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breath(e)

作者: 冴草


 青年が暗い部屋でひとりブラウン管テレビの画面、そのゆるやかでとめどない明滅をぼんやり眺めている。うしろに置かれた金魚鉢に、もたれかかるようにして床に座っている。彼は肩の凝りをほぐすように数回上下させ、再びもとの体育座りの格好に戻った。

 やけに大きな窓の外は濃い藍、ときどき泡と大小さまざまの魚たちが通り過ぎることからどうやらかなり深い水のなかであるようで、彼方にそびえる鈍色の摩天楼はごてごてとネオンで飾り立てられている。

 それらの隙間を縫うように泳いでいた大型の深海魚の群れからひときわ立派で禍々しい個体が飛び出し、青年の部屋の窓へ猛然と突進を仕掛けた。がつん。さしもの耐圧強化アクリルのパネルも、こうした事態を想定して設計されたわけではないらしく、かなり重い音が響く。不細工で無骨な、醜悪とも言うべき魚影が、理由も知れない明確な敵意を伴って透明の板一枚の向こう側をうろついていた。しかし青年は身じろぎひとつしない。なにかに飽いたような、もしくは諦めたような、そんな表情で丸まっていた。

 この若者は、青年と呼ぶにはやや幼すぎる年恰好で、だが同時に少年として区分するのは躊躇われる佇まいでもあり、やはり「青年」としたほうが勝手がよさそうなこの若者は四畳半の、寸分の狂いもなく中央にじかに腰を下ろしている。背中はスイカ大の金魚鉢にあずけていて、視線は四角く時代錯誤の感の否めないテレビに注がれて揺らがない。画面左上に、現在時刻と思しき数字の列が表示されている。三時二十三分八秒、九秒、十秒……。

 どうやら故意に電気を消しているらしい手狭な個室の光源は窓外のネオンとテレビだけなのだが、いまだ突進を繰り返している例の巨大魚に遮られたせいで、生憎外界からの光の供給はほぼ絶たれてしまっている。唯一残ったブラウン管のきらめきは、あたかも銀残しを施したフィルムの映像のように、家具らしき家具の見受けられない室内の寒々しさを際立たせ、座り込む青年と彼の陰からはみだした金魚鉢の一部分、それから廊下へと続いていると思われる扉を、かろうじて照らし出していた。

 青年の背後に人影が立ち現れている。まばたきすら追いつかぬほどの一瞬の出来事だった。画面の発した光がにわかに強くなり、それがために暴かれたこの第二の人物の素顔は紛れもなく、膝を抱いてテレビを眺める青年のものと同一であった。

 後から現れた彼は無感動に彼を見下ろしている。煙か幽霊、はたまたイリュージョンじみて湧出しておきながら、まるではじめからそこに存在していたかのような自然さすら放っている。

 歪んだ造形の無法者がアクリル板を破壊せんと試みる、がおん、ごつん、という音が響くのみの時間が過ぎていった。何故か魚は先程よりも倍近く膨れ上がっている。それに気づいているのかいないのか、ふたりの彼らは互いに動く気配すら見せない。画面の時刻表示は、四時十七分三十一秒、二秒、三秒……。

 「ねえ」

 永劫ともいえる沈黙を破ったのは、しわがれて熱のない声だった。いったいどちらの彼が発した呼びかけであったのか判然としないが、外見に従うなら青年は彼で、彼もまた青年であり、ということはふたりともまったく変わらない青年であって、この夢であるかすら判らない悪夢のような不可思議の同一時空間上で並列され存立しつづける彼なのだ。畢竟どちらの投げかけた問いであったかという問いは意味のある問いではなくなり、むしろ何の先触れもなく彼らが真正面から相対して座っているという状況が発生したことのほうがよほど一大事であった。

 「このなかもやっぱり苦しいのかな」

 一方はテレビを、もう一方はくすんだ青に染まる壁を背に、やはり体育座りで床にじかに坐している。双方のあいだには、不要な干渉を阻むかのように金魚鉢が据えられている。相変わらずどちらの声帯が震えているのかはわからない。しばらくしてから応答した声もまた、どちらのものか不明であった。

 「だいじょうぶだよ。開け放たれたところで、隔たりのないひろがりのうちで、または果てのない水のなかで呼吸していくよりずっと楽さ、俺はそう思うよ。俺が思うなら俺であるお前もそう思うよね。

