8,緋色の瞳の少女
第二皇妃ソフィア・ミディ・スレイルは隣国、クレミア王国の第一王女だった。
目立たず穏やかでいつも微笑んでいるのが印象的で雰囲気はいつも艶やかに着飾っている第一皇妃ヘレンとは対照的だった。
皇帝グラント・ジェンセン・スレイルがソフィアを第二皇妃として迎えたのは、皇妃ヘレンが第一皇子を産んで2年後のことだった。
スレイル帝國の公爵家で育った第一皇妃ヘレンは、これまで自分より身分の高い女性が周りにいなかったためか最初からソフィアのことを疎ましく思っていた。
況してや自分の息子の立場を脅かす恐れのある第二皇子を産んだ後はそれが一層エスカレートし、邪魔者を排除しようと画策していた。
しかし、ソフィアはスレイル帝國より国力が落ちるとは言え一国の王女。
そう簡単に暗殺するわけにはいかない。
ではどうするか?
そうだ、死因が病気なら問題ないわね。
ヘレンの中で黒い陰謀が頭を掲げ、恐ろしい策略は秘密裏に実行されたのだった。
ソフィアはディーンを産んですぐに病に倒れた。
最初は、誰もが産後の肥立ちが悪いせいだと考えていたが、どんな高名な医師にかかっても回復することは無かった。
結果的には、原因不明の不治の病と言うことで結論づけられ、ディーンが3歳の時に亡くなった。
病床で優しく微笑む姿だけがディーンの心の中に思い浮かぶ最後の母親の姿だった。
そして、ソフィア輿入れの時から付いて来たばあやがディーンの唯一の味方だった。
「ディーン様、これからはばあやが出したもの以外召し上がらないでくださいませ」
ソフィアが亡くなって5年ぐらいが経過したとき、度々体調不良になるディーンに向かってばあやが唐突に言った。
ばあやは長年の感故か、ディーンの体調不良は外部からの干渉を疑っていた。
つまり毒だ。
ディーンを守るべき尽力するばあやだったが、それを許すヘレンではなかった。
それから数年後、ディーンが10歳になる前にばあやは病に倒れ帰らぬ人となってしまった。
ディーンは唯一の味方であったばあやを亡くして悲嘆に暮れていた。
幼いディーンには為す術もなくジッと絶えるしかなかった。
皇居の別館に住むディーンは本館に住むヘレンと第一皇子である兄のクラウスとは滅多に合うことはなかった。
しかし、年に数回の行事の際には嫌でも顔を合わさなければならなかった。
睥睨する冷たい目はいつもディーンの心に暗い影を落とした。
兄のクラウスはいつもディーンを見て見ぬ振りをしていた。
きっとヘレンに逆らうことができないのだろう。
皇帝である父はそんな確執を知ってか知らずか介入することはなかった。
多分ヘレンを怒らせて余計な波風を立てたくなかったのだろう。
それからもディーンは度々原因不明の体調不良に見舞われることあった。
しかし、不思議と朝になるといつも回復していた。
14歳になったある夜、いつものように身体に違和感を覚え早めにベッドに入った。
息苦しさは呼吸を速め朦朧としたい危機の中何度も目を覚ました。
「もう、いやだ……何で俺ばかり……」
苦しさでどうしようもない身体を持てあまし涙が滲む。
苦しい、苦しい、苦しい、苦しい、苦しい……
目が覚めているのかどうかも解らない中、只苦しいという感覚だけが自分自身を覆っていた。
そんな時だった。
銀色の髪を撫でる手の感触を感じたのは。
朦朧とした意識の中、重たい瞼をそっと持ち上げた。
そこには、月明かりを背に緋色の瞳の少女がディーンを心配げに見つめていた。
「これでもう大丈夫ね」
何らかの液体をディーンに流し込み微笑むその少女の顔は懐かしくて涙がでそうになった。
立ち去ろうとする少女の手首をディーンは咄嗟に掴んだ。
