皷野奈津江という女性 その② とストーカー、その②
時間は少し遡る。
暑い。
日本は湿気が多いと聞いていたが、想像以上だ。男はシャツの襟をくつろげた。しかも夜になっているのに気温が全く下がらない。
それでもまだ、本格的な夏になっていないらしい。
男は物陰から、とある家の様子を伺っていた。どうしてそんなことをしているのかって? それが彼の仕事だから。
昼間、尾行していたところをターゲットに感づかれた。「貴方は尾行が下手だから気を付けて」と、アメリカを発つときに言われたことを思い出す。
髪の毛も染めた。目の色を隠すためにサングラスもかけた。日本人になりきったつもりだった。周囲に溶け込んでいる自信があったのに。
男が続けて家を見張っていると、少年が一人出てきた。昼間、街で彼を威嚇するように睨んできた人物だ。
用事がすんだら連絡するわと言ってる。用事とは何だろう。
少年がその場を去ってから、男はなぜか安心したようにほっとため息をつき、そしてそんな自分に憤慨した。相手は素人なのに何でプロの俺がほっとしなきゃいけねーんだと。
それからしばらくして。
また玄関が開いて、今度は少女と、中年の女性が飛び出してきた。どちらも焦っている。
二人は、かの少年が走り去った方向に向かって歩き出した。
――ちょ、まてまて、どこ行くんだ?
もう日も暮れてるのに、と男は舌打ちし、二人のあとを追いかけようとした、その時だった。
「もしもし、君、そこで何をしてるのかね?」
後ろから聞こえてきた日本語。ちなみに日本語は勉強してきている。仕事に必要だから。
男の背後にいたのは警察官だった。
「何をしているのかね。名前は? 住所は?」
――どうしよう。
これが日本の、ショクムシツモンとやらだ。これに逆らうと駄目だと男は教えられていた。そして返事もばっちり予習してきていた。おー、ワタシ日本語ワカリマセン、スミマセン。日本で困ったらこれでオケだと言われた。これを言ったら大抵の相手はどこかに行ってしまうと。道に迷った外国人だと思ってくれると。事実、目の前の警察官はそうなりつつあるようだった。険しい表情が困惑に変わっている。
それにしても暑い。男は警官の前で上着を脱いだ。その途端、警察官がパニック状態になった。なぜなら、男の上着の下は、ムキムキの筋肉……もとい、ホルスター付きの胸板だったからだ。銃がしっかりその中におさめられている。
銃刀法違反の現行犯で逮捕すると言われたが、何のことやら男にはさっぱりわからなかった。
「娘さんが目を覚まされましたよ」
看護婦に言われ、母である奈津江は突っ伏していた姿勢から身を起こした。いつの間にか眠っていたのだ。
張りつめていた気が緩んだせいかもしれない。
「智子」
奈津江から呼びかけられるも、娘は反応をしめさなかった。まるで人形のように横たわっている。
智子、と奈津江はもう一度呼びかけた。するとかすかに智子の口が動いた。
「……は?」
それは小さな声だった。でも奈津江にはなんと言ったのかわかった。
それはこう言っていた。和君は? と。
智子の息が荒くなってきた。和君は? ねえ、和君は? と、うわ言のように口走り始める。その声がだんだん大きくなり、やがて金切り声にまでなった。親の制止も効かない。看護婦が駆けつける。あまりにも暴れるその有様に、医師が鎮静剤を投与した。
「それにしても、大変な目にあわれましたね」
事情を知った医師の慰めの言葉に、奈津江は何も言わなかった。そんな彼女に、時間が解決してくれるのを待つしかありませんと医師は言い、何かあったらまた呼ぶように、そして入院も考えてくださいと言ってその場を去った。
「今のうちにお食事をとってこられては?」
看護婦の一人が声をかけてきた。何も召し上がっていないでしょうと。
「いえ、娘の傍についてます……もしまた何かあったら」
「何かあったらお知らせします。大丈夫ですよ。もう緊急の事態は脱しましたから」
看護婦の言葉に、奈津江は頷いて智子から離れた。何か腹に入れておかねばと彼女は思った。これからもっと、もっとひどいことが起きる可能性がある。その時に動けないのでは話にならない――。
売店には軽食が売られていたが、奈津江は結局何も買わなかった。彼女はため息交じりに売店を出ると、重い足取りで智子のいる病室に戻った。
