第12話 ブラッド・アット・サンダウン
アラマが呼び出した怪物は、私にとっては全くの未知のものだった。
砂地を踏みしめる足は鳥のようで、四本の指にはそれぞれ鋭利なナイフ、いやその大きさを見るに山刀と呼ぶのが相応しい鉤爪がついている。
その足の生えた下半身は黒い湿った質感の鱗に覆われていて、針のある長い尾っぽがある。蠍だ。蠍の尾っぽである。下半身は蠍で、脚は鳥なのだ。下半身の、ちょうど人間で言う腰の辺りからは左右一本づつ、蠍のように鋏を持つ手が伸びていた。
上半身は人間のものだが、その大きさは人間離れしている。グリズリーめいた巨体は、素手ならば相手をするのは御免被りたいほどの威圧感だ。おまけに肌は青黒くて、まるで動く屍人だった。
髭まみれの顔は仰々しく、頭には円筒形の帽子がのっかっていて、二本の角が生えていた。
意外なことに、筋骨隆々とした両手に持った得物は、先住民が使うような弓矢だった。いかにも怪物然とした見た目なのに飛び道具を使うのは何とも奇妙だが、その姿の奇妙さを前にすれば瑣末事に過ぎない。
私も昔語りだの法螺話などでいろんな化物について聞いたことはある。角の生えたウサギだの、馬面で赤い目をした悪魔だのの話だ。しかしこの怪物はそんな御伽噺に出てくる連中とは全く異なる姿をしていた。「こっちがわ」が「私らの住むがわ」が、全く違う世界なのだと改めて感じさせる姿なのだ。
『往け! ギルタブルル! 不敗の太陽の差す方へ、汝の敵を討ち滅ぼせ!』
アラマが大声で叫ぶのが、風に乗って聞こえてきた。
ギルタブルル、それがこのバケモノの名前らしい。
アラマの号令に従って、ギルタブルルは何とも形容し難い咆哮を放つと、蝗人どもへと襲いかかる。
私は弾切れのコルトをホルスターに戻し、サンダラーの首筋をポンポンと叩いた。
あの怪物は回りに気を配りながら戦ってくれるような手合にはとても見えない。私の意図を察して、サンダラーは怪物どもから距離をとった。
蝗人どもは最初こそ驚いていた様子だったが、例の金属的な叫び声とともにギルタブルルへと飛びかかる。
数で勝っているのだから、四方から一斉に襲いかかれば問題ないとの判断だろう。
――が、甘い。
一対の鋏が横薙ぎに振るわれれば、何匹もの蝗人が紙屑のように吹き飛ばされ、背後から襲いかかった連中も尾によって同じ目に逢う。
最悪なのは尾の針に突き刺されたヤツで、しばし苦しんだ後に、全身がバターのように溶けて砂へと染み込んでいく。どうやらあの針に入っているのは、毒というよりも酸であるらしい。針先から万年筆のペン先のインクめいて飛び散らされた酸液は、蝗人に降り掛かって次々と溶かし殺していく。
私はウゲぇと顔をしかめてそんな様を見ていたが、恐怖心など欠片もなさそうな蝗人にとっても同類共の有様は怖気をもよおすのに充分な惨劇であったらしい。
ギルタブルルに背を向け、潮がひくように蝗人共の大群が後退し始める。
逃げ遅れた間抜けを、ギルタブルルは鋏で真っ二つにし、あるいは丸太ほどもありそうな太い矢を、蝗人共の背中へと射掛け、追撃する。
命がけの追いかけっこが始まるのを遠巻きに観戦しつつ、私は大きく迂回してアラマ達のところへと辿り着いた。
気を失ったイーディスを八本脚馬に載せて紐で固定したりと、アラマと色男は引き上げる準備を万全に済ませていた。
私は、もはや遠くから響く阿鼻叫喚を聞きながら訊いた。
「あのバケモノが虫どもを退治しそうな勢いだが、帰るのか?」
『ギルタブルルを現世に留めておける時間は短いのですよ。もう暫くすれば、彼は彼の世界へと帰ります』
極めて納得のいく回答だったので、私は黙ってうなずき返した。
かくして私たちは、ギルタブルルが消えて一転、雄叫びを再び挙げ始めた蝗人どもに見送られ、廃都を後にするのであった。
落ちつつある夕日を浴びて、その表面の青に紅を浮かべた『文字の館』の最奥。
『連中が丘から帰ってきたぞ』
暗闇のなかで、いつものように粘土板に指を這わせるフラーヤに、男はそう告げた。
庇の大きな帽子の下に見える黒い顔は、相変わらず無表情で何を考えているのかも解らない。
一方フラーヤも、その灰色の濁った瞳を何もない闇の空間へと向けたまま、ただひたすらに指を動かしていた。
不意に、フラーヤは訊いた。
『何か持ち帰ってきましたか?』
『何も』
それで会話は終わった。
二人の間には沈黙が流れ、闇はひっそりと静まり返っている。
