(4)
蛍子は退屈だった。
とても退屈だった。
すでに三日が経過したものの未だ覚めぬ、この「異常に長尺な夢」の中、親友の結城満に促されるままに準備をし、とうとう林間学校のバスに乗り込んだ蛍子だったが、その労苦に見合った面白い体験は、今のところ一つも起きてはいない。
いかにも面白く無さそうな眼鏡っ子と相席だし、唯一面白そうな奴には無視されるし。おまけに外は大渋滞。さっきからまったく進んでない。いったいどうなってんの、この夢。みっちゃんと高校違うし。夢って良くも悪くも私の望みが具現化するものじゃないの。私がただバスに乗りたがってたとでも言う気?
全然楽しくない。
全然楽しくないけど、どうせ目が覚めても全然楽しくない、と少女は冷めた目をする。
坂東蛍子は類い希な頭脳と美貌、身体的な潜在能力を宿してこの世に生まれ落ちた、勝利を約束された傑物である。しかし、どんな天才だろうが生まれたその瞬間だけは親の顔すら分からない。平等に無知なのである。何も知らずに始まった人生は、完全に近い蛍子にとっては希望そのものだった。知らないということは、即ちこれから知ることが出来るということだからだ。可能性とも言い換えられるだろう。坂東蛍子は幼児特有の豊かな好奇心を爆発させ、初めて見る雨や、温湿布や、ビーフストロガノフなどの知識を余すところなく吸収していき、ゴミ捨てや、鉄棒や、日本舞踊などの技能を逃さずに習得していった。
結果、彼女が「自分の年齢で許されること」を全て獲得するまで、十年と少ししかかからなかった。十四歳の春に彼女は初めての貿易を済ませた。そしてとうとう、周囲に落ちていた謎を全て解明してしまった。
そして悲劇は始まる。全て知っているということは、即ちもう知ることが出来ないということだ。可能性を喪失したのである。実行すれば何でも完了する蛍子にとって、未知への挑戦だけが楽しみの全てであり、日々の潤いだった。それを剥奪された今、輝いていた彼女の日常には急速に曇が広がり、灰色に色褪せていった。今や蛍子は、何もかもがつまらなく見えていた。生きていることさえつまらなかった。自分を破った結城満のような、過去の僅かな衝撃を支えに何とか生きている状態だった。
坂東蛍子は退屈だった。悲しい程に退屈なのだった。夢の中ですら退屈だというのなら、もうどうしようもない気がしていた。何もかも全部壊してしまいたくなっていた。
(あーあ、この渋滞が爆発で吹っ飛んだりしてくれれば、少しはすっきりするのに)
少女がため息で窓を曇らせた、その時である。竜の唸り声のようなくぐもった音が遠方から響き渡り、暫く後に振動でバスが揺れた。音は立て続けに二、三と続き、その度に嫌な風がバスを震わせる。小さな悲鳴が車内で上がり、いったい何事かと皆が首を振っている。目を丸くしている隣席の女子高生は、感情を抑えるために本の端を強く握っていた。異音は全てバスの進行方向から聞こえた。周囲の一般車両の様子からも、前方で何かあったことが窺える。
(何?まさか本当に爆発でも起きたの?私が夢で願ったから?)
蛍子はいつもそうしているように、持ち前の牽引力を嫌味にならない匙加減で発揮し、バス内を巡回してクラスメイトが最も求めているような安心の言葉をかけた。完璧な笑顔を浮かべていたが、心中は穏やかではなかった。願ったら叶う夢なら、もっと面白いことが起こせるのかな、と三つ上のお姉さんたちを励ましながら高揚感を押し隠す。
「坂東蛍子!下りてきなさい!」
バスの外、異音のした方角から、今度はメガホンで拡声された女の声が響いた。通路に立っていた蛍子は、バスのフロントガラスを通して、遠くのトラックの上に人影があるのを目視した。女の後ろからは煙が上がっていた。確かそろそろ道中に橋があったはず、と蛍子は思い出す。
(じゃあ、さっきのは橋を破壊した音?)
小さなふるえが背筋を昇ってくる。
「あなたの魔法瓶を頂戴しに来たわ!さっさと出てこないと、こうよ!」
女が腕を振ると、背後で爆炎が上がった。渋滞からどよめきが漏れる。女の要求は意味不明だったが、少女はその要求に応じるため一先ず自分の席に魔法瓶を取りに戻った。
「藤谷さん、その栞借りても良いかしら」
「う、うん・・・えっと、坂東さん、行かない方が・・・」
しかし藤谷ましろは最後まで言葉を続けず、急いで銀のペーパーナイフを献上した。坂東蛍子の瞳が興奮で輝いていたからだ。その顔に満ちる純度の美しいエネルギーは、車外の混乱と噛み合わず、ましろにはちょっとだけ不気味に見えた。
「ありがとう」
蛍子がペーパーナイフを振ると、ヒュンっと退屈が裂ける音がした。
大変おまたせしました。尺の関係でかなり唐突ですが、ここから折り返しで物語が展開していきます。