皷野智子と言う少女、その② とストーカー
「とーもー、早くしろよー」
次の日の早朝。和樹が待つ玄関先に、智子はバタバタと急いだ。
「ほら、和君待たせたら悪いわよ。早く」
母親が急かす。分かっていると智子は言い、足を突っ込むように靴を履いた。
智子が外に出ると、同じ学校の生徒が表の道を歩いていた。その中にはクラスメートもいて、智子の家の玄関先にいる和樹と、智子の姿をちらちら見ながら通り過ぎていった。
智子の足が止まる。何やってんだよ行こうぜと和樹が言うのへ、智子は言った。先に行っててと。
「なんでぇ?」
「だって」
もじもじしている智子の腕が、和樹に強く引っ張られた。
授業中、和樹は教師から飛んでくるチョークをものともせずに爆睡していた。なんでも夕べ遅くまで起きてくれていたらしい。警戒してくれていたのだろう。
和樹は犯人捕まるまで泊まりこんでやるからと言ってくれて、それは智子にとって本当に有り難いことだった。前の話でも述べたが、世帯に女性しかいないのは防犯の面でかなり危なく、それに智子の母親は持病を抱えていて、いざという時のことも考えると、和樹の存在は有り難かった。
ただ。
智子は深くため息をついた。朝からずっと視線が突き刺さるのを感じていたからだ。それに加えてヒソヒソ話も聞こえていた。そもそも聞こえていたからヒソヒソ話ではないかも知れないが。
学校が終わり、部活動で遅くなる和樹より先に帰宅した智子は、取りあえず買い物を済ませることにした。母親が、近所の方からお肉頂いたわよと言ってきたので、和樹の好物のすき焼きをつくることに決めた。
商店街に向かう途中で智子はクラスメートとすれ違った。適当に挨拶し通り過ぎようとする智子の耳に、あの子、郷田君と付き合ってんだって。と話す声が聞こえてきた。智子が振り返ると、明らかに好意的ではない目が彼女を見ていた。
智子は振り返るのをやめて前を向いた。その顔は少し影が差していた。彼女は目元をゴシゴシとぬぐうと早足で歩き始めた。
夕暮れ時で商店街は混雑していた。智子は八百屋で新鮮な野菜を買い込み、他の店をのぞいた。デザートにスイカでもつけてあげようかな。でもそれだと予算オーバーになっちゃうよねと智子は考えつつ、商店街をぶらぶらした。
「おや、智子ちゃんじゃないの」
知り合いの果物屋の店主から声をかけられ、店先に足を止めた智子は綺麗な色に熟した柑橘系の果物を買い込んだ。すると店主が、ちょっと待ってと言って店の奥から、形が悪いんだけどと言いつつ、スイカを持ってきてくれた。
「ほら、持って行きな」
「そんな、悪いです」
「いーからいーから」
スイカを持って行きやすいように網目の袋に入れながら店主は、最近あまり見ないけど、お母さんは元気? と聞いてきた。
「あ、はい。おかげさまで」
「そう、良かったわ、ねえところで智子ちゃん、あの人、智子ちゃんのお知り合い?」
それは、いきなりだった。
果物屋の主人が、声を潜めて智子にそう言ってきたのだ。
え? と智子は振り返ろうとして、店主に止められた。
「なんか、外国の人みたいなんだけどずっと智子ちゃんのこと見てるみたいで」
こっちに来て、と店主は店の中に智子を入れた。
品物を選ぶふりをして見るといいよと言ってくれた店主に、智子は礼を言いつつ、こっそりとそちらを盗み見る。
その人物は、智子が電車の中で見かけた、あの外国人だった。
「なあトモ、俺んちに来る?」
商店街からの帰り道、和樹は後ろを威嚇するように振り返りつつそう言ってきた。
店主の勧めで智子は迎えに来てもらった。和樹に連絡したのだ。まだ部活の途中だったにもかかわらず、和樹は飛んできてくれた。外国人はまだウロウロしていて、ちらちらとこちらを伺っていた。
迎えに来た和樹は血相を変えていた。
「なんならおばさんと一緒にさ。俺んちに来なよ」
「で、でも」
とまどう智子に、和樹は何かあってからじゃ遅いんだぜと言い、うちに来いと力説した。
家に帰る道すがら、智子は後ろを振り返った。どうやらついて来ている様子はなさそうである。
がしかし、電車で見かけた相手が、次の日には自分の家の近所に出没し、しかもこちらを見ていた。それに例の事件もある。
いったん智子の家に落ちつくと、和樹は自宅に電話し母親に事情を説明した。和樹の母親はすぐに快諾してくれたが、
「でも、いきなり他人が二人もお邪魔したら」
そう言う智子の母親に、和樹の母は気にしないでと豪胆に笑って言った。
「うちは男所帯で、何にも気を使う必要はありませんから」
それにうちには男が旦那を入れて六人もいるから、大船に乗ったつもりでと言われ、渋っていた智子の母親も和樹の家に行くことを承諾した。