男は夜目が効くために、ある程度この暗がりのなかにあっても詳細を見取ることができた。
本来、この垂れ込めた黒い帳を破るためにある燭台は、とうの昔に炎の種が潰えたと見えるが、フラーヤにはそれを気にする様子もない。
部屋は分厚い板で頑丈につくられた本棚に囲まれ、その中には数え切れぬ粘土板が夥しく詰め込まれている。男は読み書きができない。故に書にも興味を持ったこともない。しかしこの時ばかりは、この圧倒的なる文字の累積に、聳え立つ山嶺を前にしたかのような威容を感じ、その只中で超然として佇むフラーヤに、何とも言えない怖気のようなものを覚えた。
『ねぇ知っている?』
そんな男を現実に引き戻したのは、フラーヤが発した唐突なる問いだった。
見えぬはずの目を男の方へと向けながら、返事も待たずに言葉をつなぐ。
『盲人にはこの闇がどう見えているのかを』
『……?』
男には意図の解らぬ問いかけだった。盲人は眼が見えぬから盲人なのではないのか。
『もしも本当にすべてが闇の黒で覆われているのならば、私や同輩達は皆、心静かに夜を越えられるだろうに』
『そうではないのか?』
男が問い返すのに、フラーヤは曖昧な笑みを返した。
『この不確かな霧の世界……そこには青があり、緑があり、灰がある。でも、黒と赤はここにはない』
彼女の言葉もまた曖昧模糊として捉えようがなく、いよいよもって男は混乱する。
『願わくば、我にまことの黒を、まことの闇をたまわらんことを。闇に抱かれ、闇に支えられて眠らしめんことを』
詠うような、あるいは詩を紡ぐような彼女の言葉は美しかったが、男はなぜか背筋が寒くなった。
声に込められた、何か執念じみた感情のうねり。その正体は解らないが、真っ当なものではないのは確かだ。
『……監視だけは続けなさい。きっとまれびとと大ガラスが、求めるものを探し出してくれるから』
何も返さない男に飽きでもしたか、フラーヤは言うだけ言うと黙り込み、粘土板の方へと没頭してしまった。
男は、闇の中へと再度消えた。
独り残されたフラーヤは、指でなぞり読んでいた土作りの書の、最後の一文を声に出して呟いた。
『我ら集いを成さん、アルズーラの首において……』
マラカンドへと私達が戻ったのは日も落ちる寸前で、あとすこしばかり遅ければ荒野で野宿を強いられる所だった。チャカルの兵営に足早に戻れば、色男と二人でイーディスを彼女の部屋まで運んでベッドに転がした後、疲れ切っていた私や色男はすぐに寝床に入った。アラマだけは何やら興奮してまだ起きている様子だったが、流石に付き合う元気もなく、怠け者のように日が昇ってからもいびきをかき続けるほどの深い眠りに私は落ちた。無論、枕の下にコルトを忍ばせることだけは忘れない。
私はやはり怠け者のように遅く起き出し、怠け者のように遅く飯を喰らった。
既にやや斜めになった太陽からの光が、ガラスもない窓から燦々と降り注ぐなか、チャカル兵営の食堂には私以外に人影もない。私が静かに粥のようなものを食らっていると、扉が勢い良く開いて、闖入者の登場だ。
アラマだった。
『行きましょう! ぜひもう一回行きましょう!』
アラマは唐突に現れたかと思えば私へと駆け寄ると、テーブルを両手で叩きながら興奮した様子でまくしたてたのだ。
私は、彼女の余りの大声に驚いて手にした匙を落としそうになったくらいだった。
寝ぼけていても私はガンマン、反射的に手がコルトに伸びそうになったせいだが、いくら昨日一戦やらかしたとは言え、我ながら気が立ちすぎていると反省する。
匙を手の中でくるりと回し、改めて中身の粥然としたものを再度かっこみながら。
「つい昨日、死にそうな目にあったばかりだぞ、何でだ?」
私は至極真っ当な質問を彼女へと返した。
アラマが一人起きていたのは知っていたが、その手の中に握りしめられた巻物を見るに、何やら調べ物をしていたらしい。彼女が何やら曰く有りげな巻物の類を雑嚢に詰めていて、それを旅の道すがら時々開いている様は既に見て知っていた。おそらくは手の中のそれを見直したのだろう。
『「ヤシュトの書」にうたわれし讃歌を改めて詠めば、このような一節にあたったのですよ! 偉大なる君の広き牧場を侵すものに禍あれ! 地の底の獄よりパズズの児ら湧きい出てて咎人に報いせん! と!』
「ほう。……で、そりゃどういう意味なんだ?」
生返事をすれば、アラマは私のやる気のない瞳の色にも気づくことなく、まくしたてる口調で熱く講釈を続ける。