「君は……だれ?」
「誰でもないわ」
そっと額に唇を落とした少女はディーンの前から立ち去った。
淡い記憶の欠片だけを残して。
朝、目が覚めたときディーンの身体は軽くなり昨日の苦しさが嘘のように消えていた。
しかし、心の中に得も言われぬ切なさだけが残っていた。
分けもなく涙が後から後から流れた。
「なぜこんなにも哀しいのだろう……?」
ディーンが17歳になり成人を祝うパーティーが大々的に開催された。
皇城の中でも最も広く豪奢なパーティーホールには煌びやかに着飾ったスレイル帝國でも名だたる貴族達が続々訪れていた。
このパーティーではディーンは初めて1人の女性をエスコトートをすることが決められていた。
マクベイ公爵家の長女ヒルデ・リア・マクベイ嬢、ディーンの婚約者候補である。
ファンファーレと共にパーティー会場に入場すると先ずは皇帝が話し始めた。
ディーンはパーティーに参加する蒼々たる顔ぶれを見渡した。
それは、瞳を掠った瞬間だった。
会場には煌びやかに着飾る令嬢達が溢れていたというのにそこだけがスポットライトが当たったように見えた。
漆黒の髪は光に反射して輝きを放ち、緋色の双眸は蠱惑的にディーンと視線が絡んだ。
既視感。
最初に感じた感覚だった。
涙が滲むような懐かしさ……あの夜のように……。
気がついたら、緋色の瞳の少女は会場から姿を消していた。
その後、ディーンは義務を果たすかのように婚約者候補のヒルデと最初のダンスを踊った。
そして直ぐに庭に向かい、少女を捜した。
庭の四阿に佇む少女を見つけるとディーンはどう声を掛けるべきか悩んだ。
(あぁ、彼女の緋色の瞳はなんて美しいんだろう、あの時のように……)
そう思った瞬間
(あの時?、俺は彼女に会ったのは初めての筈、なぜあの時などと思ったのか?)
その考えはアメリアの次の言葉に霧散した。
「どうして……」
「やぁ、君、以前私と会ったことはない?」
咄嗟に立ち上がり呟く彼女にディーンは言葉を発した。
「えっ?」
近づきながら問いかけるディーンの問いに戸惑っているのが明らかに分かった。
「あっ、心配することはない。別に口説いているわけではないから。でもどうしても君を見た瞬間話さなければならないと思ってしまったんだ。」
「私、殿下にお会いしたことは無いと思います」
ディーンは何とか言いつくろい、彼女の警戒を解こうと思ったが軽くあしらわれてしまった。
ディーンは思案げに彼女の瞳の奥を見つめた。
(なぜ、彼女の瞳は懐かしい……)
アメリアの緋色の瞳はディーンの心の奥底に埋もれた記憶を呼び覚ますようだった。
「そうか、では一曲だけでもダンスを踊ってくれないだろうか?」
我に返ったディーンは意を決して懇願した。
「ご令嬢、君の名は?」
ダンスが終わり手を離す前にディーンが彼女に問うた。アメリアはディーンの問いに答えようと口を開きかけた。
「ディーン殿下、こちらの方何方?」
甲高い声が遮られ、アメリアは声を発することができなかった。
「はじめまして、わたくしディーン殿下の婚約者のマクベイ公爵家の長女ヒルデと申します。あなたはどなた?」
牽制するように言い放った言葉は、2人の絆を阻むような威力を発した。
戸惑うディーンはどう彼女に声を掛けるべきか躊躇した。
その一瞬の間が彼女をその場から追い立てた。
アメリアの後ろ姿を呆然と見送ったディーンは、その時会ったばかりだというのに何故か彼女のことが気になって仕方が無かった。
ディーンは、名前さえも聞くことが出来なかったと心の中に後悔が残り、この夜から緋色の瞳の少女を一時も忘れる事ができなくなったのだった。