第01話 フォア・アフュー・ダラーズ・モア
突き出した木の根を跳び越えながら獣道を駆けるのは、旅慣れた少女の足でも難事だった。
鬱蒼とした道を抜け、森のなかにあって丈の低い草ばかりの、まるで台風の目のように小さく開けた場所に出る。その時既に、膝は笑い始めていた。
状況は、はっきり言ってマズい。
吐き出す自分自身の息すらうるさく、鼓動と血の流れはドンドンと頭蓋を叩いている。
もうコレ以上、逃げ続けることは、どう考えたって無理だった。
少女は辺りを見回し、身を隠せるような所を探すが、屋根も殆ど破れた廃堂以外見当たらない。
遠い昔に、東方よりの異教徒が建てたと思しき堂は、殆ど腐っていて立てこもることもできないだろう。
少女は意を決して足を止め、振り返る。
まだ幼さの残る顔を疲労と決意に強張らせながら、迫る闇の向こうの足音を睨みつけ、立て膝を突いた。
帽子がずり落ちてきたのを直し、額に汗で張り付いた銀髪を払う。
右手に握っていた錫杖を捨て、赤いマントを跳ね上げた。
吊るした矢入れから得物を取り出し、短い矢を番え、弦を引く。
片目をつむり、狙いを合わせる。
満天の星と月のもと、標的の姿は夜ながらはっきりと見えた。
鬼灯のように燃える赤い瞳が、自分を餌食と狙っているのをありありと表している。
身長は8フィート余り(約2.5メートル)。筋骨隆々。
下半身は茶色の毛皮に覆われ、足先は蹄となっている。上半身は人間のものと似るが、頭部は人間のものとは異なっていた。
牛である。牛の頭なのである。
牛頭の怪物なのである。
赤い目をした牛頭の怪物が、猛烈な速度で迫っているのである。
――クハァァァァッ……と、怪物がその息を吐いた。
黄色く濁って見えるほどに濃いその息は、まだ距離が開いている筈の少女のところまで臭うほどだった。
臭い。酷く臭い。肉食獣特有の、餌食ばかり喰らっているが故の生臭さだ。
この怪物は牛頭ながら、人を食らうのである。
森の一角で出くわして以来、ずっと駆け続けたが逃げ切れない。
交渉の通じる相手でもない、逃げ切るためには斃す他はない。
少女は金色の眼を細めると、弦をより強く引き絞る。
自分を追う標的は巨大だ。だが素早い。仕留めるチャンスは限られている。
少女は嫌な汗が肌を伝うのを感じたが、拭っている余裕などない。
土煙を上げ、地響きを立てて迫る相手に、もう一刻の猶予もない!
――今だ! と思った瞬間に少女は矢を放った。
少女が手にしているのは木と動物の革と腱と骨とを組み合わせて作った弓である。
小さいながらも威力は充分、な筈である。
「!?」
しかし矢は標的を射抜くことはなく、唸る棍棒の横薙ぎによって払われていた。
標的はそのまま棍棒を振りかぶり、少女目掛けて突進を続ける。
少女は二の矢を番おうとしたが、間に合わぬと悟って弓を投げ捨てた。
錫杖を右手に拾い、左手には腰元から引き抜いた短刀を構える。
だが、構えたときには、相手は既に目前まで迫っていた。
「――がっ」
短剣を振るう間もなく、横殴りの一撃に体が宙に舞う。
左手の骨が軋み、筋が叩き伸ばされる音を聞きながら、少女は暫し宙を駆け、破れ障子へと突っ込んだ。
朽ちた紙片を、煤けた木片を飛び散らせながら、少女の体は廃堂の、半ば腐った板の間へと叩きつけられた。
それは彼女にとっては幸運なことだった。柔らかくなった木々は、クッションの役割を果たしたからだ。
とは言え、状況は何一つ改善していない。
「――ッッッ」
痛みに霞む目で、襲撃者の姿を少女は見た。怪物は、堂の戸口に既に立ちはだかっている。
少女は、その場から逃れんとあがいたが、うまくいかない。
肺を打ったために、体がうまく動かないのだ。
歪む視界のなか、牛頭の怪物が廃堂の中へと踏み込んでくる。
その巨体に、腐りかけの床板が軋む。
