皷野智子という少女
運動は苦手だった。とくに器械体操は。
――どうしてこんなのがあるんだろう。
智子は恨めし気に目の前の跳び箱を睨んだ。
ぴ、と教師が笛を吹く。智子はもうヤケクソ気味で走った。ぐんぐん智子の視界に近づく跳び箱。それに手をついて飛ぶ。簡単な話だ。でも智子がやるとどうしてもこうなってしまう。跳び箱に激突してしまうのである。
どうしてそうなる、普通に手をついて飛べばいいだけではないかと思われるだろうが、人にはどうしても出来ないものがある。
特に太ってるわけでもない。痩せすぎなくらいの体の彼女。別に目が悪いわけでもない。それなのに。
「跳び箱六段なんて、小学生でも飛べるわよ皷野さん」
体育の教師からそう言われ、智子はとぼとぼと、まだ飛べてないグループの中に戻る。そこには智子以外、誰もいなかった。
――家庭科は得意なんだけどなぁ。
体育の時間は結局飛べずに終わった。次はちょっと練習してねと教師から言われた智子だったが、実は練習していた。幼馴染の和樹に教えてもらいながら。
智子の母親は翻訳の仕事に就いていて、仕事で忙しい母の代わりに家事全般を取り仕切っているためか、必然的に得意科目は家庭科になっていた。どれほど得意かと言われたら、魚を三枚におろすことも簡単にやってのけるほどだ。和樹からもお前の料理は天下一品だと言われている。まあこれは多少のリップサービスは入っているだろうが。
裁縫だって得意だ。和樹と出かける時に着る服なんかはいつも自分で作る智子である。
が、今のところ、彼女にとって目下の急務である跳び箱が飛べるようになるためには、これらのスキルは何の役にも立たない。
今年十六の花の高校生。皷野智子の前途は多難であった。
智子が思い悩んでいる間に午前中の授業が終わり、チャイムが鳴った。やっと昼休み。大勢の生徒が待ちかねたように教室を飛び出した。教師が教材を片付けながら、レポートをいついつまでに出すようにと声をかける。
机をくっつけて弁当を広げ合う生徒もいる中、智子はというと鞄から大きな巾着を取り出していた。智子一人分にしては大きいその中には、弁当が二つ入っていた。
智子はその巾着を抱え、教室を出ると中庭に向かった。中庭にも沢山の生徒らが昼食をとっている。智子はきょろきょろとあたりを見回した。誰かを探しているようだ。
「おーい、トモ、こっちこっち」
木陰のペンチで、智子に手を振る男子学生がいた。智子はいそいそとその男の子の処に走り寄った。
「ごめん、和君、遅くなって」
まった? と聞く智子に、俺も今来たところだからと相手は言った。彼は智子の幼馴染で郷田和樹と言い、隣のクラスだった。
二人は並んでベンチに腰掛けた。智子が巾着から弁当を取り出して大きい方を和樹に渡すと、和樹はさっそくふたを開けた。
「うおっ、すげー、めっちゃ豪華じゃん!」
和樹が歓声を上げる。弁当の中身は本当に豪華だった。いろんなおかずがぎっしり詰められている。和樹はさっそく嬉しそうに旺盛に箸を動かした。
「味、どう? おかしくない?」
恐る恐る聞く智子。和樹はサムズアップしてみせた。美味いぜと。智子はホッとして自分の弁当の蓋を開けた。
二人はしばらく食べることに専念した。ことに和樹の食欲はさすが食べ盛りの男子だけあつて胸がすくような健啖ぶりだった。みるみる中身が減っていく。
「朝からこんなにつくるの、大変だったんじゃね?」
口をムグムグさせつつ和樹が言うと、智子はこくんと頷いた。和樹の箸が止まる。
「大変だったら弁当、別にいいからさ。トモ」
そう言う和樹に、智子は言った。これはお礼だからと。
「何だよ、それどういう意味だ?」
怪訝そうに聞き返す和樹に、智子は慌てて言った。跳び箱の特訓に付き合ってくれたじゃないと。
「ああ、あんなことくらい」
どうってことねえよと和樹は肩を軽くゆすり、また食べ始めた。
「てか、お前、食わねえの?」
智子はあまり箸がすすんでいなかった。どっかぐあいでもわりぃのかと聞く和樹に智子は首をふった。和樹の目が、智子の表情を探るように見る。
「なんか元気ねえな。どうしたんだよ」
