(2)
「あの、坂東さん、バベルで撮った写真ある?」
「バベル?写真?」と蛍子が隣の席で首を傾げる。「えっと・・・ごめんなさい。意図が汲み取れなくって」
やっぱりおかしい、とましろは思った。まず身長がおかしい。記憶の中の蛍子と比べて、十センチは低いように見える。
(私ちゃんと眼鏡かけてるよね・・・)
藤谷ましろは顔の一部となりつつあるソレをかちゃかちゃやりながら、蛍子を再度盗み見た。
ましろが一番気になったのは蛍子の態度だった。恐ろしく余所余所しいのだ。普段ましろに向けられる気さくな笑顔や、砕けた調子は、今はすっかり岩戸に隠れ、代わりに貼りついた表情は死を待つ昆虫のように動きがない。たまに笑顔を浮かべても品の良い微笑みだし、リアクションも映画のように物語臭い。まるで一年生の春に初めて会ったときの坂東さんみたい、とましろは思った。
入学当時の彼女は、今と同様に揺るぎなかったが、しかし何処か優しさがなかった。とにかくひたすらに強くて美しい人だった。ましろが蛍子を意識したきっかけはその強さと美しさ故であったから、隣にいる蛍子に決して不快感はない。懐かしさから感動すらあった。しかしそれとは別に、少なからぬ寂しさも心に灯った。
いったいどうしちゃったんだろう、とましろは俯く。ついこの前まで本当に絶好調だったのに。
今隣に座っている彼女はまるで氷みたいだ。
ましろは蛍子に、先日彼女が爆破事故に巻き込まれたバベルというビルのことを尋ねているのだということを、出来るだけ分かり易く説明し、改めて写真を撮っていたら送ってもらえないか頼んだ。
彼女の願いに対し、蛍子は「貴方のアドレス、それともソーシャルIDかしら、どれでしたっけ」とスマートフォンの画面を見せて尋ねてきた。
(あんなに勇気出して、アドレス交換したのに・・・)
「ごめんなさい。最近その、爆発があった時ぐらいから物忘れが激しくなってるみたいで」
「そ、そうなんだ・・・じゃあ、一時的な記憶障害か何かなのかな」
ましろは富士山アイコンで登録されている自分のアドレスを指し示し、蛍子に教えた。メールを送ろうと携帯電話を操作し始めた蛍子を見ながら、会話が続かない、とましろは焦った。こんな時自己啓発本があれば、その場凌ぎのふわっとした一言をいくつも教えてくれるのに。
図書委員は振動する自分の携帯に目を落とす。送られてきた蛍子のメールには一枚の写真が添付されていた。テレビを被った奇妙な人物と一緒に、カメラに向かってピースサインを投げかけている。写真に写っている蛍子はましろの知っている笑顔を浮かべていて、善良な図書委員はそれを見てほっと安心を吐いた。
「日付を確認したけれど、たぶんこれだけだと思うわ」
「うん、ありがとう・・・ところで、このテレビの人は、お知り合い?」
「え?あ、ああ!その人はね、外国の人で、コンビニで意気投合して、勢いで写真を撮ったの。北の方の人。テレビは文化的な理由で被ってるのよ」
どんな文化なんだろう、とましろは首を傾げた。近未来的なんだか前時代的なんだか分からない民族が、世の中にはいるようだ。
「ところで藤谷さん、私からも質問があるんだけど、構わないかしら」
身体を小さくしながらましろが頷く。
「あの人、何なの?」
「ああ、うん。桐ヶ谷さんね」
蛍子は指で、通路を跨いだ席に一人座る人物を怖々と指し示した。その少女はパーティグッズらしき馬の被り物をして、膝に手を置き正面を睨んだまま、もう長いこと置物のように固まっている。そんな彼女を警戒して近くの席のクラスメイト達も少し距離をとっており、バスの中は一部すし詰め状態になっていた。ましろは制服を着用した草食動物の横顔と目を合わせながら、ゆっくりと首を倒した。
「何だろう」
「何だろう!?クラスメイトですら解明出来ていない人なの!?」
「え!?う、ううん、いや、普段は普通・・・じゃないか、でももうちょっと普通というか・・・」
やっぱ普通じゃない人なんだ、と蛍子が呟く。
「というか、私より坂東さんの方が詳しいんじゃないかな」
