【番外編】吸血鬼と僕の初恋・中編
それから5年の月日が流れた。あれから彼女に会うことはなかった。今ではあれが僕にとっての初恋だったと確信している。淡くも心を擽るようなこの気持ちは僕の中で美化されたまま思い出として残っている。
来年僕はシェリーと結婚する。彼女のことは忘れた訳ではないが、だからと言って彼女と結婚したかった訳でもない。彼女のことは憧れに近かっただけだと思う。有名な歌劇女優や歌姫に恋するようなものだ。だから僕はちゃんとシェリーを愛している。
師匠がマチルダさんと一緒に行商に行ってる間、時々店を任せて貰えるようになった。調剤の腕も認められる様になって、馴染みのお客さんの分も殆どが僕の担当になった。今も師匠は1か月位の予定で行商のため家をあけている。だからその間僕が店を切り盛りしなければならない。もちろんシェリーと一緒にだけどね。
今日もいつもの様に店番をしながら、店舗の奥で薬を調合していた。すると、鈴の音が来客を知らせてくれた。
「こんにちは」
店の扉が開き、黒髪をフワフワ揺らめかせ店に足を踏み入れた女性はカウンターに立つ僕の方へ真っ直ぐ歩いてきた。
「この中から毒を特定して解毒薬を作ってくれないかしら?」
そう言ってその女性はカウンターの上に赤い液体が入った小瓶を置いた。
瞳の色は翡翠色だったけど僕は確信していた。間違いない、あの時の彼女だ。僕は彼女を凝視したまま微動だにすることが出来なかった。彼女は僕が何も返事をしなかったためか訝しげに首を傾げ僕を見つめた。
彼女の瞳が見開き、右手で口を覆った。きっとあの時会った僕を思い出したのだろう。一瞬動揺したように見えたが直ぐに立て直し僕に向かった口を開いた。
「あら、久しぶりね、お元気そうで良かったわ」
まるで昔の知人に挨拶をするように目を細めながら僅かに口端を上げて笑んだ。そんな彼女は5年も経ったというのにあの頃とちっとも変わらず、彼女より年下だった僕はどう見ても今は彼女より年上にしか見えないだろう。
僕はそんな不思議さえ払拭するように彼女にまた会えたことであの時の淡い初恋を思い出し胸がいっぱいになった。何も言葉が浮かばず彼女から目が離せない。
「それで、この血から毒を特定して解毒薬を作れるかしら?」
さっきと同じようなことを繰り返す彼女の言葉にハッとして、その血液の入った小瓶に目をやった。
毒? 誰かが毒を飲まされたのか? それとも毒を持つ魔物に噛まれたとか? その誰かもしかして彼女の大切な人なのだろうか? 一瞬の内に僕の頭の中を様々な疑問が駆け巡った。
「大丈夫ですよ、直ぐに解析して解毒薬を作りましょう。少しお待ち頂けますか?」
何とか思考の渦から這い上がり彼女にそう答えた。血液に混じった毒を抽出すること何て僕の錬金術にかかれば簡単なことだ。僕は彼女の役に立てることが嬉しかった。あの時は彼女に命を救われたのだから。
彼女に、店の中の隅にある椅子に座るように促して僕は血液の入った瓶を手に取り店の奥に引っ込んだ。毒を飲んだなら早く解毒薬を作って飲ませなければならない。
「さぁ、出来ましたよ」
解毒薬の入った瓶を持って店に戻り、彼女に声を掛けた。
「ありがとう」
そう言って駆け寄ってきた彼女の瞳はうっすらと潤んでいた。
「これで足りるかしら?」
3枚の金貨をカウンターの上に置くと僅かに口端を上げて僕の方に顔を向けた。
「ちょっと多すぎますよ」
「いいの、残りはお礼よ」
僕の言葉を受け取ると彼女は踵を返し足早に去っていった。追いかける間もなく。僕はその場で呆然と立ちすくみ、また彼女の名前を聞くことを忘れたことに気付いたのはそれから数分も経った後だった。
平民は金貨1枚で1ヶ月は優に暮らしていける。解毒薬は安い物ではないが金貨1枚もしない。せいぜい大銀貨5枚程だ。大銀貨10枚で金貨1枚に相当するから金貨3枚なんてぼったくりも良いところだ。まぁ、僕が請求した訳じゃないけど。
それから、彼女は何度も解毒薬や回復薬を求めにやってきた。同じ毒のこともあれば違う毒の時もあった。共通するのは全て遅効性の毒であったことだ。これらの毒は即効性がない代わりに徐々に身体を弱らせていくため、病死として処理されることがある。