元は倒木の幹と思しき棍棒を、構え、少女をひき肉にせんと迫り来る。
絶体絶命の窮地。
『……こんな夜更けにうるせぇなぁ』
聞き知らぬ声がしたのは、まさにそんな時だった。
瞬間、強烈な光が夜を昼と変え、同時に鳴り響いた轟音に、少女は思わず両目を瞑る。
――ぐわおおっ!?、と、怪物が呻きを上げて、廃堂から転がり落ちるのが音で解った。
少女は目を開けた。
昼に変わった筈の夜が再び下りてきて、廃堂の中は闇が立ち込めていた。
その闇の奥から、ぬっと人影がひとつ現れた。
暗くて少女には顔が良く解らなかったが、それは男のようであった。
そしてその手には、奇妙な形状の筒のようなものが握られていた。
『ちょいと失礼』
奇妙な響きの声でそう言うと、男は少女の上を跨いで廃堂の外へと向かう。
月光に照らされて、男の姿が明らかになった。
口ひげを生やした男で、ひさしの大きな帽子をかぶり、革で作った外套をまとっているのが解った。
男は手にしていた筒状のものを廃堂の床の上に捨てると、外套の裾を翻らせて屋外へと飛び出した。
少女には、男の正体に心当たりがあった。故に、その名、というよりもその通り名を呟いた。
「まれびと……」
夜を昼と変え、雷のような轟音を発し、筒状の不可思議な武器を使う者と言えば、それしかありえない。
――相変わらず、人生というやつはいかにも唐突でままならない。
またも前触れもなく『こちら側』へとやってきた私は、その最初の一夜すら万事こともなく過ごすことは出来なかった。
誰とも出会わず森を彷徨い、仮の宿に定めたのは、ボロボロのあばら家。
床板は腐ってるしカビ臭いしだが、それでも屋根があるだけマシといえる。
清國人の住居を連想させる意匠のあばら家は、元は何かの神殿だったらしいが、今では廃屋に過ぎない。
裏に愛馬サンダラーを繋いで、神様らしき像の傍らでうつらうつらとしていた所に、コレだ。
――呼び出された時点で覚悟はしていたが、一晩も安穏と眠らせてくれるつもりはないらしい。
飛び込んできたのは小娘と化物。
どっちの味方をするかは言うまでもない。
仮の寝床にしていた廃屋から外に出た。
廃屋の前だけは木々がなく、雑草の茂る開けた場所になっている。
私は、弾の切れたハウダーピストルを捨てた。
切り詰めた水平二連式散弾銃によく似た見た目のそれは、散弾の代わりに60口径の鉛玉を装填する凶悪な代物だった。元々は密林で猛獣に出くわした時に、出会い頭にソイツをしとめる為にと作られたブツで、私はホテル以外の場所で夜を過ごすときにはコイツを必ず枕元に置いていた。
撃鉄は2つあり、したがって引き金も2つある。その2つの引き金を針金で繋ぎ、一度に二発撃てるようにした。
つまり、この牛頭の怪物は60口径を二発同時に食らったことになるわけだ。
それが、どうだ。
「……まだくたばってないわけか」
私は別に驚かなかった。
『こちら側』では、それは驚くに値しない。
どう見ても人食いの化物である牛頭は、胸から血を流しながら、うめき声を上げつつも立ち上がろうとしていた。
そういう訳で私は、腰に吊るした二丁のコルトを抜いた。
「DUCK YOU SUCKER / くたばれ、糞ったれ」
夜の闇にマズルフラッシュが花のように咲き、轟音と共に白煙と銃弾が吐き出される。
36口径のコルト・ネービーでは、このデカブツを一発でしとめるのは無理だろう。
私は躊躇うことなく、左右のコルトの引き金を交互に弾いた。
白煙が立ち込める様は、まるで汽車から吐き出される蒸気のようで、鳴り響く銃声は鳥どもを眠りから叩き起こし、夜空にバッと群れが飛び立つ。銃声と白煙の合間に、牛頭の悲鳴と、飛び散る血肉が踊る。
十二発。撃ち込む頃にはさすがの化物も虫の息で、馬鹿でかい棍棒もその手のひらからこぼれ落ちていた。
それでも、化物はまだ生きていた。
