プロローグ
「茉莉花せんぱーい?何処ですかー?」
川を上る鮭の如く人波を逆行する花岡澄美の、元気な呼びかけ。
その声に入夏今朝は背を向けた。バスに荷を預ける生徒の列に混ざり、息を潜める。
林間学校当日の朝である。生徒らは勇者さながらの希望と絶望を背負って、未だ見ぬ新天地の勉強地獄へと向かうべく乗車の時を待っていた。そんな中に入夏の姿もあった。
遊びに来たわけではない。彼女の目的はいつだって一つだ。
入夏今朝は目を閉じ、坂東蛍子という人間への思いを確認した。
入夏にとっての坂東蛍子、それは人生の破壊者だった。生涯を賭したロケットを、完成直前で崩壊させた極悪人だ。
現在バベルは一時的に封鎖され、宇宙開発センター建設計画も頓挫を余儀なくされた。この先向こう十年は、日本で宇宙航空技術の発展は望めないだろう。国も世論も全てが入夏今朝の夢を否定したのだ。
それどころか、今や「入夏今朝」は世間から「望月嗚呼夜」と等号符で繋げられてしまった。同一人物と報道され、正義のハッカーから悪のハッカーに凋落したのだ。追われる身となった彼女に、手を貸してくれるツテなどもない。やることなすことすべてが失敗し、裏目に出ている。
覚めることのない悪夢が続く。目を覚まさせてくれるはずのロケットは、あの日成層圏を越え、空の彼方に消えた。
入夏は蛍子を許すわけにはいかなかった。
復讐だ。たとえこの命を捨てることになろうとも、坂東蛍子の人生だけは必ず壊す。
「やめろ、離せ!この無礼者が!」
バスの近くで小学生ぐらいの少女が、潜り込んで隠れていた旅行バッグごと抱きかかえられ、乗務員に退去させられている。黒丈門ざらめであった。極道の大組織、黒丈門一家の若頭である彼女は、両親によって巧妙に立場を隠され、裏世界の住人でもその素顔を知るものは少ないのだが、入夏はハッカーとして当然正体を把握していた。
「兄さんと行くのだ!旅行に行くのだ!」
なおもジタバタと暴れ喚いている少女に、松任谷理一が「誰にそそのかされたんだ」と頭を抱え、なだめ、帰宅を促している。入夏にとって最大の懸念はあの男である。彼の周辺に問題をばらまき、動きを制限する策は「これ」の他にもいくつか打ってある。
「次の方」
入夏が荷物を掲げ、添乗員の前へ歩み出る。
当然ながら、入夏はこの学校の生徒ではなく、すなわちバスに座る席などない。何食わぬ顔で補助席に座って車内カラオケ大会で手拍子を担当しよう、などと呆けたことは考えてはいない。
このバスに乗る生徒の中には、とある事件をきっかけに全国に顔が割れている生徒が二人いる。二人は今や時の人であり、ということは『責任ある大人の手であらゆる物事から保護すべき』対象であり、故に林間学校も欠席が事前に許可されていた。入夏はそこに目をつけた。内、一人とは交渉の余地などあるはずもなかったが、もう一人は欠席に俄然意欲的だった。ダメ押しに駄菓子屋でココアシガレットを箱買いしてやると、代替出席の密約は力強い握手とともにスムーズに完了した。
この密約は警察関係者にも秘匿されていた。つまりいくら松任谷理一といえど知る由もないことなのだ。自分がこの場にいることこそが、理一が何も出来なかった何よりの証拠だ。入夏はマスクの下でほくそ笑んだ。
このままバスにさえ乗りこめたなら。
後は蛍子を処理するだけだ。
現代では情報的な処理を与えるだけで、一生モノの致命傷を与えることができる。そして人を貶める下準備をするなら、今も昔も閉鎖環境で接近するのが最も手っ取り早いと相場は決まっている。
頭に被った馬の頭の被り物の位置を調整し、添乗員と目を合わせる。
彼女は当然今日も顔を隠している。ハッカーとして最低限のマナーだ。
「・・・桐ヶ谷さんですか?」と添乗員が問いかけた。
「ええ。きりがやです」と入夏今朝が裏声を発した。
核はシンプルな話なので、なるべく角をとって読みやすくなるよう善処します。
入夏の背景や心境は把握しないでも、今後問題なく読めます。
今の私が書いたら財部花梨のパートになっていたろうな、と思ったパートでした。