雨の紗
道中見えた崖の岩肌、よい絵具になる石の色が見え、きっとかなりの稼ぎになるといつもより険しい山に分け入った。結納金を早く集めたかったのもあるし、遠目にもとても質のよい石で若輩ながら素晴らしい色になると思ったのだ。
思えばあれも、あの山の不思議だったのかも知れない。
ともかく山を登って、見えた辺りまで行って石を集めるところまではよかった。近くで見た黒瑠璃は思っていたとおりに素晴らしく、長いこと槌を振るって――ぐっと重くなった袋を籠に入れほくほくとして歩き出した私は、すっかり道に迷ってしまった。
そもそも道らしい道を外れ、自分ももう一端に慣れたもんだと慢心して、印をつけるのを怠った。いや、つけていたのだが、こんなもんでと済ませて逸る気持ちそのままに石を探して進んでいったものだから、己の経験に見合うだけの数が刻まれていなかった。その上、岩や、木の幹や、どこに印をつけたのだかろくに覚えてもいなかった。
ああ困ったと焦り始めたが既に遅い。暗くなってきても止まり所を決めかねていた私はうろうろしているうちに足を滑らせてまた木々の深いところへと落ちてしまった。不幸中の幸い掠り傷と打ち身で済んだが、ああ黒瑠璃も無事だったが、もう何が何だか分からなくなってしまったわけだ。
そうして私は四日、山を彷徨った。道を探し獣の気配に怯えながら。持っていた凍り餅はすぐ尽きて、草を噛んで過ごした。
とうとう駄目になって、水場も見つけられずに乾き飢え、私は小さな洞穴に身を寄せた。もう死ぬんだろうかと恐ろしくなったが、動けなくって、横になってぼんやりとして、誰か助けに来てくれないものだろうかと祈っていた。
そうして半ば諦めているときに、雨の匂いがした。見る間に外はさあさあざあざあと土砂降りになった。
何より喉が乾いていたから、天が死ぬ前にお情けをくださったんだと思ってね、私は洞穴の縁まで這い出て、掌に水を受けて喉へと運んだ。最初は舐めるようなものだったが、すぐにごくごくと飲み干せるほど溜まって乾いた体を潤してくれた。それほどの雨だった。
その雨の、水の、美味かったことと言ったら。甘かった。どんなに高い茶も酒も及ばぬ。極上の物だった。私は夢中で飲み干した。
だが人心地つく頃には、雨の強さは見たことのないほどになって、外は何にも見えなくなっていた。さすがに変だなと思って少し怖くなるほど心に余裕ができた頃合いに、すと、目の前に、外から差し込まれたものがあった。
それは、年若い娘の白い手だった。子供に近いくらいの、小さくて柔らかそうな。
――やんごとない方々の部屋や輿の御簾だとか、紗だとか、そういう物があるだろう。雨がそんな感じだった。向こうからちょいと掻き分けて、手だけ差し出した。
誰か来てくれた、とは思わなかった。いや来てくださったには違いないが、あれは明らかに人ではなかった。雨の御簾の先の姿はまったく見えず、急に手だけが出てきたようだった。人里からの助けなどではなく、死の国からの使いといったほうがらしかった。
怖いような驚いたような、まだぼんやりとしているような。そんな私が呆然と見つめる間に、手は金梅の花を一つ、私の膝の上に置いて引っ込んだ。
雨だけが見えた。掻き分けてみる勇気は、無かったね。なんとなく、そりゃ失礼だと思った。
雨は徐々に弱まって、やがて止んだ。
やはり向こうには誰の姿も無かったが、私の膝の上に梅はたしかに残されていた。死にかけていた体は不思議と元気になっていた。動けるようになった私は小さな花を手にふらと外に出た。すると点々と、広がる山の景色の中に黄色い物が見えた。我々が山に入るときの印のように、膝に残された物と同じ金梅の花が地面や木々の枝葉の上に置かれていた。
帰れる。道が分かる、示されている。気がついて、私は籠を手に一目散に山を下りた。
そう、石を詰められるだけ詰めて、あんなに重い籠なのに四日間もこのときも手放さなかった。ずっと欲の皮が張っている、命より金のほうが大事なのだとからかわれたが、惜しいなどと考えたわけではない。ずっと当たり前に持っていたのだ。言われて気づいたほどだ。