「……」
私はダスターコートを左右に開いた。
前の出来事、エゼルの村での戦いで私が痛感したのは、ヘンギースやスツルームの魔術師連中みたいな化け物どもを相手にするには、二丁のコルトと一丁のエンフィールドだけでは足りないということだった。
だから、私は目一杯の銃を普段から持ち歩くことにした。
ダスターコートの下には、弾を撃ちきったコルト・ネービー二丁の他にもまだ五丁のコルト・ネービーが控えていた。
弾切れの二丁を腰のホルスターに戻せば、私は両脇のサイドホルスターより新たに二丁のコルト・ネービーを抜く。短銃身仕様、グリップも出っ張りの少ないバーズ・ヘッドモデルに換えた、上着の下に忍ばせるのに適した特別製だ。しかし、威力には変わりはない。
私は牛頭の両目目掛けて引き金を弾いた。
「おい。もう良いぞ」
コルトをホルスターに戻しながら、私は廃屋のほうへと呼びかけた。
のそのそおずおずといった調子で、小娘が外へと出てくる。
改めて見ると、奇妙な格好の娘だった。
赤い、先っちょの曲がったとんがり帽子に、同色のマントを纏い、その下は先住民を思わせる、獣皮から拵えたズボンに上着といった出で立ちであった。
右手には先端部に二匹の蛇が絡みつき、二枚の翼の生える意匠を備えた杖を持ち、腰には短刀を差している。
肌は浅黒く、見目形は悪くない。ちょいと幼い印象だが、充分に美少女といえる面相だ。
赤い先折れとんがり帽子の下からは、長い銀色の髪が伸びていた。爺さん婆さんの色が抜けただけの白髪とは違う、シルクのような柔らかい銀色で、それは私も思わず見とれてしまう程だった。
『……』
娘はその不思議な金色の瞳で私をジッと見つめていた。
敵意悪意のある視線ではないが、何を考えているのかは窺えない。
結構な間、娘は私を見つめていたので、私は居心地が悪くなって身じろぎした。
それを合図にしたわけでもあるまいが、唐突に娘は走り出すと、私の両手へと飛びつき言った。
『まれびとさんですか! まれびとさんですね! まれびとさんですね!』
突然まくし立てられたもんだから、私は目を白黒させつつ曖昧に頷いた。
すると娘は満面の笑みを浮かべ、感極まったといった調子の声で叫んだ。
『不敗の太陽! 光の君! 真実の神! 死から救うもの! 浄福を与えるもの! 広い牧場の君!ナバルゼ! アニケトス! インスペラビリス! インヴィクトゥス! そして牡牛を屠るもの、ミスラよ! 偉大なる君の御印に感謝いたします! 私めを「まれびと」と相見えさせまし給いたることを!』
神がかった説教師のようにまくしたてるものだから、私は思わず彼女の手を離しそうになったが、しかしガッチリと握られていて離せない。
金色の双眸は感激によってさらに輝きを増し、星が瞬いているかのようだった。
『あ、そうだ! 少々お待ち下さい、まれびと殿! 』
飛びついてきたのと同様の唐突さで、彼女は私の手を離すと、駆け出した先は例の牛頭の怪物の所。
何をする気かと思えば彼女は、死骸の上にまたがると、牛頭の角を掴んで首を持ち上げ、腰元の短刀を引き抜き、流れるような動きでその喉首を掻っ切ったのだ。
既に死した怪物故に、流れ出る血には勢いはないが、それでも充分に夥しい血が大地へと注がれる。
唐突に次ぐ唐突な彼女の行動には、私も唖然として言葉もないが、彼女はと言えば両目を瞑り、修道士みたいな悟った顔で何やら祈りらしきものを唱え始めた。
『……汝の流す血によりて、我らは救われん』
ボソボソと呟いていたために、聞き取れたのは最後の部分だけだった。
その最後の部分を唱え終わるやいなや、ある意味、化物以上に奇怪な光景が私の目に飛び込んでくる。
地面に流れ、広がった牛頭の血から次々と何かが生えてくる。
それは麦だった。麦穂だった。
