第38話 屋上庭園
コンラッドの部屋から通じる狭い階段を上ると、思いのほか広々とした屋上に出た。
「ここは母が好んで整えた場所なんですよ」
コンラッドが小さな光を屋上にあったランプに灯していく。その光の中、ほのかに浮かんだのは美しい屋上庭園だった。
「綺麗ですね」
「ありがとうございます。今は両親が遠方にいるのですが、いつ母が来てもいいよう手入れだけは欠かさないようにしています」
初めてこの館を見たときにどこか寂しそうに見えたのは、本当の主人が遠方にいたからだったようだ。廊下などにも飾られていた神話のモチーフがあちこちにあり、幻想的な雰囲気になっている。
「メロディはよくここへは来るのですか?」
「いえ」
「あら、どうして? こんなに素敵な場所なのに」
不思議に思って首をかしげると、コンラッドは少々呆れたような笑顔を見せた。
「実はここは、母の言いつけで子どもは立ち入り禁止なのですよ」
「まあ。そうなんですね」
アンジェラから見ればもったいない話だけれど、よく見れば柵のない屋上庭園は、子どもが遊び場にするには危険だと納得する。
コンラッドにエスコートされながらベンチに腰を掛け、アンジェラは広がる星空を見上げた。
雲一つない空には月もなく、美しい星が一面に広がっていた。
(この空をゆっくり眺める日が来るなんて思わなかった)
前々世では、野営の時などよく空を眺めた。火を焚き、ぽつぽつと話をしながら過ごした日のことが、まるで本で読んだ出来事のようだ。
さらりと過ごしやすい空気の中、飽きることなく無心で空を見ていると、ふとコンラッドがこちらを見ているのに気付く。その目には称賛の色が浮かんでいて、アンジェラは恥ずかしくなって目を伏せた。
「旦那様は空を見ないのですか? 今夜はとても綺麗ですよ」
「アンジェラは、星を見るのが好きなんですね」
「ええ、好き」
いつの人生でもそうだった。
「雨上がりの晴れた空と星空が好きなんです。なにものにも縛られない自由な感じがするから――」
形は違っても同じものがそこにある。そのことにどれだけ慰められたか分からない。
「アンジェラ?」
小さく呼ばれて振り向くとコンラッドが身を寄せてきたので、手のひらで唇を受け止める。
「ダメですよ、旦那様」
「なぜ?」
かすれた声で問われ、アンジェラは力なく微笑んだ。本心ではないことに気づかれているのだと思い、それでも微かに首を振る。
コンラッドはそんなアンジェラの手を取り、唇を止めた手のひらにゆっくりとキスをした。その感触に、全身に電流が走ったように感じる。
「旦、那様……」
「名前を」
手のひらの中でささやかれ、アンジェラが「コンラッド」と呼び直すと、彼はようやく少しだけ顔を上げ、見上げるようにじっとアンジェラを見つめた。
「ねえ、アンジェラ。昔から聞いてみたいことがあったんだ」
低い声は囁きに近いのに、アンジェラの耳朶を甘く打つ。
「あの日、貴女が私に言ったキラキラの思い出を教えて?」
教えてくれたら手をはなすという彼の言葉に、アンジェラは大きく息を吸ってゆっくりと吐き出した。思い出の話は、狼にキスをされた日の話だとすぐに気づく。
彼の唇が手首の内側に這い上がり、小さな電流がまたしても流れた。
「聞いても――んっ……つまらない、ですよ」
「それは聞いてみなくては分からない」
本気で振り払おうと思えばできないわけではない。肉体的な力では敵わなくても、身を守るすべは身に着けている。でもアンジェラはそうしたくはなかった。
(もしかしたら、最後の夜かも知れない)
早ければ、明日には彼らをイリスに帰せるのだ。だったら秘密の一つや二つ、土産話にしてもかまわないかもしれない。
「ずっと昔。学生の頃に恋をしたんです」
ぴくりとコンラッドが揺れ、アンジェラの手を掴んだままゆっくりと身を起こす。
「誰? 私の知っている人?」
「さあ。私も知らない人ですから」
アンジェラは小さく笑って目を伏せた。
「正確には、恋に恋をしていた。ただそれだけのことです。でも生まれて初めてでした。一緒にいて楽しくて、なのにすごくドキドキして。彼は私を知っていた。私だと分かっていた。それだけでも幸せだったんです」
意味が分からないという彼の表情に、(そうよね?)と心の中で呟く。
ゆっくりと手が離れ、コンラッドが空を見上げたので、アンジェラも同じ方を見つめた。
「仮装パーティーを覚えてますか? 私はちょうどこんな風な姿をしていました。ヴィクトリアのメイドに遊ばれて、自分じゃないみたいな化粧を施されたんです。たぶん、人生で一番美人に見えたんじゃないかしら」
普段なら絶対しないようなメイクだった。
銀色に染められた髪。力強い目元に、意志の強そうな赤い唇の月の女神。
でも仮装パーティーらしくて、すごく心が浮き立っていたことを覚えている。
「あの時は、パーティーのあとに姉たちの訃報が入るなんて夢にも思わなかった。ただただ、学生最後の交流行事を楽しみました。みんなの幸せそうな姿が、本当にうれしかったの」
思い思いの扮装をする学友たちの間をひらひらと歩き回り、休憩を兼ねて、ヴィクトリアから教えられた穴場で星空を眺めた。心の中がふわふわとしていて、まるで現実味がなかった。
「その時、仮面をつけた人に声をかけられたんです。ちょうどこんな風に月がない、星の綺麗な夜でした」
神話の中から出てきたような、月の女神の夫である太陽神の扮装をした誰か。
「楽しかった。おしゃべりをしてダンスをして。あんなにドキドキして幸せだったのは生まれて初めてでした。おかしいでしょう、相手が誰かもわからないのに。でも私は彼に名前を呼ばれて嬉しくて、次は本当の姿で会えるのを楽しみにしていたんです。叶わなかったけれど、――今も、彼が迎えに来てくれる日を夢に見ます」
クスクスと笑いがこぼれるのに、ポロリと一粒、見えない涙がこぼれた気がした。
「ね? 少女じみてて、つまらない話だったでしょう」
恋に恋していただけの思い出を、後生大事にしている四十歳の女なんて、ただただ痛々しいだけ。コンラッドもあきれていることだろう。
それでもアンジェラには大切なお守りだった。
恋をしたのも自分から望んでキスをしたも初めてだったのだ。迎えに来てくれる誰かを想うだけで、耐えられた出来事は数えきれない。
そのとき――
「わが妻よ。宴の最中なのに、もう月に帰ろうとしているのですか?」
コンラッドの言葉にアンジェラは目を見開いた。
「なん……で……」
どうしてその言葉を知っているの? 芝居になぞらえた偶然?
「ダンスの後、いっしょに流れ星を見ましたね。私は妻である貴女にキスをした」
熱のこもった眼差しと思いもがけない言葉に、アンジェラは両手を口元にあてる。
「まさか。そんな」
今アンジェラは、相手が太陽神だったこともキスの話もしなかったはずだ。それを知っているコンラッドは――――
「貴女は私を背の君と呼んでましたね。今は夢の時間だと」
「うそ……。コンラッド、でしたの?」
広くがっちりした肩にかかる金髪も、仮面の奥の深い青色の目も覚えている。
それでも当時のコンラッドの普段の姿とは違いすぎて、なかなかその現実が受け入れられない。
猛烈な恥ずかしさに立ち上げって逃げようとすると、グイっと手を引かれて次の瞬間、アンジェラは彼の胸の中に飛び込んでいた。
「お願い、はなして」
「いやです」