ナンバー5
「いやはや、どうもどうも」
彼は、軽くおじぎをして客を車に乗せた。
「どこに行かれますか?」
彼は客の男性に問いかけた。
「川崎病院に向かってください」
「はい、わかりました」
彼はハンドルを握り、アクセルを踏んだ。
「そういえば、お仕事は何をなさっているのですか?」
「普通の会社員ですよ」
彼はスーツを着ていた。ぴしっと着こなしていた。
「川崎病院にはどんなご用件が?」
時間は14時過ぎだった。途中で会社を出てきたのだろうか。
「実は、妻の出産に立ち会うことになりまして…」
彼は頭をかきながら答えた。
「そうですか。それはおめでたいことですね」
運転手は微笑みながら言った。
「あ、どうもありがとうございます」
軽くお辞儀をした。
「出産に立ち会うとは、抵抗はなかったんですか?」
「いや~、抵抗ありましたね。でも、『そばにいてほしい』と言われてしまってね。ははっ…」
彼は苦笑いしながら言った。やはり立ち会うのは少し嫌なようだ。
「少し緊張してるんですよね。情けないことに」
力なさそうに彼は言った。
「そうですか。確かに、結構衝撃的なものですからね」
「運転手さんも経験が?」
「昔の話ですけどね」
ははっ短く笑って答えた。
「なんか同僚から聞いた話だと、血がドバーッと出るらしいんですよ。血は苦手じゃないですけど、さすがにびっくりしますよね…」
彼は妙に姿勢よく座っていた。緊張して体が硬くなっているようだ。
「あと、妻がすごい顔して苦しんでるのはあまり見たくないかなぁ、なんて思ってるんですよね」
彼は口の周りを撫でながらそう言った。
「そうですね。僕はどちらかというと、夫は妻の出産に立ち会ったほうがいいと思ってます。あなたが不安である以上に、彼女は不安だ思います。特に何もしてあげられなくても、そばにいて、見守ってあげるだけで、力になれますよ」
運転手は励ますように彼に言い聞かせた。
「そうですか。こんな弱気な気持ちじゃ、妻に申し訳ないですよね。はい、ありがとうございます!」
彼は深くお辞儀をした。
「いやいや、そんなたいしたことは言ってないですよ」
「謙虚ですね」
彼は感服したように言った。
「そういえば、もうお子さんのお名前は決めたんですか?」
「はい、決めました。美桜という名前です。美しいと桜という字です」
「それはそれは、可愛らしい名前ですね。美桜ちゃんですね」
「ははっ、少しシンプルな名前かなぁと思っていたんですけどね」
車内は笑い声が響き、和やかな雰囲気になっていた。
大きな病院が見えてきた。
「病院が見えてきましたね。中入りますね」
入り口まで車は入っていった。
「はい、着きました。ここでよろしいですか?」
「はい、ありがとうございました。いい言葉を頂きました」
お金を渡すとき、彼は軽く運転手と握手をした。
「いやいや。お気をつけてください」
「本当にありがとうございました。では」
そう言って彼は車を降りて、病院へ走っていった。
「いやー、それにしても難しそうな男性だったな」
そして再び彼の車は走り出す。
どこまでもどこまでも。