次々と伸びてくる麦穂は最初は青々しく、しかし瞬きする間に色は金色に変じている。
数秒としないうちに、化物の死骸の傍らには小さな麦畑が出来上がっていた。
『私もいささか片腕が傷んでおりますし、まれびと殿も一戦経てお疲れでしょう。腹を満たして精気をつけねばです』
よく見ると彼女の手にした湾曲した短刀は、麦穂を刈るのに適した形をしていることに、私は気づいた。
『さぁどうぞ、まれびと殿。ぜひ召し上がってください』
「……ああ」
差し出された椀を私は受け取った。
中身は芳しい香りを放つ麦粥であり、正直空腹気味だった私には極めて魅力的に見える。
前回同様、前触れもなくこちら側に飛んできたものだから、銃の備えはあっても食い物の備えまではしていなかったのだ。干し肉をサドルケース――鞍に付属した雑嚢だ――に少々突っ込んであっただけで、ほかは何も持ってはいなかった。我ながら少々迂闊だとは思うが、ここに来る前は比較的短い距離しかない町と町の間を移動中だったので、それで充分だと思っていたのだ。
そんな折、件の娘が不意に森の中へと走ると、すぐに荷物を抱えて戻ってきたのだ。
あの化物から逃げる時に投げ捨てたものらしいが、荷物の中には鍋が入っていた。
彼女は驚くべき素早さで麦を刈り取り、籾殻を取ると、雑嚢からラードらしきものと少々の水を取り出して麦を粥にしたのである。
しかし、この麦がどうやって出来たものかを知っている身としては、素直に食べて良いものかと躊躇う。
『僅かながらですが油も垂らしました。味については申し分ないかと思います。血から麦穂を作ることで、ゴーズ特有の血肉の毒素も抜けていますから』
どうも考えていることが顔に出ていたらしい。
少女はやや慌てた様子でそう注釈する。
どうでも良いが、あの牛頭の怪物はゴーズとか言うらしい。
「……いただこう」
結局、私は空腹に負けて粥をすすった。
腹腔に染み渡るとはこのことか。ひと仕事終えた後の飯は格別だった。
「美味いな」
『恵みの麦穂です。普通に育てるのとは訳が違います』
彼女は誇らしげに言った。そして彼女自身も美味そうに麦粥を食らう。
暫し言葉もなく、粥を私たちは食らった。
腹も満ちてきて頭が回ってくると、ようやく私は、彼女の名前もまだ知らないことに気がついた。
「名前は?」
彼女は即座に答えた。
『大ガラスのアラマです、まれびと殿』
まるで与太者か先住民の勇者のように、少女は二つ名つきで名乗った。
大ガラスのアラマ……何やら知らないが、曰くのありげな名前だ。
『レギスタンが都マラカンドの北、アフラシヤブ を目指す旅の途中でした。先程のことは感謝の念にたえません。使命の半ばで命を落とすところでした』
何やら聞き慣れぬ単語が連発するが、どうも地名らしいことが私にはかろうじて解った。
「その……マラカンドとやらは、ここから遠いのか」
『あと3日ほどの旅路です、まれびと殿』
「ここら辺りで他の町は?」
『7日ほど道を西に向かえば、ホカツの町に着きます』
「……」
思案するまでもなかった。他にどうしようもない。
「見たところ、道中も物騒だ。そのマラカンドだかって町までは、俺が用心棒を引き受けても良い」
アラマの金色の瞳に、またも星が瞬く。
『願ってもないことです! やはり私がまれびと殿と出会ったのは不敗の太陽の思し召しに間違いないです! 貴方を導く役が私の使命に違いありません! まさしくこれぞ大ガラスたるこのアラマにふさわしい!』
この後また、何やら得体のしれぬ聖句だか呪文だかが続いた。
それを半ば聞き流しながら私は考えていた。
何が起こっているのかは解らないし、何が目的でまたも呼び出されたかは知らない。
しかし、ひとまずは生き延びることが先決だ。
彼女は何やら説教師染みていて得体が知れない。
それでも彼女と共に旅すれば食いっぱぐれることだけはなさそうだった。