『パズズとは熱風と疫病を運ぶ魔神、そして蝗の雲を司ります。そのパズズの児と言えば、蝗人たちに他なりません! その最奥の神殿に踏み込もうとした時に蝗人たちが現れたのです! つまりあの神殿こそが我らが不敗の太陽、偉大なるミスラが君として治めなさる広き牧場に違いないのです! やはり言い伝えにあるダーラヤワウシュが王城の最奥との言い伝えは間違っていなかった! あの神殿の美しさも、まさしく不敗の太陽に相応しい!』
「へー」
アラマには悪いが、私は半ば彼女の話を聞き流していた。
何が見つかるかは知らないが、流石にもう一度あそこへと向かう気は私にはなかった。
確かにあの廃都の美しさは一見の価値がある。だからといって物見遊山に命を賭ける気にはならない。
『ですので行きましょう! ぜひもう一回行きましょう!』
「やだよ、んなの」
『……?』
「いや、え?じゃねぇよ。嫌だよ行くの。俺は行かないぞ」
『……』
「そんなこの世の終わりみたいな顔されてもなぁ……」
アラマは余程のショックだったのか、すっかりうなだれてしまって眼が虚ろだ。
流石に可哀想に思って実にバツが悪いが、しかしこっちの手持ちの弾にも限りがあるのだ。余り切った張ったが続くのは勘弁して欲しい。
どう答えたもんだと私が手をこまねいていると、横から助け舟が出された。
ただし、私への、ではなくアラマへの、であるが。
『生憎だが、御前には付いてきてもらうぞ』
「……俺にはお前さんの加減のほうが気になるがね」
コチラへと青い顔をして、ややおぼつかない足取りで歩み寄ってくるのはイーディスだった。
「昨日あんなぶっ倒れ方をしたのに、そんな歩きまわっちゃ体に障るぞ」
『心配の情が骨身に染みる所だが、生憎あの程度でくたばるほどヤワではないさ』
「それで? 俺がついてこなきゃならんとか、いったいなんの話だ?」
アラマの隣にイーディスが座ると、私は彼女の口にした気にかかる話を問いただす。
イーディスは少しばかり調子が悪そうでありながら、相変わらずの獣染みた笑みとともに答えた。
『あの神殿には絶対に何かがある。近づいた瞬間に蝗人どもが湧いて出たのはその証だ。罠なのさ。奥にある何かを手にせんと踏み込むもの達への。そしてそこまでして守りたい何かが奥にはある』
「……ふぅむ」
言われてみれば一理ある話で、もしも命がけに値する金銀財宝が本当に眠っているのならば、私とて少しは悩んだ。悩んだが、やはり首は横に振る。
「昔知り合った中国人が言っていたよ。孔子曰く、『君子危うきに近寄らず』だ」
『なんだ。まれびとらしからぬ物言いだ』
「悪いね。俺はこう見えて慎重なんだ。分の悪い賭けにはのりたくない」
『のらなくちゃ駄目なのさ。その分の悪い賭けに』
「なんで?」
イーディスはニヤニヤと笑いながら訳を話した。
『実はさっき御前に話したのと同じ中身の話を王にも具申した。ナルセー王は大変興味を示されて、早速、チャカルの一隊を率いてアフラシヤブをおさえよとの御達しだ。明日にでも出発する。当然、チャカルの禄を食む御前にも来てもらう』
アラマが一転、満面の笑みを浮かべるのを見ながら、私は自然と苦虫を噛み潰したような顔になった。
まぁ良いさ。今度は大勢で仕掛けるのだから、滅多なこともあるまい。
この時はそう、思っていた。そう思っていたのだった。
マラカンドの街が、チャカルの出撃の噂で慌ただしくなっていた頃の、さる路地の一角。
こんな会話が交わされていた。
『いかがする、かの丘に遂にエーラーン人が踏み込むという』
『彼の地は父祖の代は我らのものであった場所。あそこまでエーラーン人にくれてやる謂れはない』
『エーラーン人は強欲だ。各地の商館長からもエーラーン人の横暴への苦言が増えておる』
『エーラーン人はなまじ読み書きができるから始末が悪い。前のフーナの王共は文盲だった。だからいかようにもできたものを……』
『いかがするロクシャン。このまま見過ごすか』
集まったお歴々を前にして、泰然とした様子のスピタメン家頭領は告げた。
『各方、お騒ぎあるな。仔細なきこと。かの地はスグダのものであると、直接のりこんで示すまでのこと』
『しかし、エーラーン人の放った一隊には「まれびと」が混ざっていると聞くぞ。それをどうするのだ』
『毒は毒を以て、夷は夷を以て』
ロクシャンはでっぷりと膨らんだ腹をさらに吸気で膨らませ、それを吐き出しながら言った。
『「まれびと」には「まれびと」をぶつけるまでのこと』