「そんなわけないじゃない!あんな、人間障害物みたいなヤツと、たとえ夢でも私が付き合うわけない!」
この反応は普段通りの坂東さんだよね、とましろは一人頷いた。
「でも、付き合いがあったってことは、私が望んだってことなのかな・・・」
坂東蛍子はそう独りごちた。ましろには意味がよく分からなかった。
草葉の陰から様子を窺うように、しばし息を潜めていた蛍子だったが、青信号でバスが動きだすと共に、肉食獣さながらにひょいと跳び、茉莉花の隣席に座った。興味深そうに馬の頭を見つめる彼女を、ましろは「また喧嘩になるのでは」とヒヤヒヤしながら見ていた。
「おはよう、桐ヶ谷さん。今日は晴れて良かったね」
蛍子の初手は古来から受け継がれる人類普遍の挨拶だった。実に地球人らしくて好感が持てる。しかし茉莉花からの返答はない。
「ねぇ、その馬は何を表してるの?旅行でテンション上がってるとか?それなら私もよ」
ましろはさり気なく二人の様子を観察した。蛍子の様子もおかしかったが、それを言うなら茉莉花も大概おかしかった。馬頭もそうだが、それ以外にも色々なところがおかしい。身長は大して変わらなかったが、緊張したように背筋が伸びていて、態度から滲む空気も普段の攻撃的なそれとは比べるべくもないし、スカートから覗く脚も、心なしかほっそりとしている印象を受けた。平生の彼女の脚が太いということではない。もっと筋肉質で締まった脚という印象があったのだ。それがなんというか、より女性的になっている。ましろにはそう感じられた。
「ねぇ、私、貴方に個人的に興味があるんだけど」
蛍子が馬の耳元で囁く。人の耳の位置はそこじゃないと思うけど、とましろは思った。
「少しお話出来ないかしら」
こういう行動は確かに坂東さんっぽいんだけどなぁ、と図書委員は目を細める。
「話してれば、あっという間に目的地に着くはずよ」
実に美しい笑顔だった。それでも茉莉花は微動だにしない。
「・・・私、人と楽しくお話しすることには自信があるの」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
坂東蛍子は静かに席を立つと、ましろの隣に戻り腰を下ろした。何も言わなかったが誰が見ても完全に怒っていた。ましろは不機嫌な蛍子が未だに苦手だった。夜のライオンみたいで普通に怖いのだ。
とばっちりを食らわないように、ましろは窓の外にそっと顔を向けた。道路は大渋滞になっていた。少し前から嫌な予感を抱えていた三車線の田舎道はすっかり車で埋まり、金平糖の瓶をひっくり返したようにごちゃごちゃしている。勘弁してよ、と図書委員は窓を曇らせる。こんなの、余計坂東さんが機嫌悪くなっちゃうよ。
(あぁ、そっか、ヒーローショーか)
近隣の渋滞情報を調べ、少女は全てを理解する。
藤谷ましろには小学二年の弟がいる。そのため、バベル開店日に一般屋上フロアで人気ご当地ヒーローのショーが開催予定であったことや、そのショーがロケット事故によって中止になったこと、代替ショーがヒーローの地元で開催予定であることなどを知っていた。つまりこれはそこへ向かう人々がもたらした渋滞なのである。ご当地ヒーロー恐るべし、とましろは喉を鳴らし、新しい話の種を勇気を出して不機嫌ライオンにふってみた。
「こ、この渋滞、ご当地ヒーローショーを見に行く人たちみたい」
「へえ」
「・・・あっ、ご当地ヒーローって何だろうね?坂東さん、知ってる?」
「知らない」
「あうえあ・・・」
藤谷ましろは手提げ鞄から『ホテル・ニューハンプシャー』を取り出し、顔を隠すように本を開いた。物語の中の不幸は、旅行に向かう陽気なバスの中にさえはみ出してきそうな気配だ。ソローは未だ漂い続けている、とましろは口の中で唱えた。
この辺りはLINEというワードを使っても問題ないものか考えながら書いていたのを覚えています。
蛍子や茉莉花の謎は、今後明らかになっていくはずですが(原稿を全部読み返したわけではないので)文脈的に情報が足りなかった場合は修正を入れるかもしれません。