つまり、何が言いたいかと言うと周りに殺人だと気付かせずに邪魔な者を殺すことが出来るのだ。彼女がこの毒の中和剤を何回も求めると言うことは、誰かが誰かを秘密裏に殺そうとしているのかも知れない。
でもそんなこと彼女に聞くことなんて出来なかった。彼女のプライベートに足を踏み入れることが憚れただけではなく、彼女自身が聞かれるのを避けているように感じていたから。
一度毒が体内に入ると解毒薬を飲んだとしても直ぐに元通りになる訳ではない。しばらくは回復薬も飲む必要が有る。だから、彼女は何度も薬を求めた。
彼女の名はアメリアさんと言った。アメリアさんが店を訪れるようになって約5年。その間シェリーと無事に結婚して、変わらずに薬師として調剤をしたり、店番をする毎日を送っていた。そして、シェリーも店番をしていた時に彼女と声を交わすこともあった。
最初はアメリアさんを見た後
「綺麗な人ね」
と僕を睨んでいたけど、今は彼女と普通に接している。彼女は多くを語らないけど、その所作には気品と優しさが含まれている。シェリーは人の内側を見抜く気質があるからアメリアさんの人柄を察知したのかも知れない。アメリアさんは最初は貴族なのかな? と思ったけどそもそも貴族がこんな店に来るわけがない。きっと僕の気のせいに違いない。
「最近、アメリアさん来ないわね。でも、よかった。来ないと言うことはアメリアさんの大切な人、毒から回復したのよね」
いつもの様に店のカウンターに立つシェリーは少し寂しげに微笑んだ。
それから約2年間、アメリアさんはこの店を訪れることはなかった。
ーーーー
僕たちは、結婚してから7年が経っていた。シェリーがカウンターで接客、僕が店に奥で調剤と言う形が通常となっていた。アメリアさんはここ数ヶ月姿を見せていない。そう、これは喜ばしいことだ。来ないと言うことは、もう薬の必要が無くなったと言うことなのだから…………。
巷では、王家の訃報で持ちきりだった。第二皇子がご逝去されたと言うことだった。更に王妃様が精神衰弱のため、北の離宮に隠居したとのニュースも飛び込んできた。
そんな中、店の前を箒で掃き、いつもの様に開店準備を行っていた。
「こんにちは、元気そうね」
聞き覚えの声に僕が振り向くと、緩くウェーブのかかった髪を風に靡かせて立っているアメリアさんがこちらを向いて微笑んでいた。相変わらず初めてであったときと全然変わらないその容貌で。
「アメリアさんも元気そうで良かったです」
「今日はね、あなたにお礼を言いに来たの。彼を助けることが出来たのも貴方のお陰。私、これから彼とずっと一緒にいられるわ」
そうして、アメリアさんはちらりと後ろの方に佇む銀髪の青年に目をやった。
この場所からは少し遠いので髪の色が銀髪だと言うことだけが分かった。陽の光に当たりキラキラと輝いて見えた。何だか第二皇子に似ているような気もする。
「まさかな…………」
「どうかしたの?」
僕の呟きにアメリアさんが小首を傾げた。
「いえ、何でもないです。でも、アメリアさんが幸せそうで良かったです」
「ありがとう」
満面の笑みを浮かべたアメリアさんはもう泣いているような笑顔には見えなかった。こころから幸せが溢れでる表情は、きっと銀髪の彼のせいだろう。ずっと待ち続けていた彼に違いないと僕は確信していた。
「あっ、そうだ、エバン、これを貴方にあげるわ。もし貴方や貴方の大切な人に自分ではどうしようもないことが起こったらこの箱の中の物に貴方の血を少しだけ垂らしてね。そうすれば私に届くから」
そう言い残してアメリアさんは掌に乗るくらいの真っ黒な四角い箱を置いて行った。その中には黒い紙で出来た小さな蝶が入っていた。それが何なのかは分からなかったけど、まぁお守りのような物だろうと受け取って引き出しの中にしまっておいた。
それから数日後、外出から帰ってきたシェリーの様子がいつもと違うことに気付いた。
瞳が潤み僅かに震えているようだった。
「エバン……私……」
シェリーは僕の顔を見た途端、感極まったように途切れ途切れに言葉を押し出した。
「えっ? シェリー、どうしたの?」
僕は、中々言葉に出来ずにいるいつもと違うシェリーの様子に狼狽えた。
「私……赤ちゃんができたの」
