皷野奈津江という女性。その①
皷野奈津江。年は四十半ば。
もうすでに申し述べたように、翻訳の仕事をしながら一人娘を育てている。
夫には早くに先立たれ、現在は独り身だ。
娘、智子が生まれた時、夫の実家と色々揉めたが、それ以来、女手一つで平和にやってきた。
今までは。
人は目で見たものを分析して、脳に伝える。が、それがあまりにも常軌を逸していると、反応が遅くなる時がある。今、智子がその状態だった。
血まみれの少女が無造作に持っている――と言うより髪を掴んでぶら下げている――和樹の頭部。その顔は薄暗い中にもかかわらずはっきりと見えた。智子の喉の奥から、何とも言えない嫌な呻きが聞こえてくる。やがてそれはつんざくような悲鳴に変わろうとしているのが明らかだった。
智子、静かに、静かにして。母親である奈津江の、智子の口にを塞く手に力がこもる。智子はついに激しく暴れ出し、その反動で親子そろって倒れてしまった。道路側ではなかったことだけが幸いだったが。
倒れた場所にゴミ箱が置いてあり、奇跡というか、それにぶつからなかった。ぶつかっていたら、派手な音を立てていただろう。
静かに、静かにして、しーっ、と何度も娘に囁き、奈津江は隠れ場所から和樹の家を伺った。
和樹の生首を持った少女は幽霊のような足取りで表に出てきていた。そして油の切れた人形のように、首を左右に動かす。
やがて少女はひどくノロノロとした動きで和樹の家の中に戻っていった。口の中で何かブツブツと呟きながら。
それを見た奈津江は全身から絞り出すようなため息をついた。
「今のうちに、ここを離れるわよ、智子」
母親の呼びかけに、娘は答えなかった。
「智子?」
いつの間にか、智子はぐったりしていた。瞳が、死んだ人間のように動かない。奈津江は娘の口に耳を当てた。息はしている。
だがだんだんそれも小さくなっていく。
「智子、智子!」
と、その時、智子の携帯が鳴り響いた。
震える奈津江の手が、智子の携帯を取り出す。そこには和樹からの着信とあった。
電話が鳴りやまない。
その時、和樹の家の玄関から物音が聞こえてきた。
途端、奈津江は、携帯を放り投げた。投げられた携帯は、彼女が期待していたほど遠くには飛ばなかった。
がらがらがら、と引き戸が開いた。
血まみれの少女が、また現れた。
どこで鳴ってる?
少女は、手にした携帯を見た。
一度切ってみた。すると鳴りやんだ。ああ、近くにいるんだ。
よかった。やっと仕事が終わる。少女はまた、電話をかけて見た。
少女は酔っぱらってるような足取りで、携帯が鳴り響く場所までやってきた。そして……。
また、ひどくノロノロとした仕草で、携帯を拾い上げた。
少女は、誰も持ち主のいないそれをしばらく眺めていたが、やがて思い切りそれを地面に叩きつけた。
ぎし、ぎし、と音が聞こえてくる。それは少女の歯ぎしりの音だった。ついで少女は両手を、何か見えないものを掴んで握りつぶすようなしぐさをした。きいー、っきいーっ、と軋む歯の間から、狂った楽器の様な声を漏らす。
少女は思った。探さなければ。探して、仕事をしなければ。そうしないと……。
と、その時だった。
車のエンジン音が聞こえてきた。ライトの光が少女の方に迫ってくる。それを見た少女はアブラムシのように、物陰に隠れた。
動かない娘を引きずり、奈津江は出来るだけ現場から遠ざかった。そしてタクシーを呼んだ。他に方法を思いつかなかった。
こんな場合は警察では? と思われるかも知れないが、彼女には、警察に連絡してもすぐに来てくれない確信があった。
タクシーが来る数分間が数時間に感じられる。今いる場所から、携帯を投げ捨てた場所を覗き見る奈津江の額から脂汗が流れ落ちる。
やがて車のライトが近づいてきた。タクシーが来た。運転手は智子の容態を見て仰天し、救急車を呼んだ方がいいと言ってくれたが、それだけはやめてくれと奈津江は言った。それより早くここから遠ざかってくれと。
運転手に手伝ってもらいながら、人形のようになってしまった娘をタクシーに乗せる。病院に急いでもらいながら、奈津江は時折後ろを振り返った。
「大丈夫ですか? 娘さん」
運転手が言う。
「あ、はい、大丈夫です」
本当は大丈夫じゃない。智子の呼吸はますます小さくなりつつつある。
それを見た運転手は、無線で、すぐ見てくれそうな病院を探してくれと仲間に頼んだ。
幸い、すぐ近くの病院が開いていてた。運転手が病院に電話を入れてくれ、急患だと告げると、夜間救急の窓口に回ってくれとの連絡があった。
