(3)
座席上の荷物棚の一角で、ヒップバッグの一つがゆっくりとジッパーを開け、フカフカの腕が天に掲げられた。マリーの腕である。白兎のぬいぐるみは、卵から生まれ落ちる雛鳥のように丸鞄から這い出すと、中からもう一体、同じような格好の黒兎を引きずり出した。
「マ、マリー、君は時折、大胆が過ぎる」
ロレーヌが恐々とする横で、マリーは車内状況を確認するため棚から身を乗り出した。
「お、おい!分かっているのか!我々ぬいぐるみは“国際ぬいぐるみ条例”によって」
「人に見られてはならない。勿論分かっていますよロレーヌ。私、検事長ですから」
声を潜め、綿を縮めるロレーヌに、マリーは肩を竦める。
「しかし、物事は循環するものです。たとえ危険があったとしても、良い目の時に攻めておかないといつまで経っても勝てませんよ」
「果たして今は良い目と言えるのかね」
当たり前だ、とマリーは眼下の蛍子を見つめた。“全盛期の蛍子”相手に見つからずに潜入出来たのだから、上出来だろう。
ぬいぐるみのマリーは主人である結城満の依頼で、主人の親友、坂東蛍子の護衛として林間学校に同行することになった。先のロレーヌの言葉の通り、ぬいぐるみは人前で動くことが許されていないが、見られてさえいなければこのように棚の上をふらふら動き回ったりできる。護衛だってやりようはあった。
(懐かしい姿ね)
白兎が少女を見おろす。マリーは蛍子の異変について、あらかたの事情を主人から聞かされていた。この「事情」に関しては満に直接語ってもらった方が分かり易いだろう。そこで少し過去へ遡ってみようと思う。バベル爆破事故当時、結城満が最上階へ辿り着いたシーンを回想しよう。
満は震える足を引きずり、蛍子がいるはずの煙の奥にゆっくりと進んでいった。ちりちりと肌を傷つける砂利を物ともせず、前へ前へと足を動かす。祈りを胸に四度煙を掻き分け、目的地までに更に五歩かかった。満は痛む目を励まし、そっと目の前にいる人物の顔を確認する。
「・・・みっちゃん?」
そこにいたのは坂東蛍子だった。ピンピンして、傷一つない坂東蛍子である。結城満は一足飛びで幼馴染の身体に飛びつくと、しっかり抱きしめ命を確かめた。
「蛍子・・・よかった・・・本当によかった・・・」
「・・・ねぇ、みっちゃん、なんでそんな呼び方するの?」
満が不思議がる。何を言いたいのかさっぱり分からないという顔である。
「だ、だから、蛍子って・・・なんか他人みたい・・・」
「んん?ええ?」
結城満は更にクエスチョンマークを増やした。本当に蛍子は何を言ってるんだろう。というか、話題自体がこの状況に即していない。少女は首を傾げ、ショートカットを一頻りゆらゆらさせ、ようやく蛍子の全身の変化に気がついた。爆破に巻き込まれたはずの蛍子の身体には傷一つなかった。それどころか身長が一回り小さくなってすらいた。
「・・・ねぇ蛍子、何があったの?」
「あ、また蛍子って!ほっこって呼んでよ!」
「え?だってこれ、貴方が決めたんじゃない。プライベートで使い分けようって」
「そんなこといつ言ったっていうのよ。言ってないもん」
「ええ?・・・うーん、中二の冬だったかな」
「じゃあ絶対違うわ!そんな重要な決め事、こんな短い間に私忘れたりしないよ!」
「ん・・・あー!はいはい、なるほど」
満が全てを理解し、手を打った。
またあれが起きたのね、と頷く満。それを蛍子が訝しげに見上げる。
「あれ?ていうかみっちゃん、いつの間に私より背が高くなったの?」
「三年かけて、ようやくね」
坂東蛍子にはたくさんの秘密がある。神様と関わって地球存亡を左右したり、地獄を巡ったりしたことは記憶に新しいことと思う。歴史には残らない偉大な秘密たちだ。
タイムスリップ現象というのも、そんな秘密のひとつだ。頻度にして年に一、二度、蛍子は別時代へタイムスリップしている。
ただ、彼女の時間跳躍は、自分が別時代に飛ぶというだけにとどまらず、同時に「跳躍先に存在する自分」もまた現代へと飛ばしてしまう、つまり「時間軸上の自分自身と入れ替わる」ため、一般に認知されるタイムスリップとは細部が異なる。精神だけが入れ替わるわけでもなく、肉体ごと入れ替わるから、タイムリープの類でもない。タイムスワップと呼ぶのが一番適切かもしれない。
跳躍先と入れ替わるということは、現時点から中学二年期にタイムスワップした場合、代わりに中学二年当時の自分が現時点にやって来ることになるわけだ。蛍子は蛍子自身と入れ替わるのだから、知らないどこかに飛んでいったりはしないし、自分のいない時代にはタイムスワップしない(ただしこの「自己タイムスワップ」は、遺伝的なつながりが有効であるらしく、極稀に蛍子と波長の合う先祖や子孫と入れ替ることもある)。
