的にも中年パンダを見下ろす位置に立つ。
「冷やかしだと、どこを見て判断したんです?」
口調こそ丁寧。だが、明らかに不機嫌全開の七海を前に、中年パンダは目を瞬かせる。
「そうだ、そうだ! 俺たち、ほんとに釣りに挑戦しにきたんだし! そりゃ、ちょっとはきれいなお姉さんが気になるけどさ……」
七海の生み出した重い空気を打ち壊すのは、肩から顔をのぞかせた元気だ。
本人としては七海の加勢をし、怒っているのだ、と主張しているつもりなのだろう。
ぎゅっと吊り上げた眉に怖さはなく、むくれさせた頬が子どもっぽさを引き立てているのだが。
ちぐはぐな印象を与えるふたりを交互に見た中年パンダは「ふうん?」と耳の上のこんもりした髪の毛をなでさする。
「よく見りゃ、釣り用のベスト着てるなあ。防寒も……後ろの坊主はちょっと間違えてる気もするけど、まあ、防寒できてるかどうかだけなら、問題ない。釣り道具は?」
態度をやや改めた中年パンダに、元気と七海は肩越しに視線をあわせてから向き直る。
「外、自転車のかごに置いてます。俺のはネットで買った初心者用セット。竿とリールと仕掛けが入ったやつ」
「俺はね、よくわかんないけど、じいちゃんが昔使ってたやつ一式、用意してもらった! 一通りそろえたから、あとはエサがあれば良いってじいちゃん言ってたよ」
持ってきた道具の内訳を伝える七海に続けて、にぱっと笑った元気が得意げに親指をつきだす。
「あー。超初心者ふたりか。お前ら、仕掛けつけられるのか?」
「一応、ネットで調べてはきたから」
「俺、無理! でもじいちゃんに家で結び付けてもらったから大丈夫!」
大丈夫とは。
七海と中年パンダは思わず同じ感想を抱くも、何も言わなかった。
「ふん。まあ、素直さに免じて虫エサくらい売ってやろう。いくら買う?」
背中を向けた中年パンダは、部屋の奥に戻ってごそごそと何かを探っている。
「ムシエサ? いくらかな、七海。俺、そんなにお小遣い持ってきてないんだけど」
「金ならそこそこ持ってるけど、さっぱりわからん」
やや抑えた声でのやりとりは、中年パンダの耳にしっかり届いていたらしい。
「何時間くらいするつもりだ」
暗がりから中年パンダが聞いてくる。
「えっと、十一時には家に帰るから、二時間くらい?」
「ああ、長くて二時間で切り上げます」
七海は愛想こそないけれど、決まりを破ることを嫌う。詳しく聞いたことはないけれど、破った結果、社会的にどう見られるかを気にしているのだろうと元気は思っている。
そんなわけで、夜十一時以降の高校生の夜間外出が条例で禁止されている以上、二人は十一時までに家に帰りつかなければならないのだ。
元気と七海の言葉に「ふうん」と気のない返事をひとつ、中年パンダがのそのそと出てくる。
呆れを隠しもしない顔の中年パンダは、手のひらに乗る大きさの白いビニール袋を突き出した。
「ほら、二人で五百円分もあれば十分だろう」
「安!」
「これは何です?」
元気が目を丸くする横で、七海が袋をじっと見る。
「アオムシ。よくある釣り餌だ」
「ちょうちょの幼虫? 魚ってそんなの食べるんだ」
へえー、と感心した様子の元気をよそに、中年パンダは七海から代金を受け取った。元気の勘違いについては訂正するのも面倒になったらしい。
「調べりゃ付け方もわかるだろ。詳しいことは調べるなり、その辺の釣りしてる奴に聞けばいい。俺は朝に向けて仮眠取るから、さっさと行った行った」
店の奥に戻ろうと踵を返した中年パンダの背中に、元気の声が「おじさんありがとう! おやすみなさい」とぶつかった。
がらりと引き戸の開く音に続いて、七海が「虫か……」とつぶやく声が遠ざかる。
嫌そうな響きの余韻を残し、引き戸が意外なほど静かに閉められた。
ふと、振り向いた釣り具屋の店主は、少年たちの気配の残骸に目をやり足を止めた。
「初心者ふたりで夜釣りか。悩み多き年頃、ってやつかねえ」
それにしても、やるからにはもう少し調べて来たらどうだ、と思いながら小さく笑った店主は、ふと天井を見上げる。
「あ、行かないほうが良い場所を教え忘れたな」
ぼやきとともに、店主の脳裏をよぎったのはいくつかの釣り場だ。
いつ行っても釣れるけれど、波をかぶる危険な岩場。消波ブロックに守られて安全だが、よほどうまく投げなければ針が障害物に引っかかって一投ごとに仕掛けを失くす堤防。
そして、一見問題が無さそうであるのに、釣り人が寄り付かない曰く付きの釣り場。
少年たちが自転車で来たと言っていたことを振り返り、店主は「一番近くて行きやすいのは曰く付きの場所、か」と思い至る。
もしもまだ彼らがいたならば、と店主が耳をすませてみるけれど、聞こえるのは時計の秒針が生真面目に働く音ばかり。
用事を済ませた者たちが、寂れた釣り具屋の前にいつまでもいるわけがない。
店主は自分でも気づかないほどわずかに肩を落とし、頭を振る。
「まあ、ジャケット着てるなら滅多なことにはならんだろ。二人いるし。二時間で帰るとも言っていた。なら、そんなに遅い時間じゃないから、まあ」
自身を安心させるようにぶつぶつとつぶやいて、店主は店の奥の暗がりへと引っ込んでいった。