ところで、和樹の家は昔、智子が住んでいた。だから時々、智子達あての郵便物が間違って和樹の家に届くことがある。
元々、智子の母親の持ち家だった。幼馴染の和樹の母が、子だくさんで家が狭いと困っているのを見て、安い値段で譲り、智子たちは今住んでいる安いアパートに移ったのだ。
「もともとは奥さんの家なんですから、ご遠慮なくいらしてくださいな」
私も智子ちゃんと一緒に居られたらうれしいですしと和樹の母は言い、和樹に、いったん戻って部屋を片付けるようにと言い付けた。
「片付けたら連絡するから」
和樹はそう言って智子の家を後にした。
息子が家に帰ってきて、慌ただしく掃除機をかける音が二階から聞こえてくる。和樹の母親は冷凍庫からカレーを引っ張り出し、鍋にあけて温め始めた。
「ちょ、オフクロ、もしかして今日、カレー?」
カレーの匂いを嗅ぎつけた和樹が、部屋のふすまを開けて顔を出した。
「そうだけどそれがどうかしたのかい?」
下から母親が怒鳴るように言うのへ、こないだもカレーだったじゃんかよと和樹。
いい加減食い飽きたとの息子の声に、文句言うなら食うなと母親は言い、冷蔵庫からこれまた大量のキャベツの千切りを取り出した。
「なー、カレーにすんならサラダにはレタスとかトマトとか入れてほしいんだけどオフクロ」
掃除機の音に負けじと声を張り上げる和樹に、贅沢言うんじゃないと母親。
てことはまたキャベツかよ、俺ウサギじゃねーんだから。ゲンナリする和樹の声。てーかせっかく今日はすき焼きにするって言ってくれたのに、なんでこうなるとブツブツ言う和樹の声に混じって、かすかに玄関から声が聞こえてきた。
母親が、調理の手を止める。誰かが玄関先にいる?
「オフクロ―、誰か来てるよー」
居間から、くつろいでいる上の息子たちの声。分かってんなら出てよと和樹の母親は手ぬぐいで汚れた手をふきつつ、玄関に向かった。
引き戸はガラスになっていて、外に立っている人物の姿がうっすらと見える。どうやらまだ子供のようである。背が低く、雰囲気からしてドレスのようなものを身にまとっているらしい。
「?」
なんだろう。和樹の母親が戸惑っていると、どんどんどん、とその人物は扉を叩きはじめた。その叩く音はかなり強く、引き戸が割れるかと思われるほどだった。
「ちょっと待って、今開けますから」
和樹の母親の手が、引き戸のカギを開けた。
和樹からの連絡を待っていた智子は、時計を見た。
それまで智子も家の片づけをしていたから、あまり気にもしなかったが、ちょっと連絡が遅いことに心配し始めていた。
「何かあったのかしら」
時計を見る母親の声が硬い。部屋の掃除をすると言ったって、そんなに時間がかかるだろうか。
「和君に電話してみる」
智子が携帯からかけてみる。が、でない。二人は顔を見合わせた。
「私、ちょっと様子見てくる」
「まって、お母さんも一緒に行くわ」
智子は和樹の家の固定電話にかけてみた。だが誰も出ない。用事の邪魔をしては悪いと、連絡せずいた智子らだったが……。
和樹の家は、智子の家から歩いて十分くらいの距離で、付近は普通の住宅街だった。和樹の家に行く途中、智子は黄色いテープが張ってある場所を通り過ぎた。
――そう言えば事件現場、この近くだった。
和樹が言っていたことをいまさら思い出す智子。
智子の指先がすうっと冷えた。いやまさか、そんなことはない。だって和樹の家は男がいる。いくら何でも、そんな大男相手に何かするわけにもいくまい。
昔乍らの下町の、細い私道のつき当りに和樹の家の入り口がある。見え始めた和樹の家は真っ暗だった。明かりもともっていない。
智子の息があがる。彼女の気づかぬうちに、目には涙がにじめ始めていた。
智子の足が速くなる。ちょっと待ってと母親の声が後ろから聞こえてくる。その時だった。
がらがら、と引き戸の開く音が聞こえてきた。それは和樹の家の玄関だった。智子は目を凝らした。確かに動いている。
ほっとする智子の足が走るのを止め、だんだんゆっくりとなり、やがてとまった。安堵の汗がどっと智子の体から噴き出す。多分和樹が出てきたのだと智子は思い――和樹に違いないとしか智子には思えなかった――彼女は弾む息をなんとか整えた。ここまで結構走ってきたからだ。だが。
名前を呼ぼうとした次の瞬間、智子は腕を引っ張られ、物陰に引きずり込まれた。
「お、お母さん?」
震える智子の口を、母親がもっと震える手で押さえる。
静かに、と母親が声を殺して言う。智子は母親が見ている視線の先を追った。それは和樹の家の玄関だった。そこには、血まみれの一人の少女……しかも金髪の少女が、手に何か掴んで立っている姿があった。
少女はその手に、たくさんの毛糸が付いたボールのようなものを握っていた。それは和樹の生首だった。