でもこれは、あなたも知ってのとおりとても美しい色になって、高値がついたし――きっとそういうものだったのだろう。
これを持ち帰らせる為にあの雨は、あの手は、来たのではないかとさえ思っているよ。
「絵師も同じ話を聞いて描き上げたのだと申しておりました。驚くほどあっさりと、しかしよく描けたそうです。絵具に導かれたようだとも」
降りしきる雨の合間から差し込まれる金梅を掴む娘の手。二年ほど前に買い付けて執務室を飾っていた掛け絵は、元々は確かに話に聞いたとおりの、そういう絵だった。
黒瑠璃の色で刷いた雨の中、すっと浮かび上がる白い腕と金梅が光明のようで、何かよい閃きを与えてくれそうではないかと帝は話をしていたものだった。
絵に異変が起きたのは三月前、緑葉の祭が行われていた頃だ。それで謂れを調べに行き、画商やら絵の所有者を四人、絵師と絵具商を介して戻ってきたのが昨日。
「書寮をあたったところ、二百年ほど前にあの山に言い伝えられた話がございました。山の名は瑞の座と」
書寮に入るのはほんの数時間で済んだ。絵具商がちゃんと地名を覚えており、その辺りは田舎なので史料が然程多くなかった。何も手がかりがない可能性も高かったが、どちらにせよ時間はかけられない仕事だったのだ。
見つけた折本は卓上に広げてあった。近隣、大小八の村々で起きた、多少書き留めるに値する出来事を一括りにしたものだ。その中ほどにあった。絵を眺めて話を聞いていた主の目が書面へと落とされる。
――日照りが続いたある年、北の村の十を過ぎた娘が山の神の嫁に選ばれた。
名は分からない。村一番の美しい娘だったとも、親なしの価値のない子だったとも云う。ただどちらにせよ贄を出した村は貧しく、娘にまっとうな嫁入りの格好をさせてやることができなかった。
一応は身綺麗にしてやったものの、輿は勿論、顔を覆う紗や、花嫁に差しかけられる傘は無かった。
ただでも普通に嫁入りできぬのに、憧れた花嫁衣裳もない。娘はきっと悲しかったことだろう。なけなしの白粉と紅で作った顔さえ、まっすぐに差す日に呼ばれた汗で滲んでいった。
これは想像だが。
「……祝詞の読み上げが終わると急に雲が集まって凄まじい雨を降らせ、嫁入り娘を攫って消してしまった。その雨で皆助かった」
「生贄の話の結びとしてはよく聞くものではあります」
一節を辿る声には頷いたが、絵具商の話を聞いていた自分は違うことを考えていた。主もそのようだった。もう一度掛け絵を確かめて、それからこちらを見た。
「しかし。乱暴に、巻いて担いで行ったようには見えなんだ」
「ええ。……紗越しの奥方に見えます」
多分。神様がかけてやったのではないかな、雨を。
御簾や傘や、顔を隠す紗の代わりに。そうして、憂い顔を隠してしまわれたのではないか。そうでなければ、あんな顔のわけがない。
掛け絵の中で。美しい黒瑠璃で描かれた、降る雨の中で。
女が雨を手で分けてこちらを眺めている。和やかな笑みを湛えて雨越しに何処かを見ている。
「うむ、うむ。やはり言ったとおりだった。悪い霊や怪だとは思わなんだ。山神に連なる御寮が現れたとあらばむしろよき絵であろう」
主は、絵の持ち主である帝は満足気に頷いた。
絵が変わった、女が見ている、と騒ぎになり、やれ霊だ怪だ障りがあると案じて口々に掛け絵を外すよう――燃やしてしまうよう言う臣下たちがあまりにうるさくて。姿が変わっても絵を気に入っていた帝は私に絵の謂われを調べるよう言いつけた。
呪い師が適任ではと思ったのだがそれでは何も知れぬまま燃やされてしまいそうだから、一夜千里の足だけ持て余している暇役人にしたのだそうだ。天帝の子孫たるお人の割に呪い師の類にいまひとつの信用が無いのはどうしたものかと思えど、褒美を賜わる以上文句は言うまい。
願い出る物はもう決めてある。上物の絹織物、黒瑠璃色の雨のような紗を頂くのだ。どう飾ろうか、何を仕立てようか。浮き立つ心は未だ抑える。主の許しを得て御前より去るまでは。
「きっと外を見ているのだね。もっと景色のいい場所に掛けようかい」
それからというもの、我が国は雨に困ることがなくなった。掛け絵はたまに場所を変えながら帝の部屋を飾っている。