途中、休憩スペースを通りすぎた。そこにはテレビが置いてあり、臨時ニュースが流れている。
和樹の家が映し出されている。
アナウンサーが興奮気味に喋っている。テレビを見ていた人たちがざわめいている。
奈津江は苦し気な表情で顏を伏せ、踵を返し……その場で凍り付くように立ち尽くした。
いつの間にか、後ろに娘が立っていたからだ。
智子の目は、テレビにくぎ付けになっていた。
やがてその瞳から、あとからあとから涙が伝い落ちはじめた。
泣き崩れる智子。それは大声ではなかったものの、母親にしがみつき、体を震わせて泣くその有様に、誰かが言いに行ったのだろう。看護婦や医師がやってきて智子を助け起こしてくれ、彼女は病室に戻された。
ベッドに横たえさせられると、智子は涙は止まらないものの、少し落ち着いたようだった。奈津江が、何か飲む?と聞くと、智子は消えそうな声で要らないと言った。そんな智子の頬は和樹の死からまだ数時間しかたっていないのにこけていた。点滴の針が細い腕に突き刺さっている。
だがそんな弱り切った智子の口から出てきたのは、意外にもこんな言葉だった。
「ゴメン……お母さん」
「何を謝るの」
「だって、お母さんに迷惑、かけたから」
ずっと抱きかかえてくれてたんだよねと智子は言った。ゴメンネと。
その言葉を聞いた時、奈津江の顔がまるで何かに引き裂かれたように歪んだ。
奈津江の唇が震える。その両ひざの上に置かれた手が、きつく握りしめられる。
その様はまるで、懺悔している人間のように見えた。
「お母さん?」
親の様子の変化を敏感に察した智子が身を起こした。やつれた顔が心配そうな表情を浮かべる。
奈津江はいつの間にか、娘に詫びていた。ごめんなさい、と。
どうしてお母さんが謝るのと聞く娘に、奈津江はただただ、詫び続けた。だって全部、私のせいだからと。
「そんな、どうして」
智子の指が、母の涙をぬぐった。お母さんのせいなんかじゃないと。
奈津江は言った。いや、私のせいだと。
彼女は泣きながら言った。和君は、貴方に間違えられたんだと。
「……間違えられたって、どういうこと?」
また明らかに動揺し始めた智子に、母親は言った。和君が住んでいたお家は前にわたしたちが住んでいたでしょう? だからと。
本当は、智子が殺されるところだったと。
「お母さん、何言ってるの?」
智子の顔色が青ざめ始めた。それは、つまり……。
「それってつまり、和君が、私の替わりに殺されたってこと? 何の話?」
「智子、落ち着いて聞いて」
奈津江は覚悟を決めたように娘を見た。いずれ話さねばならない。これからのことも含めて。
「いい事? よく聞いて。智子.貴方はね……」
奈津江が意を決して話し始めたころ。
病院に異変が起き始めていた。
誰も気づかなかった。だってささやかな異変だったから。
病院の警備員室。そこでは当直の警備員が詰めていた。彼は真面目な上に親切で知られていて、来院する患者にも評判がよかった。そして事実、その警備員は親切だった。
だから、困っている小さな女の子を見たら放っておけなかった。
「君、どうしたの!」
外をパトロールしていて見つけたその子は、うずくまって泣いていた。最初はなんか具合でも悪いのかと声をかけた警備員は、その子の手を見て仰天した。
指がない。
血にまみれた手が、汚れた包帯で巻かれている。
「こりゃいかん」
警備員はその子を抱きかかえ、警備員室に入れてやると、当直に使うベッドに寝かせ、内線で看護婦を呼び出した。急患ですと。
「年はおよそ十歳未満くらい。指を切断されています。事件性あり。警察に通報します。今すぐこちらにストレッチャーを寄越してください。ええ、意識はあります。外国人のようです。英語のできる方を誰か……」
警備員の声は心配でうわずっていた。早く何とかしてやらなければと。
だから背後で、何かがごそごそしてることに気付かなかった。
「さ、もう安心だよ。それにしても酷い目にあったね――」
そう言いつつ振り返った警備員の目が、まん丸に見開かれる。口があんぐりと開く。
人はとんでもない光景を目の当たりにすると、何も言えなくなる。今の彼の状態がそれだった。
がらがらがら、とストレッチャーが警備員室に向かう。
ちょうどそのころ。 バッと、警備員室の窓ガラスが、真っ赤に染まった。