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ナンバー6

「いやはや、どうもどうも」

 彼は、軽くおじぎをして客を車に乗せた。

「どこに行かれますか?」

 彼は客の男性に問いかけた。

「…」

 黙ったままだった。

「あの~、お客さん。どちらに?」

「はっ、すいません。えっと…」

 男性は目が虚ろで、ぼーっとしていた。

「…青木ヶ原樹海に」

 小さい声で言った。

「はい、わかりました」

 彼はハンドルを握り、アクセルを踏んだ。

「そういえば、お仕事は何をなさっているのですか?」

「僕ですか?普通の会社員でした」

 下を向いたまま答えた。

「そうですか、では今は?」

「今は…」

 彼は黙り込んでしまった。彼の服装は、擦り切れたネルシャツに穴の開いたジーンズにスニーカーというものだった。

「それで青木ヶ原樹海にはどのようなご用件で?」

「それは…」

 またも彼は口ごもってしまった。言いにくそうだった。

「答えたくないときは答えなくていいですよ。そういうときは誰にでもありますからね」

 車は信号で止まった。

「おやおや、混んでいますね。少し時間がかかりそうですよ」

「そうですか…」

 返事はしたが、言葉を聞き取るのが難しいほど小さな声だった。


「青木ヶ原樹海は、富士の樹海とも呼ばれますよね」

 再び運転手は話し始めた。

「僕も行ったことあるんですけど、案外普通でしたね。『自殺の名所』なんて言われてますが、普通の深い森でしたね。そもそも、そんなイメージがついたのは、松本清張の『波の塔』で取り上げられたかららしいのですが」

「ず、ずいぶんと詳しいんですね…」

 彼は少し動揺していた。

「方位磁針が使えないというのも、実は嘘らしいです。青木ヶ原樹海は、溶岩の上にできたので地中に磁鉄鉱を多く含んでるので、少しは狂うことはあるかもしれませんが、使えなくなるほどではないそうです」

「は、はぁ…」

「今となっては、携帯も普通に繋がるみたいですよ。それと同じで、ハンディーGPSも使えるので樹海内の探索は結構容易にできるらしいです」

 今日の彼はいつもよりよく話している。客が話さないときは、運転手自身が話すことが多い。

「なので、『青木ヶ原樹海は自殺の名所』という神話は、もう時代遅れな気がします。『絶対に誰にも知られずにひっそりと自殺したいなら樹海』というのも通用しないと思います。多分、探索者にすぐ発見されてしまうので。世間がそういうイメージを植えつけてしまったから、自殺する人が増えてしまったというのもあるのではないかと」

 淡々と運転手は話し続けた。客の彼は、下を向いて聞いていた。少し足が震えているのがわかる。

「まぁ、まだ整備されてないところもありますからね。遊歩道を外れるとさすがに危ないです。100メートルぐらい離れてみたんですけど、あれはやばいですね。特徴のない似たような風景が続いてきて、だんだん足場が悪くなってまっすぐ進めないからなかなか元に戻れなくなるんですよね。僕はすぐ危険だと思って、引き返しましたけど」

 運転手は頭を掻いて、笑いながらそう言った。恥ずかしい話をしているかのように。

「ははっ、つまらない話でしたね。すいません」

 運転手は左手で帽子を直してそう言った。

「いや…わざわざ行き先についての詳しい情報を教えていただき、ありがとうございました…」

 彼は、そのとき初めて頭を上げた。

「おっしゃられた通り、僕は青木ヶ原樹海に、自殺に行こうと思っていました」

「そうでしたか。確かに、わざわざタクシーを使ってまで行くところではないですからね。察しはついていましたが」

「なんか、心の内を言い当てられている感じでした…。確かに、僕自身、自殺するなら樹海に行こうという、安易な気持ちでいました。それはやはり、『みんなそうしてるから』というのがあったからでしょう」

「そうですね。そのほうが、安心してしまいがちですからね」

 うんうんと頷いている。

「それを言い当てられたとき、どうもあなたはただ者ではないと思いましてね」

「いやいや、たいしたことはないですよ。この仕事長いですからね」

「そうであったとしても、なんかすごいと思いました。あの、僕の話、聞いてもらえませんか?」

 彼の目は、さっきまでの目と比べて、生気があった。

「どうぞ。僕はどちらかというと、自分が話すよりも、人の話を聞くのが好きなんですよ」

「それならよかったです。ありがとうございます」

 軽くお辞儀をして、彼は話し始めた。


「最初に言ったとおり、私は普通の会社員でした。…そうだと思っていました」

 含みのある言い方を彼はした。

「最初に疑問に思ったのは、残業するのが当たり前だと、上司に言われたときでした。残業代が出るわけではないのに、上の方から残業を押し付けられました」

 それはひどいですね、と相槌をうつ運転手。

「そのうえ休日返上も当たり前のような感じでした」

 はぁ、それはそれ、と相槌をうつ運転手。

「まぁ、それはなんとか耐え抜きました。このご時世、仕事があるだけでもありがたいと思っていましたから」

 そのとおりですね、と運転手。

「次に疑問に思ったのは、新入社員が試用期間中に退職していったときですね。いくらなんでも、それはおかしいと思いませんか?就職率が低下している中、そんなことがあるものかと思いました」

