夜釣り 一
――退屈すぎて死ぬんじゃないか。
布都元気は、見慣れすぎて意識したこともなかった自宅の居間の天井を見つめて、ぼんやりと思う。
中学を卒業し、高校生になろうという春休みは退屈でたまらなかった。
部活もない、宿題もない、恋人はもちろんおらず、頼みの綱の幼なじみは「俺、春休みは毎日塾だから」とあっさり元気を残して行ってしまった。
そうなると、元気は日々を持て余す。
映画館やゲームセンター、ファミレスがある市街地まで自転車で行くには遠く、バスに揺られていくにはひとりではつまらない。朝早くからバス乗り場に駆けていった姉について行っても良かったけれど、さすがに彼氏とのデートに随伴するほど、元気も無粋ではない。
両親は「今日も稼いでくるぜ」と仕事に出かけ、祖父母は畑仕事に精を出している。
放っておいても適当に何とかやれるお年ごろの元気に構ってくれるひとはいない。
放っておかれても困りはしない元気だが、退屈だけは持て余す。
海にほど近い田舎のこのあたりでは、刺激に飢えた男子高校生が楽しめる娯楽など転がっていなかった。
それゆえ、春休みに入って数日経った今日、元気は自身がたたみに転がるほかなかったのだ。転がったところで自宅の居間に娯楽など見当たらないけれど、ゲームにもマンガにも飽きた夕暮れ時。
全身にまわった気だるさに任せて、元気は居間の天井を見つめる。
――あー、天井の木目がだんだん人の顔に見えてきたなあ。めっちゃ叫んでるっぽい顔。あっちはおどろいてる顔。あれは怖がったるみたいに見える……。
あんまりにも暇で、元気はとうとう木目に人の顔を見つけて遊び出した。
ひとつ顔のように見えると思えば、次々と見つかる顔、顔、顔。たちまち居間の天井は阿鼻叫喚の見本市へと早変わり。
――ちびのころに気づいてたら、夜は通れなかっただろうなあ。
そんなことをぼんやりと考えて天井を見上げていた元気の上に、ふと、影が落ちる。
元気を逆さに見下ろすのは、眼鏡の幼なじみ七海秀才。元気より塾を選んだ薄情者である。
「なあ元気、美女に興味はないか」
「ある。ちょうある」
問いは唐突だった。
けれど元気は間髪入れずに答える。
迷いなどない。
七海がいつやってきたのかさえ気にも止めない。
どうせ家の裏の畑にいる祖父母が招き入れたのだろう、と確認もせず納得する。
塾に精を出して元気を放っておいたことへの苦言すらうっちゃった元気の真っ直ぐな眼差しを受けて、七海は満足気に眼鏡を押し上げる。
「なら今日、晩飯食ったら鷲巣公民館に集合な」
「鷲巣? 海行くの? 夜に? 寒いよ?」
寝転がったまま元気は首をかしげた。
七海の指定した鷲巣は、元気の家から自転車で三十分ほどの場所にある、海を臨む公民館だ。
すぐそばには海水浴場もあり、夏には毎日のように遊びに行く場所でもある。けれど今は春先、まだ泳ぐにも早いだろう。当然、水着のお姉さんも居ない。
海、イコール泳ぐ場所、という認識しかない元気の発言に、七海はにやりと笑った。
「海は泳ぐだけじゃないんだぜ」
「と言いますと?」
「釣りだよ」
「釣り」
耳慣れない言葉を聞いたかのように眉をあげた元気は、釣りをしたことがない。海のまあまあ近くに住んでいるからといって、釣りをしたことがないのに特別な理由はなかった。
単に機会も興味もなかったからしたことがない。それは幼なじみである七海も同様であったはずだが。
「鷲巣から海に出るまでの道に、釣り具屋があるだろ? あの釣り具屋にな、美人のお姉さんアルバイトが入ったってよ」
「ほう!」
うれしそうな声をあげた元気の耳に、身をかがめた七海がささやく。
「それでな、お姉さんは夜間バイトらしいんだ。だから、夜に釣り具屋に行けば、な?」
「夜のきれいなお姉さんと、お知り合いになれる……!?」
多感なお年頃の元気には、とても魅力的なお誘いだった。
なにせ娯楽の少ない田舎町である。
いっしょに過ごす彼女もおらず、七海のように塾に通っているわけでもない元気は、とにかく刺激に飢えていた。そして、きれいなお姉さんにもあこがれていた。