タクシーが病院に着くと、すぐにストレッチャーが待ち構えていた。医師らが、母親から娘を受け取る。看護師らが何やら専門用語を連発し、智子のバイタルを調べる。
「あの、あの、娘は」
「大丈夫です、ショック症状を起こしてるだけです」
胸をなでおろす奈津江に、医師が、一体何があったんですかと尋ねた。
「こんなにショックを起こすことは珍しいんですが、何かありましたか?」
「あ、あの、はい、それは」
口ごもる奈津江に、医師は話したくなった時でいいですよと言い、智子の治療のために離れていった。
片付けなきゃ。
少女は死体をひとまとめにした。血でぬれた廊下を、その家にあった衣類で適当にぬぐった。今から来る男が滑って転びでもしたら一大事だからだ。
あれから少女は和樹の家にいったん戻った。というのも、なぜか周囲に人がワラワラ湧いてきたからだ。
理由は、血の臭いだった。人がそれだけ殺され、初夏の温度で腐敗が始まると、その臭気があたりに漂い始めたのである。しかも臭いは血だけではない。死体の排泄物も混じっている。
どうやらそれが、和樹の家かららしいと周りが気づきはじめ、人だかりができ始めていた。中にはインタフォンを鳴らす者も出始めた。
と、そこにサイレンの音が接近してきた。誰かが呼んだらしい。
パトカーが止まる。人々が顔を見合わせ、一体何があったのかと話し合う中、パトカーのドアが開いた。
警察官が来てくれた、とほっとする人々の視線が、そこに集中する。が、次の瞬間。皆の表情が一気に胡散臭そうなそれに変わった。
――なんだあれ。
どの人間の表情もそう語っていた。なぜなら、パトカーから降りてきた男は、警察官ではなかったからだ。
恐ろしく高い背。そしてその背中に豊かに波打つ銀髪。高そうなヴェストとズボンといういで立ち。
警官というよりは英国の貴族の館に従事する、執事のようだとでも言ったらいいだろうか。
日本人ではないことは明らかだった。色が抜けるように白い。顔の彫りが深く、そして目も黒くない。
その男の次に、普通の警官が降りて来て、人々をその場から追い払った。
野次馬がいなくなるのを確認すると、その白人の男は警官に待っているように伝え、和樹の家の中に入っていった。
「フランチェスカ」
銀髪の男は、入るなりそう言った。少女がビクッと身をすくませる。
少女……フランチェスカはまるでネズミの様な表情で男を見上げた。
銀髪の男は、ゆっくりと玄関から家に上がり、各部屋を見て回った。まるで検証するかのように。やがて彼は二階に上がり、部屋の中を見渡すと、下に向かってこう言った。
「フランチェスカ」
名前だけしか呼ばないが、それはコチラに来いと言う無言の圧が入っていた。
フランチェスカが、フラフラと階段を上がる。ネズミの様な表情を浮かべたまま。
二階には、他の死体よりも念入りに切り刻まれた和樹の体が横たわっていた。
「フランチェスカ。私は言ったはずです。ターゲットは女性だと」
ぎろり、と銀髪の男の目が、少女を見下ろす。ひっ、と少女は悲鳴に近い声を上げた。
「これのどこが、女に見えるのです?」
そう言いつつ、銀髪の男はフランチェスカの髪を、ゆっくりと、しかし強くつかんだ。
「や、やめて」
「さあ、言いなさい。これのどこが女に見えるのです!」
掴まれた髪ごと、少女は男につるし上げられた。いたい、いたい、やめてと叫ぶ少女に、男は優し気に、囁くように言った。
「今月に入ってこれで四度目。貴方の失敗は四度目です。失敗するたびにこちらで処理せねばならないことが増えるのです。分かっていますね? フランチェスカ」
は、はい、はい、はい、と壊れたスピーカーのように少女が言う。
「これからはもう二度と失敗はしないように。分かりましたか?」
変わらず優し気に男はそう言い、少女の掴んでいた髪を離した。
外で待っている警官たちは時計を見た。中に入ってもう、一時間が経過している。
何かあったのだろうか。
ちなみに、その銀髪の男は警察からVIPの待遇を受けている。何かあったら責任重大なのは間違いない。
用事が済むまで中に入るなと言われていたが、どうしたものかと仲間内で彼らが相談していたところ、和樹の家の引き戸が開いた。
さっきの銀髪の男が、少女を一人抱きかかえている。その姿を見た警官たちは驚愕した。
少女はヒーヒー泣いていた。両手の指から血を流して。
少女には指が無かった。
銀髪の男は優雅とさえ思える口調で言った。パトカーをお借りしますよと。
唖然とする警官たちをしり目に、銀髪の男と少女をのせたパトカーは現場を後にしたのだった。