ウシナイ
あれ以来、
大家さんとは若干気まずくなったが
特段大きな出来事も無く
俺は都合良く何もかもを忘れかけていた。
蜩の声が響き夏の終わりが近づいている。
バイトを終えた俺はケーキ屋に寄り
迷うことなくチーズケーキと
チョコレートケーキを選んだ。
今日は香織の誕生日だ。
香織は先に部屋で夕飯を作って待っている
と言っていた。
主役はゆっくり過ごしててくれ、と頼んだが
美味しいもの作って一緒に食べたいから、と
聞かなかった。
それならせめてと思い、
香織の好きなケーキを2つ購入してきた。
夕方とはいえまだ続く暑さの中
俺は足早に自宅へと向かう。
アパートはもう目前だ。
逸る気持ちを抑え階段を上がると
一番奥、208と書かれたドアの前に立つ。
扉は当然のようにすんなり開かれるが
ただいまという言葉は俺の喉元を逆流し
代わりに放たれたのは
言葉にならない苦い一言だった。
「うっ」
部屋に入るよりも早くそれは漂ってきた。
今までの人生で嗅いだことのない臭いと
見たことも無い、
絶対に見たくない、光景。
ドン………ドン………
目も耳も鼻もしっかり機能しているのに
そこから飛び込んでくる情報を
細胞が全力で拒否しているようであった。
「か…おり…?」
ドン………ドン………
縊死。
天井からぶら下がった彼女は
数日前まで幸せそうに笑っていた香織とは
全く別の生き物に為り変わっていた。
異様につり上がった口角と見開かれた目。
香織の笑顔とは違う。
そしてさらに奇妙なことに
揺れる脚が一定のリズムで壁にぶつかって
もう何度か聴いた音を出していた。
この光景を見た俺は
胃の内容物全てが物凄いスピードで上がってくるのを感じ、耐えきれずその場で吐き出した。
それでも胸のつかえは取れない。
喚き叫んでもそれが解消されることはなかった。
あの顔は香織のモノじゃない。
壁に当たる程大きく揺れる体も香織のモノじゃない。
違う!違う!違う!
俺は耳を塞ぎ叫び続けた。
これは現実なのか悪夢なのか
何もかも理解が追いつかない。
しかしこのままでいるわけにもいかない。
とにかくまずは警察に電話しなくては、と
ポケットのスマホを取り出そうとした時
机の上のメモ書きが目に入った。
まま、ごめんね。
もう耐えられない。
まま、大好きだよ。
さよなら。
莉奈
なんだこれ………
香織が書いたのか?
いや、でも莉奈って…
暫くその文字を見つめていたが
今の俺にはこのメモ書きの解読をする余力が残されていなかった。