頬を染めながら控えめな笑みを零すシェリーは喜びを身体の中から滲ませながら僕を上目遣いで見つめていた。
結婚してから僕たちには中々子供に恵まれなかった。最初は悩んで、食事に気を付けたり、薬草を試したりしていたが次第にその事には触れないようになった。もう今では殆ど諦めていたのだ。
それが、7年経った今のシェリーの言葉は僕にとって信じられないほどの朗報だった。目を丸くして驚く僕の言葉をシェリーが待つように僕から目を離さない。
「ほ、ほんとう? シェリー…………ありがとう……」
僕は感極まってそれだけ言うと思わずシェリーを抱きしめていた。
僕たちに子供が。
嬉しい、嬉しい、嬉しい。
「シェリー、身体は大丈夫? こうしてはいられない、はっ早くベッドに!」
「クスクス、エバン、私は病人じゃないのよ」
慌てる僕にシェリーは嬉しさを隠さず微笑みながら僕を諭した。
「そっ、そうか。ここに僕たちの子供が……」
シェリーの腹部に手を当てると、不意に目頭が熱くなり涙が零れた。シェリーの顔にも一筋の涙が流れているのに気づくと、そっと背中に手を回し優しく抱きしめた。シェリーの腕が僕の背中に回って僕らはしばらくの間、そのまま幸せを噛みしめた。
それから半年、シェリーのお腹の子はすくすくと成長して、傍から見ると妊婦だと直ぐに分かる位になった。最初は、シェリーが動く度に心配していた僕だったが、
「大丈夫よ、私丈夫なだけが取り柄だからね。それに、お母さんも安産だったし何事もなく丈夫な赤ちゃんを産めると思うわ」
と、毎回諭された。
シェリーの言葉を証明するかのように、妊娠前と変わらずに悪阻さえものともせずに元気で家事も店番もこなしていくシェリー。そんなシェリーを見て、僕は最初は心配していたけど今はそれは杞憂だったと思い始めていた。
後1月もすれば臨月を迎えるということもあり子供が生まれるのを楽しみしていたそんな時だった。僕とシェリーは出産の準備で足りないものを補充するために街まで買い物に出かけて行った。とは言え、準備は殆ど済んでいたため買う必要のものはそれ程多くなかった。
只単に、あまりにも待ち遠しかったのでいてもたってもいられないと言うのが本音だ。とりあえず、念のためと言うのを理由に買い物に出かけたのだった。
小さな子供服やおむつ、おくるみなどを手に取る度に僕たちは顔がにやけるのを抑えることが出来なかった。必要以上に買いすぎたかも知れない。
満足顔で買い物を修了し、僕が荷物を持ち、シェリーと帰路に着くときだった。僕たちの背後から黒い馬車が走ってきた。僕たちが歩いているのに速さを弱めることもなく。
その物凄い速さでの馬車は容赦なくこちらへ向かって来る。
僕は咄嗟に持っていた荷物を投げ出しシェリーを庇うように抱きしめながら避けようとした。しかし、正面からの衝突は免れたものの、馬車の車輪に掠り投げ出されてしまった。
黒い馬車は少し先で止まっていた。馬車の側面には盾と鷲の金色の紋章が施されていた。
「何だ? 何があった?」
不機嫌そうな声と共に馬車から降りてくる人物。短い茶髪で口髭を生やした小太りの男だった。年齢は30才前後くらいだ。
「もっ、申し訳ありません」
御者がその男に向かって頭を下げていた。
僕は地面に叩きつけられた強い衝撃で腰と肘を打ち、痺れて直ぐに立ち上がることが出来なかった。僕は何とか顔を上げてその男の方を視た。
「何だ、平民か?」
その男は僕たちを虫けらでも視るような目で言い放った。
「シェ、シェリー! 大丈夫か?」
僕は腕の中のシェリーに目を向けた。
「えぇ、何とか……」
一瞬、ホッとしたのも束の間、シェリーが直ぐに顔を顰めた。
「うっ…………」
その場所で地面に横になったままお腹を押さえるシェリー。
シェリーの腰回りに血が滲んでいた。
「つっ、妻のお腹の中には子供がいるんです。何とか治癒院までお願いします」
それでも、僕は震える声でその男に懇願した。貴族なら高名な治癒師を知っているだろうと思って。
「ふん、何で高貴な私が下賤なお前達を助けねばならん。子ならばまた為せばいいだろう。まったく、貴重な時間を無駄にしてしまった」
そう言うと、その男は踵を返し再び馬車に乗り込み立ち去っていった。
僕は悔しさに拳を握りしめた。