釣りをしたことが無いのなど、断る理由にはならない。
むしろこの一瞬で、元気の脳内では初心者の自分に手取り足取りやさしく釣りのことを教えてくれる、きれいなお姉さんの妄想が駆け巡っていた。多感なお年頃なのだ。
「ちょっと待ってて!」
夢と希望と妄想でいっぱいになった元気は、七海に告げて飛び起きると、手近な窓から顔を突き出し叫ぶ。
「じいちゃーん! 俺、夜、釣り行く! 七海といっしょ!」
「おー、気をつけて行けよー。道具はあるのかー?」
叫び返す声は家の裏の畑から聞こえてきた。窓から見える範囲に姿はない。
ずぼら加減が良く似た祖父と孫だな、と七海はすこし呆れている。
「道具……?」
きょとんとした顔で振り向く元気の頭ごしに、七海は窓から顔を出す。
「俺は持ってるけど、元気のぶんは無いですよー!」
「そしたら、じいちゃんの古いの適当に出しとくぞー。ヒデくんも足りないのあったら元気に持っていかせなー」
孫の元気への対応とまったく同じに、声が返ってくる。
その気やすさに七海はかすかに笑った。
「ありがとうございます、助かります!」
言って、首を引っ込めた七海が元気を見下ろす。
「じゃあ、夜に」
「おう! 夜に!」
※※※
時刻は八時半。
おだやかな春の日差しはとうに姿を消し、あたりはとっぷりと闇に沈んでいる。
昼間でさえまばらな車や人の姿は見当たらず、たいして広くもない道路はがらんとしていた。
ぽつりぽつりと等間隔に立つ街灯はたよりなく、うすぼけた明るさはむしろひと気のない通りのわびしさを引き立てているようだ。
そんな夜の静けさに沈む道路を元気は、通学用の自転車をせっせと漕いでいく。
背中には釣り竿が飛び出た大きなリュックサック。もこもこに着こんだ上下は、春先の海辺は寒いぞ、と祖父にさんざん脅された結果。さらに、あれもこれもと渡された装備を素直に身に着けた元気は、ごてごてとした恰好で夜道を進む。
ほんのりと上気した頬と期待に瞳をきらめかせた表情は、まるで明るい陽の下を行くかのごとく。
――ここを超えたら鷲巣公民館だ。鷲巣の釣り具屋にはお姉さんが……!
希望を胸に、元気が地味につらい丘を超えて公民館にたどりついたときには、七海はすでに待っていた。
色あせた公民館の壁に背を預け、無駄に長い脚を軽く交差させて何をするでもなく、ぼんやりと立っている。すぐそばにはシンプルな構造のロードバイクが立てかけてあった。
道路に面した街灯の明かりを受け、なかば闇に沈みかけた立ち姿が絵になるのは、姿勢が良いせいか、バランス良く伸びた手脚のせいか、はたまた切れ長の目と涼し気な顔立ちのせいか。
――ここが都会なら、女の子のひとりやふたりや三人ぐらいに声かけられてるんだろうなあ。
自転車のペダルから足を下ろした元気が、息を整えながらそんなことを思ったとき、七海がふと顔をあげた。
暗がりに元気の姿を見つけたのだろう。無表情だった七海がわずかに目を細める。
「元気、来たか」
「……俺の成長期はまだ終わっていない」
元気がついついうらみがましくつぶやいたのは、身長体重ともに平均ちょうどを記録する健康優良児であることとは関係がない。そして、元気の顔が同級生の女子たちから「小犬系だよね」と評されることとも関係がない。まったくないと言ったら、ないのである。
「成長期? お前、中三の春と冬とで身長が一ミリも変わってないって、騒いでただろ」
脈絡のない元気の言葉に、七海が首をかしげる。
無駄によろしい七海の記憶力は元気にクリーンヒットした。が、今日の元気はこんなことで倒れはしない。
「過去に縛られてちゃダメなんだよ、七海。希望はいつだって未来にあるんだから!」
身体測定があるまでは、本当に元気の成長が止まってしまったか否か、誰にもわかりはしないのである。
そして元気はもうひとつ、直近の未来に胸を膨らませていたため、心が折れたりしないのだ。
「いざ行こう! きれいなお姉さんの待つ、夜のお店へ!」
「いや、その前に」
自転車にまたがったまま拳を突き上げる元気を七海が制した。
「ちょっと自転車から降りてみろ」
「うん?」
「で、ちょっとこっちに立って」