「そんなことないよ」
元気元気と笑う智子に、和樹は顔をしかめた。なんだよそれと。
「いつものトモじゃねーじゃん。どうしたんだよ」
白状しろ、と言わんばかりに和樹は智子に顏を近づけた。
「ちょっと、和君、近いよ」
「おら、言え。どうしたんだよ。言わないとチューすんぞ」
「バカ言わないでもう」
智子は真っ赤になって和樹を押し返した。俺のチューは嫌なのかと半ば本気のような顔をする幼馴染に、智子は思わずと言った感じで吹きだした。それを見た和樹は、やっと笑ったと言ってまた食べ始めた。
和樹のその言葉に、智子ははっとしたような顔で幼馴染の横顔を見た。
しばしの時間が流れる。ややあって智子はつぶやくように和樹に話しかけた。
「ねえ、和君」
「何?」
「……なんでもない」
そう言って智子はようやく箸を進め始めた。その顔は心なしか、安心しているかのように見えた。
昼休みが終わってそれぞれの教室に引き上げる時、和樹は智子に言った。明日から弁当いらねと。
「学食行こうぜ。そのほーがトモも楽だろ?」
「でも」
「でもも何もねーの。お前は、俺の言うこと聞いてりゃそれでいいんだよ。分かったか?」
いささか乱暴な物言いを残して自分の教室に返っていく和樹。その後ろ姿を見送りながら智子は思った。和樹にはいつも、自分が思ってることを見透かされる。
人と話すことが苦手な智子は入学からこっち友達が一人も出来ず、ランチも一人でとっていた。そんな彼女に和樹が声をかけたのだ。一緒に飯食おうぜと。豪華な弁当はそのお礼だった。和樹は友達も多いのにわざわざ自分みたいな陰キャに付き合ってくれるのだからと、朝から頑張ったのだ。
「皷野さーん、頼んでたの、出来た?」
教室に戻り、一人そんな物思いにふけっていた智子の処に、クラスメートの女子がやって来た。ちなみに午後の授業は家庭科で、智子はそのクラスメートから、宿題のエプロンを頼まれていた。
うん、出来たよと智子は言い、鞄からそれをとりだした。結構可愛く仕上がっている。それは受け取ったクラスメートもそう思ったようで、エプロンを広げて嬉しそうに智子に言った。
「わー、ありがとー! お礼したいなぁ、何がいい?」
クラスメートの言葉に、智子は笑って言った。お礼なんかいいよと。
始業の鐘が鳴る。課題を受け取ったそのクラスメートは喜々として自分の机に戻った。すると智子の隣の子が、ヒソヒソ声で話しかけてきた。
「皷野さん、あんな奴の宿題なんかやったげたの?」
うん、という智子に隣の子は言った。ばっかじゃないのと。
「あいつがアンタのこと陰でいろいろ言ってるの知らないの? 何やらせてもグズだって。こないだだって――」
「だ、だって私がグズなのは事実だし」
「だからって、笑いものにしていいことにはならないじゃない。皷野さん、お人よしすぎるんだよ」
お人よしだなんて、私そんないい人じゃないよと照れながら言う智子に相手は言った。
「バカじゃないのアンタ。これ褒め言葉じゃないわよ」と。
帰りの電車の中、ドアにもたれながら、智子はクラスメートから言われた言葉を反芻していた。
褒め言葉じゃないわよと。
そんなことは分かってる。いいように使われてることも分かってる。でも自分の存在価値ってそれしかない。
そこにいていいと言われるための値打ちが、自分にはそれしかない。こんなことを言ったら和樹は怒るだろうがと智子は思った。でも仕方ない。事実なのだから。
そんなことより、今日の献立を考えようと智子は思った。車窓から見える街並みが、夏の西日でてらてら光っている。智子はなぜか鯖を連想してしまった。そう言えばしばらく魚を食べていない。
智子の近くに座っている、主婦らしい人が持っていた袋の中に魚が入っていた。よし、今日は鯖で決まりだ。確か近くのスーパーで特価だったはずだ。それに残っている煮物をつけて、おひたしを付けて。
そんなことを智子が考えていると、電車が速度を落とし始めた。次の駅が近づいてきていた。智子はしっかりとドア付近の手すりを握った。ここからさらに乗客が乗ってくる。大きな学校があるからだ。
