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怖い短編

作者: 井川林檎

時間を逆流するようにして、海に会いに行く。

 白い浜に寄せては返す。

 単調なようで、一瞬たりとも同じではない波音だ。

 風が沖からごうごうと吹いてきて、も空はどんどん暗くなってゆく。


 真昼の浜には誰一人といない。

 こんな曇天の寒い日に、浜辺で遊ぶ気になる人など滅多にいない。

 車を停めたのは小高い場所で、そこから浜に降りて行ける段がある。段から海までは、ずいぶん距離があるような気がしたが、足元には干からびた海藻や、ひとでの死骸がへばりついていた。


 満潮時には、ここまで海が寄るのだろう。

 わたしは段から砂に降り、そっと歩いてみた。

 ひんやりした空気が頬やむきだしの額に痛かったが、足元はほんのり温かだ。砂は曇天の下でも、きらきら細かく光を抱いている。


 どうどうと白いものを見せながら寄せてくる海に向かい、浅い足跡がひとつ、点々と続いていた。

 サンダル履きではない。足の指までくっきり見えるような、ちいさい足跡だ。だけど風が強いし、やがて海は満ちるだろうから、こんな浅い足跡など、あっという間に見えなくなるに違いない。


 つまりこれは、ごく最近つけられた足跡だろう――わたしはぼんやりと思い――もう一度目を見開いて、自分の足元に寄り添うように歩を進め、波打ち際まで続いている子供の足跡を凝視したのだった。


 ごく最近付けられた小さい足跡が、えんえんと、たった一人分、海へと歩いている。

 (いや)

 一瞬よぎった、濃い恐怖をあっけなく薙ぎ払った。

 

 行った足跡はこれだが、戻った足跡も必ずどこかにあるはずだ。

 浜は広い。

 波打ち際をはしゃいでかけてゆき、満足した子供は、ここからかなり離れた砂の上を、また走って戻っていったのに違いない。


 目を細めて、ちらちら光る砂を見渡す。

 波打ち際から少し離れた場所に、いくつか砂山ができている。

 ざざん、ざざん――もう少しで海の手が砂山に届くだろう。そうしたら、小さい子の作品群は、あっという間に消滅する。


 わたしはまた、歩を進める。

 短い髪の毛を、沖からの風が乱していく。後ろへ、後ろへ押し返すように風は吹く。

 強い風を正面から受けると息が詰まるようだ。

 

 曇天と海の間のラインを見る。目をすぼめて眺める。

 なにか、時間の逆流を思わせる。

 海からどんどん風が流れてきて、わたしは流れに逆らって押し戻されそうになりつつも、やっぱり海に触れたいと思う。歩みを止めない。わたしの後ろにできた足跡は、さぞかし深かろう。

 ざくんざくん、ショートブーツの足元は良い音を立てながら沈む。

 時間の流れを踏む。この砂は、この丸い石たちは、海に運ばれてここにある。

 きっと、気が遠くなる程の時間を経て、ころころと丸くなった。そして今、わたしの歩くこの浜に埋もれている。


 海の中を、この石や砂は、見て来た。



 乾いた白から、濡れて重たい黒い砂に足を踏み入れる。

 とたんに足元の感触は軽くなり、平らな場所をするする歩くようになる。

 波はどんどん寄せてくる。

 ジーンズが濡れるのを避けながら、適度に距離を保ちつつ、良い場所を探す。


 ああ、あった。

 小さい足跡が波打ち際から現れて、白い砂を踏んで陸地に戻ってゆくラインが見えた。

 さっきの子供の足跡に違いない。


 きっと、見守っていたママかパパから、もう帰るよ、とか、おやつにしよう、とか、言われたのだろう。

 わたしは少し笑う。懐かしい感じがする。磯のにおい、どこかぬるい砂、風――タオル地のワンピース一枚で、走り回って――ちょうどこんなふうに、足跡を残したのに違いないのだった。


 わたしは裸足になりたがったから。

 夏の砂が焼けるようでも、サンダルをぬいで走りまわった。

 石や貝殻を集めて持って帰って、いつの間にかぜんぶ捨てられたけれど、また海に来たら集めて帰った。

 

 やせっぽちの、ちっちゃい女の子が海から飛び出してきて、黄色いサンドレスをひるがえして、小鳥のさえずりのような笑い声を残して、あっという間に砂浜を駆けてゆく。

 そんな幻想を見た様に思う。

 女の子の小さい体は、振り向いて見送るわたしから離れるにつれて、ごく自然にすくすくと伸びてゆき、段に足をかける頃には、ショートブーツにジーンズ、安いパーカーを纏った後姿となって消えた。


 

 わたしは目を細めて、彼女が消えたあたりを凝視した。

 それから再び海に向き、ゆっくり波打ち際に近づくと、しゃがみこんで、パーカーの袖が濡れないようにしながら、ぴちゃんと指で触れたのだった。


 海との握手。


 その水は海の一部であり、巨大な記憶の一粒である。

 それは太古の昔から続いたなにかであり、命を産み育てたり、護ったり、あるいは、荒々しくたけり狂っては、無造作に全てを奪っていった。

 

 じゅうっ――真っ黒い空の下で真紅に輝くマグマの河が流れ込み、激しく煙を立てる。

 まるで地球の血だ。

 海はその血を受けて、静かになだめた。


 最初の命が芽吹いた時、海はどんな表情だったろう。

 生まれて、分裂して、死んではまた生まれて、食いあって、合体して、また分裂して。

 巨大な子宮の中は、青い羊水で満たされ揺れていた。そうに違いない。


 沖からわたしに吹き付ける風の力が荒くなる。

 もう戻れと告げている。

 ごうごうと音が強くなる。

 わたしはそっと、立ち上がる。


 

 最初の命から、今のわたしが繋がっている。

 小さい足跡から大きな足跡になるように、途切れることなく繋がっている。

 

 海は全ての記憶を網羅している。

 海の水。

 太古の命も現在の争いごとも、あらゆるものが、ぎゅっと濃縮された、ほんの一滴。

今はここに戻ってはいけないと、海が告げるなら、

人類はまだ、存続する。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  海の字には母の字が、と、詩人の言葉を思い出させてくださいました。  今まで積み重ねられてきた生命の糸、繋がってきた歴史。海は色を変え、成分が変わってきても、命のゆりかごであることには変わ…
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