 運転手は頷いた。

「それから、だんだんと自分の会社に対して、疑念を抱くようになりましてね。その後も、次々とおかしなことが明らかになっていきました。有給をとらせてくれなかったり、労働組合がなかったり、福利厚生がなかったり、定年退職・円満退社をした社員がほとんどいなかったりと…」

 彼の体は震えていた。それは怒りで震えているようだった。

「さらにひどかったのは、自社製品、自社株の購入を強制されたことですね。普通の会社じゃあ、考えられないことですよね。そのとき思ったんです、ブラック企業、と」

 ブラック企業とは、従業員に劣悪な環境での労働を強いたり、関係諸法に抵触する可能性がある営業行為を従業員に強いたりして、必要があれば、暴力的強制も辞さない企業のことである。

「気づくのが遅かったです…。変だなと思ったときに、すぐに行動すればよかったんです…。そう気づいたとき、すぐに辞めようと思いましたが、なかなか辞めさせてもらえませんでした。「どこにも行けなくしてやるぞ!」などの脅しやがらせをされました…」

 彼は涙ぐんでいた。

「僕は、怖かった。その企業の脅しもそうだが、仕事をやめてしまっては、どうやって家族を養っていくんだ、と思うと、怖くて怖くて…。ただでさえ、不況だと言われているのに…。私はなかなか、そのことを家族に言い出せなかった。いつも笑顔で迎えてくれる、子どもたちを見ると、余計に…!ううっ…」

 彼は涙を手で拭った。が、次々と流れてくる涙を手だけでは押さえ切れなかった。

「それで、自殺を?」

「はい、そうです…」

 彼は泣き崩れていた。


「あなたは、いいお父さんですね。働き者で」

 運転手は口を開いた。

「もっと、家族の方に頼ってもいいと思いますよ。1人で抱え込むことはないんですよ。家族は助け合うものです」

「う、は、はい」

 彼は鼻声になっていた。

「でも、無責任ですよ、あなた。子どもを養うために働かなきゃと言ってたのに、今は死のうとしている。まぁ、苦しいのは、話を聞いている限り、痛いほどよくわかりました。でも、これで終わりにはならないと思います。あなたはまだ若い、再起だってできるはずです」

「ぼ、僕に、本当にできるんでしょうか?」

「大丈夫です。そんな気負うことはないです。そんな急ぎ足で、人生を走ることはないんです。一歩一歩確実に歩くことのほうが大事です」

 運転手は、後ろを向いて言った。

「それに…」

「それに?」

 運転手は少し間を置いた。

「自殺するほどのエネルギーがあるなら、ちゃんと明日を生きてください」

「あ…」

「自殺するよりも、明日を生きるほうが全然楽ですよ。だって、怖くないですから。死ぬのは怖いです、誰でも」

 朝日の光が、車の中に差し込む。

「うっ、うっ、は、はい!ありがとうございます!」

 彼は、深く頭を下げた。


「おや、いろいろ話していたら、着きそうですね。どうします?」

「ど、どうしましょう…。さすがに、戻るわけにはいかないし」

「確か、この辺りにバス停があるはずです。富士急行バスです。それに乗れば、富士吉田駅に行けます。あと、西湖の南に民宿があったので、そこを利用するのもいいかと」

 すらすらと、地図も見ずに運転手は言った。

「そうですね~。まだ、そんなに遅くないので、バスに乗って帰ろうかなと思います」

「わかりました」

 運転手はハンドルを切った。

「本当にありがとうございます。あなたは僕の命の恩人ですよ!」

「いやいや、そんな大それたものではないですよ。ただ及ばずながら、お言葉をかけただけですよ」

「その謙虚さ、見習いたいですね」

 彼はうんうんと頷き、関心していた。

「すいませんが、お名前を教えてはいただけないですか?」

「いやそれはちょっと…。過去にも何度か聞かれたことありますが…」

「そんな堅いことおっしゃらないで」

 彼は実に元気そうであった。

「そうですね…僕は職場では、タカさんと呼ばれています」

 やはり本名は名乗らなかった。

「タカさん、ですか。僕の名前は、伊藤慎です」

「慎さんですね。いい名前だ」

「それはどうも。タカさんか、職場ではどんな感じなんですか?」

「割と普通ですよ。仲のいい同僚や面倒をかけてる後輩もちゃんといますよ」

 運転手は微笑みながら言った。

「そうですか。なんか頼りになりそうですからね。きっと信頼されてますよ」

「そうですかね。そうだと嬉しいです」

 謙虚に笑った。

「そろそろ、バス停ですね」

「もうですか…。本当短い間でしたけど、ありがとうございました。よければ、また会いたいです」

 名残惜しいそうだった。

「そうですね。僕はいろいろなところを、この日産・セドリックセダンで走っていますからね。もしかしたら、また会えることがあるかもしれません」

「そうですか、じゃあそのときを、楽しみに待ってます」

 彼は笑顔で答えた。その笑顔はまぶしかった。

「はい、着きました。お疲れ様でした」

「どうも。またいつか!」

 そう行って、彼は車を降りて行った。彼が手を振ったので、運転手も振り返した。

「いやー、それにしてもグランジみたいな服装だったな」

 そして再び彼の車は走り出す。

 どこまでもどこまでも。


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