今でもかなり混んでいる。智子は自分が確保した場所を堅持しようと必死でムンッとしがみついた。
電車が止まり、ドアが開く。ドドッと他の学校の生徒が乗り込んでくる。流されそうになったがなんとか智子はドア付近の場所から動かずに済んだ。
よかった、と智子がほっとした時だった。
「ねーねー聞いた? 皷野さんって、郷田君と付き合ってんだって?」
智子は思わず声の主を捜した。それは、今日、エプロンを縫ってあげた子の声だった。
とはいえ、混み過ぎていて場所が分からない。
「えー? それ、ま?」
誰かが少し失望したような声で言う。意外よねー、と。郷田君、あんなのが好きなんだ。なんだかなあと。すると他の誰かが言った。あー、アンタもそう思う? と。
智子の噂話をしている人物は、彼女のわりと近くにいた。周りを背の高いリーマンに囲まれているので、智子の存在に気付いていないようだった。
エプロンを縫ってあげた子と、そしてその子と友達の三人連れだった。
「皷野さんってさ、なんか仲良くしてほしくて必死感スゴクナイ?」
エプロンを縫ってあげた子が言うと、ほかの二人がそれそれと言うのが聞こえてくる。
「あー、それ思ってた。で、それ見ててうざい」
「陰キャが必死って見ててイタイ」
智子の顔が少しずつ俯きつつあった。
彼女らの話は、まだ続いた。
「なのに郷田君の彼女とか納得いかない。どんな手使ったんだろ」
「ほんそれー。どうやって取り入ったんだろうねあんな陰キャ」
「顏が可愛いからとか?」
「えー、可愛いかなぁ? 可愛いんだったら……」
電車が次の駅についた。智子は逃げるように電車から降りた。
こんなところで降りたのは初めてだった。
そこは都会では何処にでもある殺風景な駅だった。人こそ多いがそれ以外何もない。
智子は時刻表を見た。次の電車まで少し時間がありそうだった。ホームにある自販機でコーヒーを買うと智子は待合の固い椅子にすわった。
智子は暖かいコーヒーをゆっくりすすった。時々舌に塩辛いのが混じる。智子は慌ててハンカチでほっぺたに流れるそれを拭いた。泣いているのに彼女は自分で気づかなかった。
こんな場所で泣いたりして、変に思われなかっただろうか。智子は首をフクロウの様に伸ばしてきょろきょろと周りを見回したが、幸いにも彼女を気に留めている人間は誰もいなかった。みんな俯いてスマホをいじっている。智子どころか、自分以外に関心が無いように見えた。
智子はハンカチで口元を抑えるふりをしながら、やや持て余し気味にコーヒーを飲み終え、とぼとぼとした足取りでゴミ箱に空き缶を捨てにいき、待合に戻った。西日が射し始めていた。座っている人の影がくっきりと濃ゆい。
待合の固い椅子に再び腰を下ろすと、智子は鞄を膝の上に乗せ、中をまさぐり始めた。何かを探しているようだった。
やがて智子は一冊の本を取り出した。本の表紙に手をかけたままの姿勢で、智子は何度も顏を上にあげた。目元ににじんでくる塩辛いものを推し戻すために。そして何度かその動作を繰り返した後、智子は読書にとりかかった。
本の中身は、海外の翻訳ものの小説だった。主人公は風変わりなおばちゃまで、なんとスパイとして活躍する話だ。しおりを挟んであるところは、おばちゃまが命からがら逃げるシーンだった。
読み進めるにつれ、智子の表情か少しだけ明るくなっていった。ページをめくる手が早くなる。そんな時だった。ふと智子は視線を感じて顔を上げた。
真向かいに、かなり背が高い男が座っている。視線の主はその人物のようだった。こっちを見ている。
こんな場合、相手と視線を合わせないほうがいいのだろうが智子は一瞬、まじまじと見てしまった。
その男は日本人ではなかった。それはもう一目見て分かるほどに。髪の色が金とか茶色とかじゃないにもかかわらず、日本人離れした雰囲気を放っていた。
分厚い体に背広が驚くほどにあっていた。サングラスをかけている。
智子は慌てて目を伏せた。一体なんだと言うのだろう。ひょっとして泣いていた自分に興味を持たれてしまったのだろうかと智子は思った。外国人、特に白人はそういった人が多いと聞くから……。