といった具合に、彼女のタイムスワップはややこしく、謎も多く、観測している結城満にもまだ解明しきれていない部分が多い。前後の蛍子の証言を聞く限りだと、どうやら彼女が命の危険に晒された時に、その危機を物理的な移動によって、つまり時間跳躍で蛍子の身体ごとその場から消し去ることで回避しようとする「何かの力」が働いているのではないか、という仮説は立てられていた。「時間がゆっくり進む」というスワップの前兆が出る時は、決まって彼女の身が危ない時だった。誘拐事件で車が暴走したあのときも、テロリストに攻撃されたあのときも、坂東蛍子はスワップしかけ、ギリギリで危機が去り、踏みとどまった。
しかし今回はそうはならなかったのだ、と満は思った。
ちなみに蛍子自身はこの現象のことを知らない。満は彼女のタイムスワップ現象に気づいた時、夢だと言い聞かせることに決めた。死ぬまでそれで通すつもりだった。どうせ一過性で、時が経てば元の時間軸に戻ってくるのだから、実際夢みたいなものなのである。誘拐事件や、宇宙人襲来や、テロリスト学校占拠と同様に、蛍子にとってはいつまでも知らないままで良い物語のはずだ。そう思った。
だってもし蛍子が特殊な状況に立たされていることを知ったら、絶対それを喜ぶに違いないんだもの。待ってましたと言わんばかりにはしゃいで、問題に突き進んで、天才的な頭脳でタイムスワップの原因を解明して、そのままどっか遠い時間に飛んでいって――帰ってこなくなっちゃうかもしれないもの。そんなの絶対にイヤだよ、私。
「夢だよ」と満は言った。
「これは夢。蛍子がたまに見る変な夢。高校二年生になって、林間学校に行く夢だよ」
「・・・そっか」
蛍子は暫く満の言葉の意味を吟味し、やがて頷いた。
「そういえばそんなこと、前にも何回かあった気がする。目が覚めると殆ど忘れちゃうんだけど・・・そっか。うん!楽しみ!みっちゃんも一緒に行くんでしょ!同じクラス?」
「んーん」と満が穏やかに首を振る。「私と蛍子は、違う学校なの」
蛍子はその事実に酷くショックを受けているようだった。そうして一通り困惑を表現したところで、さっと表情が死に、とてもつまらなそうな顔になった。そういえばこの頃の蛍子はこんな感じだったな、と満は思い出す。私の前でしか笑わない子になってた。
「あ、ごめん、みっちゃん・・・」
蛍子が曖昧に笑う。私は蛍子がつまらなそうにしてるのを見ると悲しかった。だから蛍子はそんな私に気を遣って、一緒の時だけはちゃんと笑うようにしていた。
「安心して、ほっこ」
満は優しい顔で、預言者のようにこう言った。
「貴方は大丈夫。ちゃんと正しい道を進んでるよ」
――畢竟、現在マリーたちの眼下にいるあの坂東蛍子は、中学二年生の頃の坂東蛍子なのである。中二。一般的には未熟な自我が突飛な行動を取りやすい、観察保護を要するユニークな時期だ。それは蛍子に対しても当て嵌まる法則だった。坂東蛍子は中学二年の後期から高校一年の春までの間、心が冷め切っていた。彼女はそれなりの数の中学二年生がそうであるように、人生の無為さについて心底落胆していた。しかも彼女の場合、それが心的な未成熟さからくる衝動でなく、天才故の苦悩だったため、余程真に迫り、闇が深かった。排他的で、厭世的で、場合によっては攻撃的ですらあった。気に食わない事象には何だろうと容赦がなかった。それこそ一歩間違えれば悪の道に走って世界征服をしかねない予感があったし、並行世界の幾つかでは実際にそうなっていた。
そういった事情で、マリーは中学二年生当時の彼女のことを畏怖を込めて“悪の蛍子”と呼んでいたのだった。その悪蛍がここに再び現出したのである。白兎はピンが抜けかけた手榴弾を相手にするような面持ちで、今朝から護衛対象を見守っていた。
「マリー!青い瞳よ!勘弁してくれ!」
マリーはロレーヌの懇願で我に返った。集中が途切れたことに文句を言おうと振り返ると、いつの間にかすっかり景色が変わっていることに気づく。どうやら反対側の棚の上にいるらしい。
「前にも言ったろう!君は考え事をしていると歩き回る癖があるんだ!」
ロレーヌが疲れた顔でそう言った。棚の上はいつの間にか、歩き回るマリーを隠すために、バッグのバリケードだらけになっていた。
「あら」とマリーが目をパチパチする。
タイムスワップに関しては、最新作がSFだったこともあり、この設定を使えないかなとすこし考えました(使いませんでしたが。本編に出た設定でもないですし)。中学蛍子が高校でなぜ変わったのかに関しては、当サイト内に一話書いているので、完結した回でリンクを貼ると思います。