 でも残念、俺はまた逃げるよ。ごめんな俺」

 一方の姿がかき消えた。殺風景な座敷牢に、ぽつねんと青年のひとりがとり残される。壁を背にしていたほうの青年だ。遮るものがなくなり、必然的に彼は金魚鉢を挟んでブラウン管テレビと向き合うかっこうになる。映像も時刻表示も、砂嵐に覆い隠されている。金魚鉢をそっと足元に引き寄せて、臆病な獣を扱うかのように撫でながらじっと待つ。

 そのうち画面は安定を取り戻し、またなにかがはっきりと映し出された。青年だ。また青年である。膝を抱いてうずくまり、内と外を分断するものを貫いてこちら側まで見通すような目をしていた。

 「逃げたと思ってるのはお前だけだよ」

 こちら側の青年がひとりごちた。画面の向こうに語りかけているようで、今ここにいる自分に言い聞かせているようでもある。どちらでも同じことだと考えているのかもしれなかった。例のごとく深海魚は攻撃の手を緩めていないが、青年の真剣な面持ちと声音は崩されない。

 「うまく先延ばしにしてるつもりなんだ、わかるよ。僕もそうしたしそうしつづけてきた。でも駄目なんだよ、いつかはぜったい順番が巡ってくる。気づいたときには自分自身のつむじを見下ろしてる。俺にとっては今がそのときで、これからどうなるか、どうするかもわかってる。お前がそれを始めて何度目かは知らないけれど結局こうするしかなくなる、そういう俺なんだ」

 水差しから雫を落とすようだった呟きが、さいごは悲痛な色さえ帯びたものとなっていた。けれどもテレビの映像は静止画のようで、何の反応も示さない。

 がおん、がひどく大きくなっている。ようやく青年が音のする方角を見やると、いまや鯨ほどに膨れた深海魚の影が、かなり大きく作りつけられたはずの窓一面を覆っている。このままだとあの化けものは、あと数回の突進で窓に罅を入れるだろう。そうなればたとえ強化アクリルでも確実に水圧で吹き飛び、部屋は水没する。

 仕方がないよな、と青年はぼやいた。やつも悪気があるわけじゃない、ただ水のなかでは息ができないこっちのことは考えずに、隔たりを取り除いてくれようと余計な世話を焼いているだけだ。

 ほおっておいたって、俺は溺れかけてるのに。

 がおん。いよいよ激しさを増してきた。彼はスイカ大の、がおん、頭蓋さえすっぽり納まりそうな金魚鉢を両手で持ち上げた。ずん。がおん。空っぽだったはずの内側には、いつの間にか形容しがたい色のナメクジが大量に湧いている。がおん。赤とも青とも緑とも呼べない奇妙な肌で、がおん、その上から粘液で包まれてぬらりとしており、ごつん、暗闇のなかで、ごん、がおん、おのずから発光しているかのような輝きを放っていた。先の三つ又に分かれた触角を優雅に揺らしつつそれらが這うと、墨をたっぷりと含ませた筆で引いたような真っ黒な軌跡が残り、鉢に綺麗な縞模様をつくった。

 がおん。無数の生き物の重さが加わったガラスの鉢を抱えた青年、彼がまたなにか言おうとして口を開いたのと、ぴし、というかすかでかつ致命的な音が響いたのは、ほぼ同時であった。

 おおきな大きな窓が部屋の内側にむかって砕けそのむこうで循環していた藍色があらたに見出した隙間を埋めようと殺到し無感動なまなざしのままで箱の中の顔もどこか隅へ流され、青年はおもむろに金魚鉢を保持する二本の腕に力をこめるとさかさまにし高く掲げて、ナメクジまみれのそれを勢いよく頭に被せた。

 彼は水に呑まれ、荒々しい抱擁でもって歓待された。ガラスの内側では、自らの口端から漏れ出た泡がごぼごぼと泳ぎ回る。もがくナメクジたちが彼の口内に、鼻腔に、瞼の裏側に、そして耳道に潜りこみ、そして感じられるなにもかもが喪われ――


 映し出された映像はいつもどおりそこで停止し、また頭から勝手にリピートされはじめた。

 青年は暗い部屋でひとりブラウン管テレビの画面をぼんやり眺めている。窓のある方角から何かがぶつかる音がする。そちらには目もくれず、彼は凝りをほぐすかのように肩を大きく上下させ、もとの体育座りの格好に戻った。

 背中に当たる金魚鉢から伝えられた硬質な感触、その向こう側に何者の気配も現れないままで部屋を取り囲むうねりへと朝日の幾筋かが差し込むときを願い、同時にどこかでそんな望みを嘲りながら、青年はテレビの中の彼自身を、眺めている。画面左上の時刻表示は三時二十三分八秒、九秒、十秒……。

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