元気は言われるまま素直に自転車を降り、スタンドを立てると七海の前にとことこ移動する。
「ゆっくり回って」
指示されたとおり、元気が回る。着ぶくれた腕で大きなリュックの肩ひもを持ち、バランスを崩さないように足踏みしながらぐるりと回る。
すっかりと着ぶくれた元気は前から見ると丸い。横から見ると丸いうえに背中の大きなリュックがまるでカメの甲羅のよう。後ろから見るとリュックに短い手足が生えたような形状をしていた。
そんな元気がゆっくりと一回転する間、じっくりと眺めていた七海は「あー……」となんとも言えない声を出す。
「雪山登山でも行くのか?」
「えっ。もう雪ないでしょ!」
打てば響いた、すっとんきょうな元気の声。
もう一度「あー……」とうめいた七海は、言葉を探しながら口にする。
「まず、その着ぶくれっぷりはなんだ」
「じいちゃんが寒いって言うから」
「寒いのは寒いが、せいぜい家から三十分の場所だぞ。スキーウェアを着こんでくる必要があったか?」
そう。「春の夜の海辺は寒い」と聞かされた元気は、箪笥の奥深くに眠っていた父親のスキーウェアを引っ張り出して着こんだのだ。
晴れ渡る空色の布地に南国のオレンジの花が上半身のいたるところに配置され、ズボンには明るい黄緑色の葉っぱで彩られた色鮮やかな上下セット。人でごった返す雪山で、遠くからでも一発で視認できる優れものだ。
防寒性に優れていて、防水性も多少ある。それなら釣りにぴったりだ! といそいそ着こんできたのだが。
「うん。正直、ちょっと暑い。いやでも、自転車降りてじっとしてたらちょうど良いからさ!」
問題ないよ、ときらきらの笑顔で告げる元気に七海は黙り込む。
スキーウェアの色に合わせたと思しき極彩色のマフラーと、オレンジと赤で構成された毛糸の帽子に触れるのは、なんだか馬鹿らしく思えたのだ。
ちなみに七海はタートルネックのセーターに撥水加工を施したジャンパーを羽織り、裏起毛のカーゴパンツを合わせている。
まとまりのある組み合わせによって、おしゃれ感やかっこよさが生まれることに、元気はまだ気が付かない。
「……わかった。お前が良いなら、それでいい。けどな」
言葉を切った七海は、元気を見つめる。
余談だが、中学校において七海の鉄面皮は有名であった。
朝から晩まで仏頂面を保ち、決して愛想笑いはせず。来る者拒まずのくせに、学年いちの美少女に告白されても笑いもせず。学校いちスタイルの良い女子にボディタッチされても、照れさえ見せない。
あまりの反応の薄さに、中学校時代だけでどれだけの女子が七海の元を去って行ったのか。
そんな七海の表情を、元気はいとも簡単に崩してしまう。
今もまさに、七海は困惑に満ちた表情で元気を見つめていた。
「お前その、ごついベストと反射材のたすきの組み合わせはどうなんだ……」
ど派手なスキーウェアの上を隠すように、ポケットだらけのベストを身に着けた元気。もこもこと着ぶくれたうえに着こんだベストに、さらに幅広の反射材を斜め掛けにした元気。
それはどこからどう見ても珍妙ないでたちだった。
「これ、七海のもあるんだよ」
いそいそと下ろしたリュックから元気が取りだしたのが、反射材で無かったことに七海はほっとした。
暗色の武骨なベストを受け取って、矯めつ眇めつ。
「なんか、やけに分厚いと思ったら微妙に硬いんだな。何が入ってるんだ?」
「これね、釣り用のベストなんだって。ライフジャケットにポケットつけた、釣りの必需品だってよ。硬いのは浮く素材が入ってるみたい。海に落ちても浮いてれば助かる確率上がるから、これだけは絶対に着ていけ、ってじいちゃんが。七海が用意してなかったら大変だからって、お古をふたつ出してくれたんだ」
元気の着ている物も七海が受け取った物も、擦れや痛みは見当たらず、お古というほど古めかしくはない。むしろ真新しさすら感じる。
元気と七海のために用意されたのではないか、と思う七海ではあったが、あれこれと言いたいことをぐっと飲み込んだ。
「そうか。有難く着るよ」
ただ、正直な気持ちだけを口にして、七海はベストを受け取った。