電車が到着するアナウンスが流れた。電車がホームに入ってくる。智子や他の客が腰を上げる。智子はふと気づいた。
いつの間にか、その男は彼女の視界からいなくなっていた。
帰宅した智子の視界に、玄関に乱暴に転がっている大きなスニーカーが映った。和樹のだ。
和クン来てるよと母親が仕事場から顔を出した。
「よっ」
その手前の応接室から和樹が顔を出す。
「何しに来たの?」
和樹のスニーカーをそろえながら智子が言うと、何しに来たじゃないだろ? と和樹は不満そうに言った。
「せっかく俺が心配してきてやったのに」
事情が呑み込めず、? な顏をする智子に、和樹が説明した。家の近所で殺人があったこと、それも住人が全員殺害されていたこと。そして犯人は捕まっていないこと。
実はもう半月ほど前から、東京近辺で類似の事件が発生しており、智子は時々母と、怖いねと話をしていたところだった。
「お前んち男いないじゃん。だからボディーガード代わりに来てやったの……お、鯖が入ってる てことは今日は味噌煮かぁ。俺好物なんだよね」
テーブルに置かれた買い物袋をのぞく和樹。そんな彼を智子はなにかもの言いたげに見つめた。すると和樹は買い物袋の中身を見ながら言った。今日は泊まっていってやるよと。
和樹の言葉に、智子は小さく安堵のため息を漏らした。女所帯は非常時になるとどうしても危険が増す。そんな時に男性の存在は有り難かった。
「和君には悪いけど、今日は味噌煮はなし」
ひょいと和樹から買い物袋をとり上げ、智子は言った。
「えー、何で?」
「だって二人分しか買ってないもん。その代わり南蛮漬けにするからね」
だったら三人分くらいにはなるでしょと智子。
「あと食べごろになってる御新香と煮物とお味噌汁しかないけどそれでいい? 何なら卵焼きも付けようか?」
十分ですと満面の笑みを見せる和樹に、じゃあその辺に座っててと智子は言い、エプロンをしめた。
トントントン、と小気味よく野菜を刻み、手早く料理する。そんな智子の後ろ姿を、和樹が目を細めて見る。
「ちょっと、なあに? 和君」
その視線に気づいた智子が振り返ると、和樹はニヤニヤしつつ、何でもねえよと言いつつテレビのスイッチを入れた。ちょうど映ったチャンネルでニュースをやっていて、例の事件が取り上げられていた。
「怖いわねぇ」
台所にやってきた智子の母である奈津江が、ニュースを見て顔をしかめる。現場は、現職の警察官ですら直視に堪えられないほどの凄惨さらしい。
料理がテーブルに並ぶころになると、ニュースは芸能関係にうつっていた。内容は外国映画の宣伝だった。今、評判の若手のハリウッドスターが主演とのことで、海外でも大人気とのことだった。
「あ、そうだ、思い出した」
そう言いだしたのは、ハリウッドスターの顔を見ていた母親だった。
どうしたの? と智子が聞くと、母親が言った。今日、洗濯物を取り入れていたら、見慣れない男の人が家の前をうろついていたと。
「サングラスをかけていてね。背が高くて。どう見ても日本人じゃなかったわ」
それを聞いた和樹がムッとした顔になった。
「まさかお前、俺に隠れて付き合ってる男がいるとか……」
「ちょ、そんなことあるわけないじゃないっ」
「なら、お前に気があるんだ。そいつ。間違いない」
和樹は乱暴に南蛮漬けを口に放り込んだ。ちょっと、和君、それいくら何でも無茶ぶりすぎと智子。
「でも本当に知らないの? 智子」
母の言葉に、智子はうなずいた。だいたい、外国人に知り合いなんかいない。
とそこまで考えて、智子は思い出した。電車の中で会った人物のことを。母親の言う印象とよく似ている。
「……」
だがよくよく考えてみたら、電車の中でたまたま出くわした相手が、自分の家まで知るわけがない。
智子がそう考えて安心した時だった。
がた、と外で音がした。
「誰か来たのかしら?」
智子の母親が腰を浮かす。玄関を見ると何やら人影がうつっていた。
一瞬、青ざめた智子だったが、出てみるとそれは近所のおばさんだった。回覧板を持ってきたと言う。
智子はホッとして回覧板を受け取り、念のために外を見まわした。
近所の人の他は、誰もいなかった。